『未成年者のタバコの害について』 近年、国内の喫煙者は低下の一途を示している。ビジネスシーンにおいてはすでに喫煙はイメージの劣化要因とみなされつつある。特に未成年においては… 市川先生は、配布したプリントを丁寧に読み上げた。 途中からプロジェクターまで持ち出したりして、『高校生はタバコを吸ってはいけません』というメッセージを、繰り返し繰り返し説明した。 『未成年者の喫煙の禁止。』 それが、このホームルームの趣旨だった。 ◇ あまりの予想外に、僕は拍子抜けしていた。 いじめの問題など、カスリもしない。 それどころじゃない。 先生は話の途中、何度も影山たちに鋭い視線を投げている。 きっとなにもかも分かっているのだろう。 振り返って見ることはできないけれど、影山の呆然とした表情が目に浮かんでくる。 ふはははは、ざまあみろ。 影山のセリフを思い出す。 『ホームルーム開いてくれてよかったなー』とか何とか。 突っ込みどころがありすぎて笑いがこみ上げてくる。 ばかなやつ。自業自得だ。 さっきまでの憎悪がすーっと薄らいでゆく。 とりあえず市川先生、色々疑ってすみません! ◇ 先生の話はなかなか終わらなかった。 チャイムがなってもお構いなしに、今度は先生自身の体験談が始まってきた。 大変なヘビースモーカーだったのが肺を悪くして入院とか。 結果として壮絶な禁煙生活とか。 で、それがけっこう生々しかったりして聞いているうちに気分が悪くなってきた。 「ちょっとえげつなくない?」 「いや、しかしわしはもう帰りたいんじゃが…。」 いや、そこじゃないけど。 そういえばさっきも、早く帰りたいとか言ってたっけ。 よくみるとゴルゴの様子がだいぶそわそわしている。 確かに、もうとっくに六時間目が終わっているのに、先生の話は変に熱を帯びてなかなか終わりそうにない。 早く帰るつもりだったゴルゴがいらだつのも分からないではない。 さっきとは全く別の次元で、僕はこのホームルームが心配になってきた。 ◇ 「…さて、以上だ。ちょっと時間オーバーしちゃったな、みんなもくれぐれもタバコはやめておきましょう。ろくなことがありませんからね!」 と、先生の話は最後に影山達をみすえてキッと締めるように言い終えた。 ともあれ気がかりだったホームルームは無事に終了。 ほっとした思いで帰り支度を始めた時だった。 「えーっ、せんせー、ちょっと待ってよー。」 影山の粘ついた声が、教室全体に響き渡った。 「このクラスのイジメ問題は話し合わなくていいんですかねー。」 おもわず、がばっと振り返った。 …な。 苦し紛れに何を言い出すんだ、こいつ…。 「先生も知ってるはずじゃないですかー。権田君が安芸君に暴力をふるっているのをー。」 ◇ 影山はいすにふんぞり返ってふてぶてしさ全開だ。 それはそうだろう。 しかし、そうは言ってもこんな無理矢理が通ると思ってるのか? 「いい加減にしろ、影山。今日はもう終わりだ、終わり。」 先生はろくに取り合わず、さくさくと片付けを始めている。 「えええ!まじ無視かよ!イジメを見て見ぬ振りって?それでいいのかよー!」 影山は一人で騒ぎだした。 まるで子供のわがままだ。 クラスのみんなも帰ろうとする矢先だったから、誰も相手にしない。 「カゲヤマ君、寒ぅ。」 と、聞こえるようにつぶやく女子。 「おいおい、早く終ろうぜー。」 と、かったるそうに声をあげる男子。 大丈夫だ。 みんな影山に嫌気がさしている。 このまま、何事もなく終わるはずだ。 何事もなく…。 ところがそうした最中にたった一人、平然と帰ろうとする生徒がいた。 当のゴルゴ自身だった。 ◇ ゴルゴが、ゆるゆると直立してゆく。 一番前の席でこの身長。 さらに影山が標的にしている本人の突然の行動に、みな、自然と口を閉ざしていった。 静まりかえった教室に、ゴルゴのすまなそうな声が響く。 「先生、すまんがワシ、もう帰ってもええかの。」 先生はやや動揺しながら、 「おお…、そうだな、いいぞ、もう終りだからな。」 それから、 「みんなも早く帰れよー、もう終りだ、終りー。」 と言って、おおげさに手を振って散らすような仕草をした。 でも誰も帰ろうとしない。 唐突な出来事の連続で変な緊張感が生まれている。 結局クラスの全員が見守る中、ゴルゴ一人だけがたんたんと帰り支度をしているという状況になった。 静まった教室の中に、ゴルゴのイスをひく音が高々と鳴る。 前の扉は出しっ放しのスクリーンでふさがれていたため、ゆっくりと後方の扉へと歩き出す。 後ろには影山の席がある。 影山が、不敵な笑みを浮かべて待ち構えている。 ゴルゴとの距離が縮まる。 あと三歩…。 二歩…。 そして、ゴルゴが影山の席の横を通り過ぎようとする瞬間だった。 突然影山がゴルゴの行く手をさえぎるように、右足をドンと投げ出した。 「あれあれ?ずいぶんお急ぎのようで。なんで?なんで?」 ゴルゴは一切相手にしなかった。 黙って、影山の足をまたいで行こうとした。 影山は席についまま、おどけたような表情でゴルゴを見上げた。 「もしかして家に用事でもあるの?あれ?用事?ようじ?幼児?ようじって、もしかして赤ちゃん?」 ゴルゴの表情が、ぴたりと強張った。 緊迫が、教室の中を走りぬけた。 「あれあれ?何この反応、マジ図星?赤ちゃん家で待ってるの?」 言いながら影山は両手を目に当てると、泣くようなしぐさをした。 「ぶえーん、ぶえーん、パパぁ、はやくかえってきてよぉー!とか。あははは!」 そして、投げ出した右足を振り上げて、ゴルゴのカバンに引っかかっている帽子をパンと蹴りあげた。 と、次の瞬間だった。 ガタンッ! という激しい音とともに、影山の椅子が後方に吹っ飛んだ。 同時に異様な光景がそこに出現した。 ◇ ゴルゴの前に、影山の体がぶらぶらとたれ下がっていた。 影山は呼吸が苦しいのか、ゴルゴの前でひたすら足をバタつかせている。 ゴルゴの太い腕が瞬時に影山の胸元をつかみ、締め上げたのだった。 あまりにも突然のできごとだった。 誰も何も、どうすることもできなかった。 静寂が教室に漂った。 ゴルゴがゆっくりと、顔の高さまで影山を降ろす。 そして、その目の奥をぎょろりとのぞきこむと、地の底から湧き上がるような低い声で、ゆっくりとつぶやいた。 「お前ェ、ほんまにええ加減にせえよ。」 言い終えた瞬間、いきなりゴルゴの体が大きく旋回した。 同時に影山の体が、まるでバスタオルかなにかのようにぐるんと宙を踊った。 そのまま激しい回転とともに掃除ロッカーへと突っ込んでゆく。 ばああああああん! すさまじい爆音が鳴った。 悲鳴があがった。 ほぼ全員の生徒が一斉に立ち上がった。 椅子の床をこする音が割れそうなほど鳴り響いた。 女子達が悲鳴をあげて窓際に逃げた。 男子達が二人の間に駆け寄った。 あるものは影山の方に、あるものはゴルゴの方に。 「やめろ!もういいから全員帰れ!」 先生が血相をかえて、もみくちゃになりながら、二人の間に割って入っていった。 大変な騒ぎになった。 他のクラスの生徒も様子を見に来た。 「何?何?」 「喧嘩だ、喧嘩」 そんな声が、廊下にわらわらと広がって、野次馬がごったがえした。 爆心地では、影山が頭を振りながら起き上がっていた。 にやけた笑いでゴルゴを眺めている。 怪我とかはなさそうだった。 ゴルゴは数人の生徒に押さえつけられていて、まるで気が抜けたように、扉の前に張り付いていた。 市川先生が人ごみをかき分けながら、影山の前に座り込んだ。 「影山、大丈夫だな、あとでお前に話がある。」 それからゴルゴのほうに歩み寄ると、その肩にそっと手を置いた。 野次馬の喧騒が、息を潜めたように少しずつ静かになっていった。 先生はしばらく下を向いてじっと何かを考えた後、ため息をつくような小さな声で、 「とりあえず権田、今日はもういいから帰れ。」 とだけ言った。 ゴルゴはすまなそうに頭を下げると、背中の扉をあけて、野次馬のごった返す廊下に出て行った。 僕は…。 僕はただ、ぼうぜんと自分の席に突っ立っていたが、ゴルゴが廊下に出るのを見とめるとようやく我に返った。 あわてて帰り支度をまとめると、喧騒をよそにそっと前の扉に向かった。 ゴルゴの後を追いかけなければ。 別に何をどうしようというわけではないけど、ただ直感的に体が動いていた。 前の扉から出ようとスクリーンをくぐろうとした瞬間、ふと視線が勝手に速水さんのことを探していた。 そうだ速水さん、この騒ぎの中どうしているだろう。 驚愕や、うろたえや、嘆きや、萎縮。 いろいろな表情を瞬間的に思い浮かべながら、僕は速水さんの姿を探した。 ところが実際にはほとんど探すまでも無かった。 速水さんはいつもと同じ席に、いつもと同じように、普通に座っていたからだ。 ただ、その「普通」が、どこか正常じゃない…。 思わず息が止まった。 速水さんは、自分の席で頬杖をついている。 騒ぎを見ている様子はない。 気にしてもいない。 どうでもいいような窓の外を、見つめている。 この状況で・・・? なんで・・・? いろいろな疑問符が頭の中に散乱した。 でも今はゴルゴの後を追いかけるのが先決だ。 僕は教室を飛び出すと、階段のほうに消えていくゴルゴの後姿を、早足に追いかけた。 第十章 五郎丸、怒る 終わり
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