言葉の暴力という言葉がある。それに倣っていうならば、アレは、光景の暴力、とでも言おうか。視界に入れただけで、打ちのめされるような、一度経験してしまえば、二度と経験したくないと思わせるような、そんな暴力だった。 あの後。 俺はどうなったかあまりよく覚えてない。気がつけば、明鏡寺先輩に介抱されていた。そして、気がつけば、明鏡寺先輩に家まで送られて、気がつけば、自分の部屋にいた。 あの酷く凄惨な光景を目の当たりにして以降、俺は家に引き籠もって、日々を浪費していた。学校に行かず、ずっと家で、自分の部屋で、過ごしていた。一歩も外に出ず、自分の世界に閉じこもっていた。これから先ずっとそうして生きて行くんじゃないかと、冗談ではなく、思っていた。 だが、それは叶わぬこととなった。 「きみの受けた衝撃を私にも共有させてくれ」 そんなメッセージが、俺のスマホに残されていたからだ。 学校に来いというようなことは書かれてない。 大丈夫か、と身を案ずるようなことも書かれてない。 書かれてあるのは、そのたった一文のみ。 だが、それだけで充分だった。 二週間に渡る不登校生活を終えるには、充分すぎる言葉だった。 永遠にも続くかと思われた引き籠もり生活にピリオドを打ち、二週間振りの登校。 教室に登校すれば、クラスメイトの視線が集まることは必至だろう――俺の足は自然と教室に向かうよりも先に、まずは部室へと向かっていた。まだ早朝と言える時間である。生徒はぜんぜんいなかった。グラウンドの方で部活の朝錬をしている連中の声が聞こえるくらいで、校舎内には生徒一人見当たらない。 例によって、まずは職員室へと向かう。生徒はまだ来ていなくても、職員室に人はいた。鍵を受け取るために、職員室へとお邪魔するが、しかし、部室の鍵はそこにはなかった。と、なると、部室には人がいるということである。ここまで来て家に帰るというのもなんだか格好悪い話だったので、俺は仕方なく、そのまま部室へと向かうことにした。 「やあ。随分早い登校じゃないか」 部室に入ると、そんな声によって迎えられた。 メガネカタログを手に、席に座っているのは、なんだか妙に懐かしく感じられる偉大な先輩の姿だった。 「明鏡寺先輩……どうして、ここに」 「最近は、朝早くからここで過ごすようにしてるんだ。もしきみが来るようであれば、教室ではなく、まずこの部室へと足を運ぶだろうと思ってね」 「……」 どこまでなんだ。 この人は、どこまで――。 「新しい眼鏡に替えたんだな。あのときは言いそびれてしまった、というより、そんな暇はなかったから、今言っておくよ。――眼鏡、似合ってるぞ」 「……」 「どう反応すればいいか、わからないか。まあ、あんなことがあれば、無理もない。とはいえ、ここに来たということは、心の整理はついたんだろう?」 「……はい。おかげさまで、充分に、休むことができました」 「何があった?」 俺はその言葉を待っていた。 明鏡寺先輩は、俺を介抱したとき、何があったのか、などとは訊かなかった。あのときは、何も聞かず、家に帰してくれたのだった。きっとすごく心配させたように思う。人が良いのだ、明鏡寺先輩は。だから、明鏡寺先輩の立場からすると、もっと早く訊きたかったはずのそれも、今になって訊くのだろう。 テーブルを挟んで明鏡寺先輩の正面の席に着くと、事件があったときのことを詳しく説明した。あの日のあの光景は思い出すだけで胸が締め付けられるような思いだったが、明鏡寺先輩にできる限りのことを伝えた。 「そういう、ことだったのか……」 第一声。 明鏡寺先輩は、驚きを隠せない様子で、そう呟いた。 そして、それきり。明鏡寺先輩は沈黙していた。 口を開いたのは、数十秒経った後だった。 「ちょっと確認したいことがあるんだが。さっきのきみの話では、部室は鍵を使って開けた、ということらしいが、鍵は職員室にちゃんとあったのか?」 「あ、いや……、実はなんですが……」 俺は、あの日の朝の出来事も含めて、明鏡寺先輩に話すことにした。あの日の朝は、柑森と部室で過ごしたこと、そして、部室の鍵は閉めたものの、鍵を職員室に返すのを忘れていて一日中ずっと自分が持っていたということ。要所要所を掻い摘んでの説明だったが、明鏡寺先輩が、ちょこちょこ詳しい話を聞いてくるので、結局、あの日の朝にあったことについて、覚えている限り、明確に、事細かく教えることになった。それはまるで、探偵に尋問をされているかのような気分だった。 「なるほどね……。職員室に鍵が置いてあったならば、誰が鍵を取りに来たのかを先生にでも訊けたのだろうが、その話を聞くに、それはアテにならないな」 「すみません……」 「いや、忘れることはよくあることだ。人間は忘れる生き物であり、そして慣れる生き物だからね」 それはどこかで聞いたような台詞だった。 「しかし、それにしても妙な話だな……。鍵はずっときみが持っていたんだろう? それなら、誰もこの部屋に入ることはできなかったってことじゃないか」 それは……言われてみれば、そうだった。 どうして、そんな簡単なことを失念していたのだろう。自分が思っている以上に、気が動転していたのか。 ……ん? ちょっと待て。 俺がずっと鍵を持っていた? それならば、おかしい。それは、矛盾している。 「ちょ、ちょっと待ってください。それならどうやって、硝子さんは――」 命を、落としたというのだろうか。 「密室殺人」 明鏡寺先輩は呟いた。 「――そういうことになるな」 密室殺人――その用語自体は知っている。誰も入ることができない空間で人が殺される、という不可能犯罪の一種だ。ミステリ系の本で、そういうのは読んだことがある。 でも、だからって。 現実で、起こり得るのか……? 事実は小説よりも奇なり。 いつか誰かが言っていたあの言葉が蘇る。 「……しかし、誘拐の次は、殺人か」 明鏡寺先輩がぽつりと呟くのを、俺の耳は聞き逃さなかった。 「そういえば、きみ。まだ返ってきてない眼鏡はどうなったんだ? 彼らは、返ってきたのか?」 「いえ、それが、まだ……」 「そうか……」 「明鏡寺先輩の方は、何かわかりましたか?」 「いや、残念ながら進展はなかったよ。……しかし、犯人は誰なのか、おおよその目安はついている」 「え……そうなんですか? は、犯人は、一体、誰なんです?」 「具体的な名前は出さない。だが、間接的に彼らを容疑者として挙げることは可能だ。端的に言うと、だね――この部室に縁がある者こそが、犯人である可能性が非常に高い」 「…………」 「私が具体的な名前を出さない、と言った意味が、わかっただろう? 身近な人間を容疑者として挙げるのは、いくらなんでも気が引けたからね。しかし今回の件ではっきりしたよ。誘拐と殺人――二つとも、部室で行われているんだ。何の関係もない第三者が入り込む余地はない、そう考えるのが自然だろう」
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