ホランイの恋人
まどか けん兄ちゃんの話

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 ごはんをたっぷりご馳走になったあと、なか姉ちゃんはよく、三階にある自分の部屋にまどかを招待してくれた。  勉強机と箪笥がひとつ、窓のカーテンはオレンジ色で、メタリックブルーの昆虫みたいなCDデッキの横には少女漫画の雑誌や本がたくさん並べられていた。 「なあマーちゃん、これ聞いてみる?」  初めてその部屋でかけてもらったのはスピードのシングルだった。自分と同じ小学生で、メインボーカルのヒロコが宇宙を切り裂くみたいな声で愛を叫ぶのを聞きながら、小学生の自分が恋についてや愛についての歌詞を聞いたり口ずさんだりすることに気分が高揚し、勝手に大人になったような気持ちになっていた。なか姉ちゃんは、ほっぺたがとてもなめらかで、隣で眺めているとどきどきした。なか姉ちゃんを好きになる男の人はたくさんいるだろう、と思った。 「けん兄ちゃんがな、MDコンポ買ってもらったから、まどかがこれもらってん」  なか姉ちゃんはCDデッキを撫でながら嬉しそうに言った。 「マーちゃんも、聞きたい曲があったら、けん兄ちゃんに借りたるで」  自分の聞きたい曲がなんなのかわからなかったが、そう言ってもらえるだけでなんだかとてもわくわくした。 「これ面白いねんで、読んでみる?」  なか姉ちゃんがそう言って貸してくれる本や雑誌を持ち帰って読むと、ママの帰りが遅くて時計ばかり見ていたひとりの時間が、とても有意義で楽しい時間に変わった。 「まどかって、本、すきなの?」  ママはまどかが借りて来た本をちらりと見て、不思議そうにそう言った。まどかがちいさく頷くと、ママはへえーと少し大袈裟に声を出し、けれどそこから先、なにか聞いてくるわけでもなく、もちろん本を買ってくれるようなこともなかった。  ママの洋服はどんどん派手になっていった。  化粧も目元が濃くなり眉は明るい色になった。ピアスは大きく安っぽいデザインのものを好むようになった。  それなのに、裸足にサンダルや部屋着のズボンでスーパーやコンビニへ買い物に出掛けることは平気になったらしかった。  まどかのママはあいかわらず料理をしなかったが、仕事の帰りにたこ焼きやイカ焼き、チャンジャや大根キムチを買ってくるようになった。  マッコリってなんかヤクルトっぽいのよね、とママは言った。わかりやすくこの町に溶け込もうとしているように見えるママが、まどかには素敵に見えた。  なか姉ちゃんのおうちでご飯を食べ、なか姉ちゃんの部屋で過ごす放課後が好きだった。  なか姉ちゃんの部屋の向かいにドアがあり、そこが、けん兄ちゃんの部屋だった。  なか姉ちゃんの部屋に長居して、ようやく自分のうちに帰るとき、偶然けん兄ちゃんが部屋から出てくることが時々あった。そのときだけ、けん兄ちゃんの部屋の中が一瞬覗いた。  青いチェックのカバーのかかった布団とベッド、勉強机にくっついたまま動かないように見える国語辞典や英和辞典、MDコンポ、けん兄ちゃんが自分で壁を殴って穴を開けたのを隠している世界地図、いつも空っぽの黒いプラスチック製のゴミ箱。  なか姉ちゃんの部屋とはまったく違う空気で満たされているように見えるその光景が、目に焼き付いて離れなかった。  帰り際にけん兄ちゃんと出くわしてしまうとその日の夜はなかなか眠れず、けん兄ちゃんの部屋のドアを見つめると、まどかは、なぜか胸がじっと痛くなった。  まどかはけん兄ちゃんが好きだった。  その好きは、なか姉ちゃんを好きだという気持ちやオンマを愛するような気持ちとはまた、違う種類のものだった。  同じクラスにいる男の子たちはけん兄ちゃんに比べればずっと子どもで、もちろんまどかもけん兄ちゃんにとっては子どもだったが、まどかはあと十年もすれば、けん兄ちゃんは自分を女として見るようになるのではないかと予想してもいた。それは例えばアパートの一階のおじさんが、中学生になったなか姉ちゃんを、上から下まで舐めるように見ることからも想像できた。まどかはけん兄ちゃんに求められることをひそかに夢見ていた。  なか姉ちゃんとけん兄ちゃんの名前を出してさえいればクラスの男子から意地悪をされることなどなかったが、それでもけん兄ちゃんは、まどかが最初いじめられていたことを知っているからか、いつも過剰なくらいにまどかのことを心配した。  心配してもらえることが嬉しくて、まどかは自分が多少なりとも強くなったことを隠すようになっていた。  罪悪感はなかった。強くなったとはいえ、まどかが男の子相手に「はあ? なにいうとんねん」と言えるようになったことくらい、けん兄ちゃんの強さの足元にも及ばないからだ。  ある日、けん兄ちゃんは自分が通っている高校のバッジ、制服の首のところにつける小さな銀色のボタンくらいの大きさのそれを食事のあと、こっそりまどかにくれた。 「オンマに言うなよ。俺、しばかれるから」 「けん兄ちゃん、これ、どうしたらいいん」 「これな、他の高校のやつに売ったら五千円で売れるらしい。やばいやつに絡まれたら、これ見せたら一発やねんて」  けん兄ちゃんはそう、得意げに言った。直径わずか一センチほどの三角形の、銀色のバッジ。こんなものが五千円で売れるなんて、にわかには信じられなかったが、そんなにも価値のある大切なものをけん兄ちゃんが他でもない、まどかにくれるということが嬉しかった。 「ほんまにいいん? まどかがもらっても」 「ええよ。けど、ぜったい売るなよ」  すこし笑いながら、ぶっきらぼうにそう言ったけん兄ちゃんは、いかにも頑丈でかたそうな体つきをしているのに、まるで女の赤ちゃんみたいに可愛らしかった。  まどかを可愛がっているつもりであろうけん兄ちゃんを撫でたかったし、可愛いと思ったことを伝えたかったが、もちろんそんなことはできなかった。 「ありがとう。大事にする。お守りにする」  まどかはそのバッジを、自分の名札の裏側にこっそりとつけた。  その年、けん兄ちゃんには彼女ができた。髪が綺麗で、けん兄ちゃんと同じくらい背が高く、トレーナーの上からもわかるくらい胸が大きいひとだった。  もちろんけん兄ちゃんはそれを触っているだろうし、髪や顔と同じくらい胸も好きに違いない。そう思うと、ますます自分のみすぼらしい身体がいやになった。近所の公園でふたりが会っているのを何度も見た。  ソンベに女ができたらしい、しかも美人で巨乳らしいという噂はたちまち広まった。  けん兄ちゃんと同じ学校に通う生徒で、けん兄ちゃんが一目ぼれしたらしいでと、なか姉ちゃんがこっそり教えてくれた。みんながその子を狙っていたのに、けん兄ちゃんがゲットしたらしい。  けん兄ちゃんに好きだと言われるのはどんな気持ちなのだろうと、まどかは考えた。たとえば彼女がそのとき、他に好きな男の人がいたとしても、けん兄ちゃんに好きだと言われたら嫌だとは言えないだろうとも思った。自分の好きなひとが、けん兄ちゃんと戦って勝てるはずがないからだ。  自分より強いものが気に入っているものには極力手を出したがらないのが男で、だからいくら好みでなくとも序列一位の男に声をかけられたら、女はイエスというしかない。  けん兄ちゃんに好かれることが羨ましい気持ちはもちろんあったが、それ以上に彼女が本当に、他の誰よりも、けん兄ちゃんのことを好きなのかが、まどかには気がかりだった。  もしもけん兄ちゃんが彼女にとって本当の一番ではないのなら、彼女の髪や顔や胸に溺れるけん兄ちゃんが、かわいそうでたまらなかった。  けん兄ちゃんは、家の近所で彼女と会うことはあっても、家に彼女を連れて来ることはなかなかしなかった。だからまどかは、しばらくはけん兄ちゃんに彼女ができたことを知らないふりをすることになった。  オンマやお父さんがまどかを迎え入れてくれるのと同じように、あたたかく彼女を迎え入れることを想像するのは恐ろしかった。よその子が食卓にふたりもいるのはおかしいことのはずで、彼女がそこに座るなら、まどかはもうそこにはいられないはずだった。  けん兄ちゃんが彼女をあの部屋に連れ込むまえに、まどかはオンマやお父さんやなか姉ちゃんへの過剰な依存心や愛情や、けん兄ちゃんへの思いを捨て去らなければならなかった。

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