ホランイの恋人
まどか まどかとけん兄ちゃんの話

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まどか まどかとけん兄ちゃんの話  オンマから、メールが届いていた。  昼間の仕事が終わり、夜の仕事に向かっていた最中のことだ。 『あした、法事』  短い文だが、食べ物をたくさん作るから帰りに分けてやるという意味だろうと思った。  李家の法事では大量の料理を作ってお供えし、親戚などが大勢集まってそれを一緒に食べる。亡くなった人とともに食事をするというのが法事のスタイルだ。 串にさしたお肉や柔らかな薄いお餅やパン、山盛りのくだもの、それにたくさんのチヂミ。 もちもちとした春雨が美味しいオンマのチャプチェ。 とても食べきれないびっくりするような量の食べ物を準備するのはオンマの特技なのだ。  まどかが、 『ありがとう、帰りにもらいに行きます』 と返事を送るとすぐに 『温姫も帰って来る』  と続けてメールが届いた。  まどかはゆらゆらと揺れながら自転車を片手運転し返事を打っていたために、思わず驚いて携帯を落としそうになる。  なか姉ちゃんが帰って来る。  翌日、まどかはママに無理を言って夜の仕事をお休みし、昼間の仕事も納期ギリギリの品物が上がった瞬間に、工場長にわがままを言って早退した。  なか姉ちゃんが、帰って来る。  まどかは帰り道に家電量販店のおもちゃコーナーに寄り、男の子向けのおもちゃを片っ端から購入した。ミニカーやブロック、その他よくわからないごちゃごちゃとした戦隊ものの光るやつだ。  李家は、昔と変わらない様子でそこにある。子どもたちが帰って来ている今日はどこか、家も誇らしげに見える。  サンタクロースさながらに大荷物のまどかは、李家の門を叩く。  なか姉ちゃんの旦那さんは日本に帰化した中国人で、名前を王さんという。中国語と英語と日本語を自在に操り、東京で事業をしている。  王さんは、なか姉ちゃんと初めて会ったとき、なか姉ちゃんに「きみはコリアン系か」とたずねたのだそうだ。理由は「美しいから」。   なか姉ちゃんは結婚して、王温姫になった。キングとプリンセスが両方入った名前はやはり少し恥ずかしいらしい。  中国式でも韓国式でも、本当なら夫婦は名字が同じにはならない。  その証拠に、李家の妻であるオンマの本名は、いまでも張玉姫のままだ。 けれど王さんは、中国式でも韓国式でもなく日本式に、なか姉ちゃんには自分と同じ名字になって欲しかったのだという。  なか姉ちゃんは、本名を王温姫に改名するという手続きをして、めでたく王さんになった。なか姉ちゃんの、みっつめの名前だ。  なか姉ちゃんの四歳になる息子は、チャイナ系コリアンジャパニーズということになるのだろうか。よくわからないけれど、アジアを背負って立つような男になる予感がするのは、けっして気のせいではないと、まどかは思う。   大きな袋に山盛りのおもちゃを持って現れたまどかを見て、息子の桜くんは笑った。王桜。なんて美しい名前なんだろう。まどかは桜くんの顔を見て、その凛々しさに惚れ惚れする。  なか姉ちゃんの美しさと王さんの男らしさをどちらもバランスよく配合した顔だ。きっと将来はモテモテだ。 桜くんが、 「なんやこのひと!」  というような意味のことを中国語で言った。 「サンタクロースです」  と、まどかが答えると、桜くんはまた笑った。  まどかたちのやり取りを、なか姉ちゃんが嬉しそうに見ている。王さんも笑っている。すっかり優しい顔になってしまったお父さんも、変わらないオンマも、嬉しそうに笑っている。  そして、幸せそうにこちらをみつめる、けん兄ちゃんがいる。  テーブルにはたくさんの食べ物。まどかを育ててくれたオンマのごはん。  オンマがふざけて、嫌がる桜くんを抱きしめ、 「ポッポチュセヨ―」  と言った。桜くんは少し照れたような表情で、なか姉ちゃんをちらりと見る。 「したりいな、桜」  なか姉ちゃんが笑って言うと、桜くんはオンマの頬に、可愛らしいキスをした。  ちいさな花びらみたいなかわいらしい唇を見て、もうずっとずっと遠い昔、けん兄ちゃんを愛せたらいいのにと思ったことを思い出す。    けん兄ちゃんはあの日あのとき、自分にどうしてあんなことを言わせたのだろう。  どうして自分は、わざとみたいにどうしようもない男とばかり付き合ってしまうのだろう。  まるで、けん兄ちゃんに心配してほしかった子どもの頃と、ちっともかわっていないみたいに。  まどかはそっと、けん兄ちゃんの隣に座る。 「けん兄ちゃん」 「何や」  鋭い眼差しだ。だけどそこには本当は、優しさしかないことを、まどかは知っている。 「オッパ」  まどかが小さな、本当に小さな囁き声で呼び掛けると、けん兄ちゃんが細い目を見開いた。 年上の男性、尊敬と甘えと愛をもって呼びかけたいと思える人にだけ、この呼び方を使うのだと、ずっと昔、なか姉ちゃんが教えてくれた。 だからこの呼び方は、誰にでも簡単に使ってはだめなんだと。 まどかにとって、オッパはけん兄ちゃんだけだった。 いままでもこれからもずっと。 「わたしはけん兄ちゃんを、泣かせたりせえへんよ」 「なんや、いきなり、頭でもおかしなったんか」  オバケでも見るような顔でけん兄ちゃんがまどかに言う。  まどかは真剣な顔で、けん兄ちゃんに向き合った。 「おかしくなってなんかないで。けん兄ちゃん。けん兄ちゃんだって、そろそろええ歳や。結婚するなら、わたしなんてどうかな」 その場にいた、全員がぎょっとしたような顔でまどかを見た。 オンマも、お父さんも、けん兄ちゃん本人も王さんも。 だけどなか姉ちゃんと桜くんだけは、にこにこと微笑んでいた。 前途多難。そんな言葉がぴったりの、まどかとけん兄ちゃんの本当の恋の始まりだった。  

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