ホランイの恋人
まどか 友達の話

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 小学校六年生になった頃、まどかは、鈴木晶子と友達になっていた。  日本人の父親と、フィリピンとスペインのハーフのママを持つ、あの鈴木晶子だ。  まどかは晶子のことを、なか姉ちゃんの次に大切な女の子だと思うようになった。  晶子はクリスチャンだった。猫を三匹飼っていて、歌がうまく、小学生だがピアスを開けていて、タガログ語が少し話せた。男の子にも強い口調で意見が言えたが、学校の成績はあまり良くなかった。よく笑い、声が大きかった。 「サンダリ―ラン」  と晶子はよく言った。まどかは最初それを、韓国語だろうと思った。意味を知らない韓国語の単語を聞き流して勝手に意味を想像するということが、よくあったからだ。  知らない言葉に出会うことが日常茶飯事だったから、それがタガログ語でも、まどかにとっては同じことだった。  晶子のママが、近所のスーパーで韓国人のおばちゃんと言い争いになった場面に偶然出くわしたことがある。まどかはママに頼まれたトイレットペーパーとカップ麺を買いに来ていた。  あ、晶子のママだ、と気付くのと同時だった。もしかすると喧嘩ではないのかもしれないが、とにかくお互いに大阪弁と自分の得意とする言語をまぜこぜにして激しく罵り合っていた。  たまに「なんやねん!」「それはあんたやろ!」などの言葉も聞こえたが、ほとんど聞き取れず、ふたりが言い合いをしていてもまわりはとくに気にする様子もなく、カートを押したおばちゃんたちがそのすぐ横をつぎつぎに通り過ぎていった。  先に、「もうええわ」と両掌を天井に向けて言ったのは晶子のママだった。  「もうええわってなんやねん! こっちがもうええわ!」と言い返し、相手のおばちゃんが勢いよく体を翻し大股で去っていく。晶子のママはおおきなため息をつき、ようやくそばにいたまどかに気が付いた。  「オオ、まどかー」  満面の笑みをこちらに向けて、晶子のママは言った。  「ひとりで買い物、えらいやん」  さきほどの言い争いなどもう忘れたような、それはすっきりとした表情だった。  まどかはそれを見て、晶子のママも、さっきのおばちゃんも、お互いの言葉などわからなくてもそんなことはどうでも良いのかもしれないと思った。  普段、得意ではない言葉で生活をしなければならない晶子のママや、日本に住んで長いとはいえ、苛立ちを発散できない生活をしているであろうあのおばちゃんは、お互いに言葉がわからないからこそ、好き放題、すっきりするまで罵り合う事が出来たのかもしれない。人前では決して口にしないような汚い言葉も、通じなければいくら吐き出しても構わないと思えたのかもしれない。  晶子のママは、名前をアニタといった。晶子のパパは自動車の修理工場を経営しており、晶子の家の隣にはいつも違う車が数台止まっていた。アニタはむっちりと張りのある体つきで目が大きく、鼻も大きく、髪がふわふさとしていた。晶子はその、大きな目をアニタから、いくら食べても太らない身体をパパから受け継いでいた。赤ちゃんのときの晶子は特別可愛いかったそうで、街中で子役にスカウトされることもあったとアニタは嬉しそうに話した。  まどかは放課後、晶子と遊ぶようになったので、李家には以前のように頻繁には遊びに行かなくなっていた。なか姉ちゃんにも会いたかったし、オンマのご飯も食べたかったが、けん兄ちゃんの彼女と鉢合わせることを想像すると恐ろしかった。嫉妬だったし、反抗のようなものでもあった。  まどかや晶子たちはそのまま、小学校からふたつ橋を越えた川沿いにある、なか姉ちゃんの通っていた公立中学校に進学した。ほとんどのクラスメイト、中村スティーブンソン純也やチャンミンヴィや新田アレクやトックンやカンちゃんがその中学校に進んだが、なかには市内屈指の不良グループの存在や学力の低下などを恐れ、私立中学校に進んだ子たちも多くいた。  なか姉ちゃんはまどかと入れ替わりで、私立の女子高に進学した。けん兄ちゃんは日本名で企業に就職をした。  A中学校には、みっつの小学校の生徒が集まっていた。その中には日本一、外国籍の生徒数が多いことで名の知れた小学校も含まれていた。そのためA中学ではひとクラスにおける外国籍の子の数は過半数を軽く超え、帰化している子も含めるとその数は三分の二以上になった。  学力は両極端だった。  全国の学力テストでトップクラスに入るような子と、そもそもテスト用紙に記入すらしない子が同じクラスで学んでいた。  例えばトックンやカンちゃんは前者、新田アレクなどは後者だった。そんな風であるにもかかわらず、学内での揉め事は不思議なほど起きなかった。  強すぎる不良グループはもはや学内には興味がなく、学力で全国トップクラスに入り将来は医師や弁護士になるような子たちのことは、争いや揉め事には決して巻き込まない、というのがA中学の不良グループの暗黙のルールであるらしかった。  勉強に興味がないと言っていた晶子は、中学で英語の授業が始まると途端に頭角をあらわした。晶子はタガログ語だけでなく英語も話せたのだ!   晶子は自分が普段ママと話している言葉が、タガログ語なのか英語なのかわからなかった。最初の授業で「アイハブアペーンヌ」と英語の先生が話すのを聞き、晶子は爆笑した。たまにクラスにやって来るネイティブの先生と、晶子はほとんど対等に話すことが出来た。  まどかはA中学において、もっとも権力を持たない、両極端のどちらにも属することのできない生徒だった。先生が三年間名前を覚えることもなく、気にも留めない存在だった。  まどかが中学校二年生のとき、けん兄ちゃんの彼女が日本人の男と逃げ出した。けん兄ちゃんと別れてまで男と付き合うことにした彼女は、当然、男と結婚するつもりだった。そうでなければ、けん兄ちゃんと別れることなんて出来なかったはずだ。しかし両方の家族から猛烈な反対を受けたため、彼女は男と、このまちを出た。  男のほうも怖かったのだろう。けん兄ちゃんの報復を恐れたのかもしれないが、けん兄ちゃんは何もしなかった。たぶん、本当に何もしなかったはずだ。  そのニュースはトックンやカンちゃん、その他の男子によって、すぐにまどかの耳に届いた。  まどかは中学の帰り道の細い商店街を駆け抜け、川沿いを猛ダッシュし、ずっと長いこと避けていた、李家の門を叩いた。  オンマの顔をみるなり、まどかは恋しさが募ってたまらなくなり、エプロン姿のオンマの胸に飛び込んだ。それを見て、なか姉ちゃんが静かに笑っていた。 「焼肉やるか」  お父さんがオンマに言った。オンマはナムルをたくさん作り、チェシャやゴマの葉を用意し、七キロもの肉を買ってきた。お父さんはドラム缶に網をセットし、火をおこし始めた。  お父さんに早く帰って来いといって無理矢理呼び出されたらしいけん兄ちゃんが、庭に出て、お父さんを手伝い始める。けん兄ちゃんは完全に大人の男の人になっていた。  初めて中学三年生のけん兄ちゃんを見た時もうすでに、この人は大人だと思ったが、そうではなかった。いつも顔に浮かんでいた戦いの表情がすっかり抜け落ち、賢く冷静な男のそれになっていた。  まどかはしばらく、その姿に見惚れていた。  なか姉ちゃんは「おにぎり作ろうか、マーちゃん」とまどかを誘った。  冷蔵庫からオンマの漬けたキムチを取り出し、おおきな炊飯器からお米をどかっとボウルにひっくり返し、キムチを刻むようにまどかに言った。 「マーちゃん、そんな一生懸命! てきとうでええねん」  なか姉ちゃんは必死なまどかを見て笑い、まどかが必死に刻んだキムチと、ごま油をボウルに丁寧に入れ、よくまぜた。のりの細かいふりかけをたくさんふりかけて、小さくおにぎりにした。 「ほら、めっちゃおいしそうやん。一個味見しよ、はいどうぞ」  なか姉ちゃんはふりかけをまぜたおにぎりにさらに海苔をまき、まどかにむかってあーん、と言った。小さなおにぎりをまどかは一口で食べる。ぱりっとしたところと、酸っぱいところと甘いところと塩辛いところが全部一気に口の中で一緒になる。  まどかもいくつか握った。トングとはさみを持ったけん兄ちゃんとお父さんが笑っていた。  ほんのちょっとの短い時間、まどかはけん兄ちゃんとふたりきりになった。オンマに頼まれて台所に野菜を取りに来たまどかと、氷を補充しに来たけん兄ちゃんとが出くわした。  まどかはなにか、言葉を探した。 「ひさしぶりやな、マーが来るん」  けん兄ちゃんは、落ち着いた声でそう言った。 「俺の事、心配してくれた感じか」  小窓から入る夕焼けの橙色が、けん兄ちゃんの白いシャツを染めていた。やっぱり、元気がない。当たり前だ。あんなにも長く付き合って、そばにいたひとがいなくなったのだから。相手を殴れたら良かったのだろうけど、けん兄ちゃんはそうしなかった。まどかは頷いた。 「あの、なんか、けん兄ちゃんが元気になる言葉とか、あったらええんやけど、なかった」  訳が分からないし、ばかみたいだと思った。言ってから、強烈に後悔した。むしろ何も、知らないことにしておけば良かったのだ。 「せやなあ」  けん兄ちゃんは少し悩んで、悪戯っぽい目をして言った。 「オッパーポッポチュセヨ言うてみ」 「おっぱーぽっぽちゅせよ?」  まどかが繰り返すと、けん兄ちゃんは勢いよく、ブハハ! と噴き出した。 「顔が間抜けで、アホ過ぎる」  けん兄ちゃんはまだ、お腹を抱えて笑っている。 「なんなん、自分が言わせたくせに」 「マー、お前、それ、男に絶対言うなよ」 「わけわからん」  けん兄ちゃんは、ははは、ともうひと笑いし、 「元気出たわ、ありがとうな」  と言った。氷をたくさん持って台所を出て行くけん兄ちゃんの背中が、なぜだかわからないけれど最後の別れみたいに見え、けん兄ちゃんが死んだらどうしよう、と思うと不安でたまらなかった。  けん兄ちゃんを愛することができたらどんなに幸せだろうと、まどかは思った。きっとだれよりも愛して大切にするのに。  お肉が焼けると、オンマはつぎつぎにそれをお父さんやけん兄ちゃんに配る。まどかやなか姉ちゃんには手際よくチェシャやゴマの葉で焼けた肉を包み、流れ作業みたいに手渡してくれるのだ。  皆がお腹いっぱいになる頃、なか姉ちゃんが家の中からインスタントカメラを持って出て来た。  お父さんはまだ、缶ビールを片手に肉を焼いている。けん兄ちゃんは、まどかが握ったおにぎりをつまんでいる。オンマは何やら片づけを始めていたのだが、お父さんから「まだ片付けんでええ」と怒られていた。オンマは「誰が片付けると思ってんのんな、なあ、温姫」とぶつぶつ呟いた。 「家族写真撮ろう!」  なか姉ちゃんは言った。  たぶん、なか姉ちゃんもけん兄ちゃんが心配だったのだろう。その日はずっと、いつもよりも明るい声で、なか姉ちゃんはにこにことよく笑った。  家の前に、お父さん、オンマ、けん兄ちゃん、なか姉ちゃんが並んだ。 「わたしが撮るよ、カメラ貸して、なか姉ちゃん」  当たり前のこととしてまどかがそう言ったとき、ちょうど斜め向かいの工場から、作業着姿のお兄さんが顔を出した。 「おい、兄ちゃん! 写真撮ってくれ」  お父さんが呼び掛ける。よく通る声で、お父さんの風貌で、断れる人はいないだろう。お兄さんは駆け足でこちらにやって来た。 「まどかも入りなさい」  お父さんは、とても優しい顔でそう言った。  まどかはなか姉ちゃんの隣に並んだ。お父さんと、けん兄ちゃんが、まどかとなか姉ちゃんを見下ろしていた。オンマが「ほら、笑いや」とまどかの背中をつんつんとつついた。  この日の写真を、まどかはずっと、ずっと大切に持っていた。  悲しいことがあったとき、なにかを我慢しなければならないとき、納得のいかない出来事があったとき、ママに恋人が出来たとき、まどかはこの写真を持っていたから、生きてこられたのだ。  まどかはA中学から公立高校に合格し、自宅のアパートからずいぶん離れた学校に、片道四十五分かけて自転車で通うようになった。  高校は、まどかの住むまちから見るとだいぶ北にあり、賢くもなく不良でもない、中くらいのレベルの生徒ばかりがなんとなく集まっている学校だった。  クラスメイトには、金さんも高さんも徐さんも朴さんもいなかった。褐色の肌の子も、エキゾチックな顔立ちの子もいなかった。通名のあとに続けて本名を一緒に名乗る子もいなかった。  みんな、なんとなくぼやけた、ほとんど同じ印象に見えた。  平坦な顔立ちに、まどかと同じような、つまらないとしか言いようのない自己紹介が続いた。  いつの間にかまどかの番が来ていた。 「佐藤まどかです。A中学から来ました」  まどかに話せることなんて何もなかった。  まどかが話したかったのは、例えば李家のこと、オンマやなか姉ちゃんのことや、晶子がカナダに留学すると決めたことだった。まどかが言いたいことなんて何もなかった。  その日、ひとりでトイレの手洗い場にいたまどかに、最初に声を掛けて来たのは藤原菊乃という女子生徒だった。トイレ前はヒトデみたいな蛇口をひねるタイプの水道で、うちのアパートと同じだ、と思っていた。水は冷たく、冬でもお湯は出なさそうだった。鏡は白い水滴で汚れていた。  藤原菊乃はいかにも品のある佇まいをしており、眉が太めで、頑張っていない、根っからの可愛さみたいなものを持ち合わせているいわゆるうまれつきの美人だった。  菊乃は粘土細工のような手を、清潔なハンカチで丁寧に拭きながら言った。 「佐藤さんって、A中学出身なんよね? 私も、実は在日やねん。A中学の子やったら、すぐ気付くかなって思って、言われる前に先に言う事にした。でも、他の子には、絶対に内緒にしてな」  最初、何の事を言われているのかよくわからなかった。  A中学だということと、最後の、絶対に内緒にしてな、の繋がりが見えなかった。 「え、何?」  まどかは、菊乃に問い返した。いきなり秘密を共有しようとすることも、どういうつもりなのかよくわからなかった。  在日、という言葉の意味も、まどかにはうまく伝わってこなかった。聞き慣れた、見慣れた言葉であるはずの単語が、けれど、なぜか一度も耳にしたことのない言葉であるように思えた。  そういえば、まどかはオンマやなか姉ちゃんの口からも、小学校のクラスメイトの口からも一度も、在日、という言葉を聞いたことはなかった。  在日って、なんなんだろう。  日本に滞在している、という意味ならば、ちょっと違うんじゃないかとまどかは思った。  なか姉ちゃんもけん兄ちゃんも、日本で生まれて日本で育って、これからもどこかへ行く予定なんてないはずだ。  日本に滞在しているんじゃない。生まれて、育って、これからもずっと住み続けていくはずなのに。  黙ってなにも返事をできないでいるまどかの顔を、藤原菊乃が覗き込んでいる。  菊乃は、私も、と言った。 「私のパパは、そういうこと、自分が在日ってことな。他人には言わん方針やねん。うちは帰化もしてるし、パパは会社でも、誰にも一度も言ったことないから、私にも学校ではそういうことは誰にも言うなって。佐藤さんは、公表する派? もしそうなんやったら、悪いけど、私のことは黙ってて」  菊乃は、まどかのことを、自分と同じルーツを持った女の子だと思っているのだと、気が付いた。  まどかはとっさに、それを、否定したくない、と思った。  まどかはあのまちに生きていて、なか姉ちゃんの妹で、オンマを本当のママよりも愛していて、韓国語こそ話せないけれど、そんなのは、なか姉ちゃんだって同じことだ。  まどかは真剣な表情でこちらを見つめている菊乃に、 「わかった」  とだけ答えた。そして、李家の前で撮影した写真を、菊乃に見せた。 「わたしのオンマ」  まどかは、写真を指差して、言った。 「めっちゃ仲良さそうな家族やん。お姉ちゃん? めっちゃ美人」  菊乃は、なか姉ちゃんを指差して、ため息を吐きだしながら言った。 「綺麗なお姉さん、ええなあ。やっぱり姉妹、なんとなく似てるかもな」  まどかがなか姉ちゃんに似ているというのは、完全なるお世辞だろうと思った。まどかは笑った。 「似てへんやろ、それは」 「ええ、なんとなく、やん、ちょっとな、ちょっとだけ」  菊乃も、お世辞がばれたとおもったのか、噴き出しながら言った。 「韓国人やのに、菊乃って、どないやねん、ってたまに自分でも思うねんで。ほんまうちのパパ、やってくれるで。言われる前に先に言っとくわ」  菊乃が小声で言ったので、まどかは 「いや、ええ名前やと思うで。渋いやん」  と答えた。   藤原菊乃を、なか姉ちゃんの成人式に誘ったのは単なる偶然だった。  成人式当日、その日は早朝から、まちがなんとなくそわそわと落ち着かない雰囲気に包まれていた。一月にもなると古いアパートの冷えは石油ストーブと電熱器を使ったところでどうしようもなく、毛布にくるまるしか結局のところ方法がない。  前日に、たまたま連絡を取っていた菊乃から、明日なんばで遊ばないかと誘われた。菊乃とは入学してすぐ以来ずっと、なんとなく一緒にいる関係になっていた。最初に秘密を共有したということも大きな理由のひとつではあるけれど、それ以前にまどかは、菊乃のすこしきつめの物言いや遠慮のない性格が好きなのだ。 「明日は、なか姉ちゃんの成人式やねん」  そう返事をすると、菊乃は「お姉さんの? うそやん! 見たい!」と返してきた。  上品な見た目からは想像もつかない強引な性格も持ち合わせている菊乃は、一度見たいと言い出したらそのまま引き下がるような子ではない。 「ほなら、一緒に行く?」 「行く!」  毛布からなんとか抜け出して今里の駅前まで自転車で菊乃を迎えに行くと、いつもよりも張り切ったおしゃれをした菊乃が待っていた。ニケツで成人式の会場に向かう途中、花屋に人だかりが出来ているのを見つけた。 「なあ、お姉さんに、花束持っていくんちゃうん」  菊乃は言った。菊乃はまだ、まどかを李家の娘だと信じて疑わないし、なか姉ちゃんをまどかの姉だと思っている。 「花束かあ」 「なあ、だってあれ、みんなそうじゃない? 若い子ばっかりやで、お客さん。先輩の成人式に花持っていくって、地元の子らが言ってたで。なあ、お姉さんにお花、持って行こ!」 「ええー、なんか、恥ずかしくない? ヤンキーの男子とかがやるやつじゃない?」  まどかはあまり気が進まなかったが、菊乃は一度言い出したら聞かない。まどかは花屋の前で止まった。 「まどかができんのんやったら、私が代わりに渡したげるやん」 「それは、おかしいやろ。それやったら、わたしが持っていく」  渋々、けれども菊乃にその役割をさせるくらいなら、自分がなか姉ちゃんに渡したい。そう思い、まどかたちは手持ちの千五百円ずつを合わせて花束をひとつだけ買った。  会場に近づくにつれ、見覚えのある顔を見かけるようになった。  同級生の新田アレクが、びっくりするほど大きな花束を手に、数人の男子を引き連れて、まどかたちと同じ会場に向かっている。他にも、派手なメイクをした女の子たちがまどかたちと同じように花束を持って歩いていく。 「ほうら、花買って良かったやん」  菊乃は得意げにまどかに言う。  成人式会場の前には、色鮮やかな人だかりが出来ていた。  舞台の上に、数人の新成人が、代表として並んでおり、区長らしき人がなにやら挨拶をしている。 「ここの、成人式、なんかすごいな」  菊乃は口をあんぐりと開けていた。まどかも成人式にはもちろん行ったことがなかったが、これが、どれほど凄い光景であるかということはわかった。  振袖、スーツ、チョゴリ、袴、振袖、振袖、チョゴリ、チョゴリ。チョゴリ、袴、スーツ、振袖、振袖、チョゴリ、チョゴリ、チョゴリ。振袖、振袖、スーツスーツチョゴリチョゴリ。  ふわふわの、ピンクや、緑や、赤や、白地にラインの入ったもの、足元まですっぽりと隠れる、中に大人が三人は隠れられそうな、ふわっふわのデコレーションケーキみたいなチマチョゴリの波だった。  ウエディングドレスみたいな七色のチマチョゴリの合間に振袖が挟まると、目の錯覚なのか着物の裾が閉じた傘みたいに細長く見え、足元に草履が覗いているのがなんとなくおかしな感じに見える。  鮮やかな波のその中に、一際鮮やかなグリーンのチマチョゴリを見つけた。髪にもグリーンや白の花飾りをつけており、ゆっくりと歩く、圧倒的な美しさ。本物のお姫様みたいな、その人こそがなか姉ちゃんだった。 「なか姉ちゃん!」  まどかは呼んだ。  大声で呼んだが、あまりにも人が多すぎて、なか姉ちゃんは、まどかがいることには気が付かない。  隣で菊乃が、「めっちゃ綺麗、めっちゃ綺麗、まどかのお姉さん、ほんまに、めっちゃくちゃ可愛い」と連呼していた。 「私、成人式、チョゴリ着ようかな。パパにあかんって言われそうやけど」  菊乃が呟いた。  菊乃には、選択肢があるのだ。菊乃には、チョゴリを着る権利がある。 「なか姉ちゃん!」  まどかはもう一度叫んだ。花束を振りかざして叫んだ。 「李温姫! 李温姫!」  発音が間違っていたって構わない、おかしくたって、これがなか姉ちゃんの名前なのだ。まどかはなぜだかわからないけれど、ほんの少しだけ泣いていた。  なか姉ちゃんが、まどかに気付く。お姫様はにっこりと微笑む。チョゴリの波が揺れていた。

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