第四話 大山詣り ーー学びて時にはこれを習う・また喜ばしからずや。過ちをあらたむるにはばかることなかれーー芝・七軒町鍵屋長屋。三之丞の寺子屋からは今日も幼子の声が明るく響き渡り、裏の大円寺の方角からはきんもくせいの強い香りが漂う。 「・・というわけで五日間お休みになるが皆家で手習い、そろばん,、講読は毎日やるようにな」 と三之丞の問いかけに、 「お師匠様はどちららへいかれるのですか」 一番前の席から幼いみねが問いかける。 「知り合いの方のおともをしてな 大山詣りに参るのよ」 「いいなあ。わたしもいきたいな」 「みねよ。大人になってな、一生懸命働けばきっといけるからな」 「おとうが言ってたけど、師匠は剣術の腕前もたつから警護じゃないのかな」 大工辰助の長男長次の生意気な一言に三之丞も思わず笑ってしまった。 元禄三年神無月。屋敷を出て溜池から緩い坂を上るのは、柳沢吉保の正室・定子と腰元おたえ、若党の小出洋ノ進と三之丞の四人組であった。父菊池左衛門より、たっての依頼という事情で、何度も妹の弥生を使わして来ていた。将軍綱吉の側用人として権勢を誇る柳沢吉保ではあったが、定子希望の大山詣りに大仰な人数を割くわけにはいかなかった。 渋谷の谷から二子にかけ晴れ渡った空を見上げ、洋ノ進もやや緊張しながらも旅の期待に心躍るさまであった。おたえは手甲脚絆の旅姿に、短い杖をついて町駕篭に乗る奥方のそばを離れないように、しっかりと歩いていた。 溝ノ口から長津田を超える谷戸のあたりから強い金木犀の香りが漂う。今日の宿、伊勢原の手前に差し掛かった時、右手の地蔵堂の奥から女の悲鳴が聞こえた。 身構える洋ノ進。 「奥方様のおそばを離れてはなりませんぞ」 鋭くいった三之丞は地蔵堂奥の茂みに走り寄る。百姓篭を背負った若い女をまさに二人の無頼の男が襲う寸前であった。 「貴様らやめておけ!」 鋭い三之丞の声に 「うるせえ!引っ込んでろ。さんぴんめ!それともやるきか!」 年かさの丑之助が一気に間合いを詰める。右腕にはドスが光る。と。 その時相手の左側にスイーとよりながら、三之丞はハツと飛び上がり、目にもとまらぬ速さで小刀を払う。丑之助の二の腕から下が飛ぶ。 「ぎゃ!」 と男がわめき倒れる。あまりの痛さに転げまわる。 「まだやるきかえ」 三之丞の一言に、年下の男は転がるように坂を走り去る。腰元おたえが百姓女に走り寄り声をかけていた。とっさの出来事とは言え、洋ノ進は茫然としている。奥方定子は落ち着いて籠から降りると、 「殿から聞き及んではいたが、まことに見事な腕前。旅も安心ですね」 瓜実の端正な顔をほころばせる。洋ノ進は緊張したままだ。 その後大山道に入り四人は無事に大山詣りを済ませ、二日目の宿藤沢宿に向かった。藤沢の宿の夕餉で、改めて定子より礼が述べられた。酒、肴が十分用意された。腰元おたえを三之丞の前に座らせて・・ 「ささ。 おたえ。三之丞殿に、もそっと御酒をお勧めして・・無事に念願の大山詣りも終わり、ありがとう存じます。それにしても一刀のもとに。まことにお見事でした」 丸顔のおたえも首筋を紅くしながら酒を注ぐ。 「いやいや少し強引とは思いましたが、右腕が飛べば、あの男ももう悪さはできますまい」と神妙に返す三之丞。 「百姓の娘は近在のふみと名乗りまして、泣きながらも礼を述べおりました」 おたえは顔をあからめながら、頼もしそうに三之丞をじっと見つめる。 「目にもとまらぬ早業でございました」 秋刀魚をうまそうにほおばりながら小柄な洋ノ進も感心する。 「それそれ、洋ノ進どの。御酒はそのぐらいにして・・まだ明日鎌倉から品川がありますぞ」 奥方様の言葉に洋ノ進も恐縮の体だ。 「奥方様 大層いただきました。少し湯に入ってまいります。わたくしと洋ノ進殿は隣の間に控えておりますので、ゆるりとおやすみくだされませ」 三之丞はぬるい湯にゆっくり入るのが好みであった。寺子屋の終わった夕七ツ半には、二日に一度新橋の銭湯、金春湯につかるのを日課としていた。 「三之丞殿。剣の極意とはなんでござりましょうか。わたくしもあのような鋭い打ち込みができましょうか」 湯の中で洋ノ進が尋ねる。 「剣の極意はわたしにもわかりませんが、剣は人を斬るものではなく、あくまでも難を乗り越える護身のものでありましょう。避ける道や後退の方法を探る、そしてやむを得ぬ時だけ相手との間合いを詰める。ただ一撃にかける。そのように思うて励んでおりますが」 洋ノ進は浮かぬ顔であった。 藤沢宿大野屋の湯は温泉ではなく内湯であったが、広大で・・ややぬるめ。長湯好きの三之丞にはまことに好みの湯加減であった。長湯ですっかり上気した洋ノ進は、 「お先にしつれいします」 と湯から上がっていった。 そしてまた半時・・三之丞の湯はまことに長い。と・・その時・・ふと邪気を感ずる三之丞。以前からこのように・・不意に先が見えることが・・良くも悪くも何度かあった。剣術の稽古中でも、人の生き死にでも、無言の中の相手の意向でも。 あの時も。旗本菊池家三男の自分が、屋敷を出て市中で暮らしたいと、父左衛門に申し出た時。日ごろから仲のよい妹の弥生に漏らしたときーーそれは父上が許しますまいーーと言われたが、三之丞には見えていたのだ。案の定父上はしぶしぶではあったが許してくれた。家名を汚すなの一言であった。 湯気の向こうから二人の男が湯に入ってくる。なぜか三之丞は息を殺しそっと湯の中に沈み、大きな岩陰に身を隠した。なぜそうしたのか・・ 「いよいよだな。捨松。十二日まであと五日だ」 「さようですね。わしらは東海道。お頭一行は板橋宿・巴屋にむかっている。明日は別々に到着で、最後の仕上げてござんすね」 頭の息子音蔵に答える。 「して、つなぎのおしのからは何か連絡はあったのか」 「おしのからは、ひと月前につなぎがあってから何もありません。予定どうりの合図にござりましょう」と捨松。 「確かおしのは伊勢屋裏の居酒屋に三年で、住まいは芝の鍵屋長屋であったな」 「はい さようです」 「念のため江戸に入ったら、早速つなぎを付けた方がいいだろう」 越前の大盗賊血潮の伊蔵の一人息子音蔵は、ゆっくりと岩に背を傾けるとふっと息をはいた。三之丞は息を止め気配を隠した。 日本橋・薬種問屋伊勢屋八兵衛の名と鍵屋長屋おしのの名がつなぎとして出たことに驚きはしたが、押し込み一味との見当はついた。もう一組も明日中山道から板橋宿・巴屋に入るらしい。二人が湯から上がると一息入れて三之丞も急ぎ部屋へと戻った。時はすでに亥の刻ではあったが、隣の部屋の奥方様に声をかける。 「奥方様。遅くに申し訳ありませんが、火急にてお話ししたい儀がございます」 すぐに腰元おたえから 「少しお待ちくださいませ」と返答がある。 寝着に宿の羽織をかけた奥方定子がおたえを従えて座る。三之丞はたった今の湯での男たちとのいきさつと、己の推量も含めて手短に話した。 「あいわかった。そなたは明朝早くその男たちを追いながら江戸に向かうのじゃな」 落ち着いた声はさすがに柳沢吉保の正室だ。 「ここに道場の友、南町奉行所与力・榎本一八殿に仔細をしたためました。明朝、早飛脚にてお送りいただけますようお願いいたします」 「それではわたくしも今から殿に書状を書き送りましょう」 さすがに呑み込みの早い奥方様であられた。 奥方定子と腰元おたえ、若党の小出洋ノ進は、念のため屋敷からさらに若党の応援が到着してから、鎌倉から小田原、品川経由での江戸帰りとした。 「洋ノ進殿。くれぐれも気を付けて奥方様の警護をお願いいたしましたぞ」 「心得ましてございまする」 若い端正な顔が光る。 芝・七軒町鍵屋長屋の木戸を入り左から二軒目、鍵屋番頭・与吉の隣がおしのの住む家だ。日本橋の居酒屋・升本の通い女中として三年も前から、越後の大盗賊 血潮の伊蔵の江戸つなぎ役を務めていた。升本の脇を出た通りの角が薬種問屋伊勢屋の大店であった。すでに店の見取り図、奉公人の詳細他多くの情報を入手し越後に送っていた。 「あら。番頭さんずいぶん遅いお帰りですね」とおしの。 「神無月はな、将軍家や江戸の大名家の薬の入れ替えで大忙しさ。この忙しいさなかに手代二人が京、難波へ薬種の仕入れに出向いておってのう、旦那様も含め男衆十五人、女共も女中も手伝わせて総勢三十数人で薬種の準備じゃよ」 うまそうに焼き秋刀魚を食べ酒をグイっとあおると 「さてと、帰って寝るだけのことさね」 「忙しいのはいつごろまでなんですか・・・」とおしの。 「そうさな 月末までは続くだろうて、皆へとへとでやっておる」 これでは店の者たちの抵抗は少ないだろうし、主人夫婦も疲れ切って抵抗は少ないだろうが、血潮のお頭は毎度のこと、皆殺しにしてしまいなさる。そのことだけがおしのの不満であったが、こうしてここ二十数年間仲間が捕縛されないのはその残酷な殺しと、すぐに越後に引き上げるせいでもあった。 十二日の「おつとめ」後、すぐにこの長屋を怪しまれずに引き上げねばならないし、ここ二、三日は最後のつなぎと、押し込みのための道具類の運び入れにも忙しくなりそうだ。愛嬌のある目と口元に笑みを浮かべ、通い番頭の馬ノ助を送り出す。 血潮の伊蔵は越後柏崎を三日に立ち、股旅姿で目立たぬように副頭与三郎ほか五名と中山道を下っていた。彼らは越後から越前、陸奥から江戸まで二、三年に一回血なまぐさい盗みを働いていた。 伊蔵の盗みはあとくされなきよう襲った大店の者全員殺すという、残虐なものであったが,そのためほとんど証拠や証言もなかった。六年前に大湊の盗みで生き残った者の証言からーー頭の名前が伊蔵・・越後の名‐ーだけが確認され、血潮の伊蔵として恐れられていた。柏崎・新発田藩や江戸の町奉行も必死で探索したが、依然としてその行方や実態がつかめていなかったのだ。 板橋宿・巴屋の二階で血潮の伊蔵は与三郎ほか五名と酒を飲んでいる。十二日伊勢屋への押し込みの最終的な段取りの打ち合わせであった。 「与三郎。東海道を来る音蔵、捨松、江戸のつなぎのおしのは、予定どうりかえ」 四角張った大顔で太い眉と鼻、残忍そうな鋭い眼の伊蔵であった。 「おとついの長久保宿で受け取った、島田宿から山越えの急ぎ飛脚の文では、音蔵さんと捨松は、今宵、芝のおしのさんのところに入る予定でおりやす。黒装束、足固め、匕首や金具類も前の日の十一日には点検がおわりやす」 「芝の鍵屋長屋とかであったな。明日おしのの店で念を入れておいておくれよ」 「合点でござんす。お頭。お任せなすって」 と長身身ぎれいな与三郎。 藤沢宿を早朝に立った音蔵と捨松は、手甲脚絆に身を固め、商人髷と振り分け荷姿で足早に江戸へと向かう。品川宿を超えると一人は芝方向、もう一人は札ノ辻から左手日本橋方向へと向かう 三之丞は芝方向に向かう捨松の後方をゆっくりと歩き追った。まさしく奴は金杉橋を超え鍵屋長屋に向かっていた。 「あ。お師匠様お帰りなさいませ」 木戸の入口にはいと、はな、さとの遊び姿があった。 「おうおう。少し早めの帰りとなっての」 「うれしい では明日からまたお師匠さものところへ通えるのね」 年上のさと。 「そうじゃ。そうじゃ。明日からまた皆と勉強じゃ」 寺子屋の自宅に戻った三之丞は急いで旅装を解くと、鍵屋長兵衛の番頭・与吉の戸口をそっと引いた。女房のお吉が洗濯物を桶けに入れ、井戸に向かうところであった。三之丞は唇に手を当て、声を出さないようにと、しぐさで示してお吉の耳元にささやいた。どんぐり眼を見開いたお吉ではあったが黙ってそのまま井戸端に向かった。 鍵屋長屋は家主長兵衛の考えで、家賃は他より少し高く月八百文であったが、それなりの正業に精を出す江戸市中でも比較的裕福な住処であった。とはいえ板一枚の隣であったから・・三之丞は与吉の家の押し入れに入り耳をそばだてた。伊勢屋への手引き、おしのと捨松の会話はわずかに壁板越しに聞こえる。 「十二日も薬種の入れ替えで大忙しだろうよ。子の刻には皆ぐったりで寝込んでいるだろうさ。主人夫婦と男衆は十五人。女衆が十人少し。本蔵の鍵は主人の居間と確かめてあるからね」とおしの。 「ではこの黒装束と下ごしらえはもらっていくぜ。それからこれはな、蔵でもたつく場合に備えて、わしの道具類を入れてある。子の刻ぴったりに日本橋入船まで運んでおくれな。少し重ていかもしれねえが。それまではくれぐれも用心第一とお頭からもな」 鍵師捨松は持参の玄翁袋をおしのの脇に置く。あとは会話もなく捨松が立ち上がる様子だ。わずかに・・おしののつぶやきが聞こえる。 「それにしても・・また今度も皆かたずけてしまうのだろうね・・」 「しかたあるめえ。そうこうして、ここまでお頭もわれらも生き延びてきたのよ」 やせた小男捨松の右目下には大きな黒ぼくろがあった。 その後直ちに三之丞は南町奉行所与力・榎本一八の役宅数寄屋橋口へ向かった。すでに亥の刻も廻り、役人屋敷は深い闇に包まれ物音一つしない。一八の妻女は熱い茶を置くと目礼して居間をそっと去る。 「三之丞殿。貴公の三度飛脚からの書状、九日の夕刻に届いた。直ちに今月当番の飛騨ノ守様にご報告したところ、老中筋からのお呼び出しで、北町の安房ノ守様と共に登城いたしてな。ご老中、若年寄様とご相談なされ準備中よ」 「どうなることかと心配しましたが、間におうてよろしゅうござった。奴らは十二日に本町二丁目の薬種問屋伊勢屋を襲うつもりで、数年前からつなぎの女も準備して」 と。今宵三乃丞が長屋の壁越しに耳にした内容を報告した。 「越前、越後、陸奥、江戸とここ十数年にわたり、奴らの押し込みでは全員が殺されまことに極悪非道につき、必ず全員を捕縛せよとの強いお達しでござる。板橋宿の巴屋にも細心の注意を払って見張りを付けているところだ。それにしても大事になったな。お側用人柳沢公からも両奉行に直々にお言葉があったと承知いたしておる。貴公の書状にあった奥方様からの情報であろうな」 九日板橋宿の巴屋の向かい山形屋の二階からは、巴屋の正面や脇路地がよく見渡せる。中山道を砂塵を巻いて北風が吹き抜ける。両奉行所連携した準備が急遽行われていた。北町奉行所同心・権田助十郎と両国の岡っ引き、みの吉が明け卯の刻から宵戌の刻。 南町奉行所同心・坂井八左ヱ門と神田の岡っ引き明神の留吉が分担で、つなぎは芝の琴屋の徳蔵ほか昼夜体制で巴屋を見張っていた。 翌十日。伊蔵の仲間内でのまとめ役と思われる与三郎の後を、十分な距離を保って明神の留吉が追っていた。両国橋を渡り横山町、さらに大伝馬町一丁目を左に折れ与三郎は小舟町の船宿「東海」に入った。留吉はじっと待った。 与三郎が両国方向に戻るのを十分に確認した後「東海」に入る。船宿の亭主又吉より、与三郎は八年前までこの店で船頭をしていたが、国の母親が亡くなって帰ったこと。その翌年にふらりと現れ、江戸で大きな仕入れをしたとかで船二艘を雇い、北千住の先まで運んだこと。また、明日の宵から二艘を貸してくれと五両を置いて行ったこと等を突き止めていた。 ーー八年前と同じように大型の木箱に千両箱を詰め、北千住まで運ぶ段取りであろうーー直ちにその旨は同心権田から両奉行所に連絡がい った。両奉行所では十二日の押し込みの現場で、一味を一網打尽にする手筈を着々と進めていた。 翌十一日巳の刻から昼にかけ両奉行所は全与力・同心が南町奉行所に集結して血頭の伊蔵一味の捕縛に向け最終の打ち合わせであった。 「柳沢公やご老中からも、漏らさず全員を捕縛するようにと厳命があった。両奉行所連携での捕り物は久方ぶりであるが、連絡を密にして一人も逃すでないぞ」 飛騨ノ守正規の言に続き 「われら南町は日本橋を渡り室町方向から、北町の面々は今川橋北詰めから南下して本町二丁目を目指す。出発の刻限は北千住の見張りからの連絡を受けてから直ちにとする。周辺のそのほか各通りも、町々の岡っ引きや取り方を配置しておる。それぞれが分担をしかと心得おくように。抜かるでないぞ!」 北条安房ノ守氏中もやや緊張の面持ちで鋭く訓示した。 十一日の宵。三之丞は木戸から入って右手南西角の鍵屋番頭与吉宅の戸をそっと開ける。 「そんなわけでな与吉さん。明日の宵は少し早めに帰って・・いや 鍵屋の長兵衛さんには今日もう話してあることでな・・昨日も少し話したおしのの様子を壁越しに見張り、亥の刻過ぎにはしのびだすであろうから、すぐに私に知らせてほしいのだよ。大捕り物になるであろうな。決して悟られぬようにな」 さすがに鍵屋がーー心ききたる者ーとして長屋の目配りをさせているだけに 与吉は落ち着いてうなずく。 十二日の亥の刻過ぎ。江戸の町はすっかり暗く寝静まっていた。江戸湾から珍しく吹く南風の中を、おしのが旅姿でそっと 長屋を抜け出す。すかさず与吉はおしのが木戸を開け、左右に注意しながら出ていくのを待って、三之丞の寺子屋へ走る。 一方板橋宿の巴屋からは黒装束に脚ごしらえもしかと固めた血潮の伊蔵を先頭に、与三郎ほか五名が疾風のごとく両国橋を目指して走る。北詰めで息子の音蔵、捨松と無言で合流すると、南に下り上野から神田方向に音もなく走る。 三之丞は急ぎ足のおしのを見失わない程度に距離を置き後を追う。おしのは数寄屋橋の南町奉行所を左から回り込んで、呉服町の先を右に折れて本町方向に向かう。 同心 堀井八左ヱ門と琴屋の徳蔵を先頭に与力十五騎・同心四十数名・取り方と若頭二十数名が銀座方向から北を目指し日本橋南詰めで、音もたてずに待機し合図を待つ。 北町からは同心、権田助十郎と両国のみの吉を先頭に、江戸橋を北上して紺屋町から左へ折れ神田方向から今川橋北詰めに待機する。こちらも、与力二十騎と同心三十数名、取り方二十数名の布陣であった。江戸でも月番交代の両奉行所がこのような水も漏らさぬ大捕り物は極めて異例であった。血潮の伊蔵のあまりにも残忍非道な押し込みが目に余るものとしてのことであった。 両国橋を一挙に駆け下り、横山町から北へ向う伊蔵の一団は、小舟町脇で おしのと合流した。伊蔵はその時いやな予感が走ったが、おしのの必死の姿に邪念を払った。 「伊蔵のお頭。お久しぶりでございます。準備はできております。通っておりました伊勢屋の路地の左手の、飲み屋升本の脇路地に大八車。からの大箱を大藁で包んで置きました。手ばやに準備くだされませ。さ。急ぎましょう」 「よし。まず入口の戸をこじ開け、抵抗するものはすぐに斬れ。主人の寝間で本蔵の鍵を探せ。伊勢屋が四の五の言うようなら妻や子を切れ。それでも鍵が見つからぬ時は捨松お前の出番じゃ。よいな。金具類はそろっておるな」 「お頭 合点です。その時はあっしが」 と肩の玄翁袋を見せる。 全員が伊勢屋の門口に立つ。 「音蔵。一人連れて大八車を門口につけろ」 音蔵はさっと脇の升本へ走る。 「行くぞ!」 鉄の大槌で一気に正面の引き戸を叩き壊し、十人の賊がなだれ込もうとしたーーーまさにその時であったーーー あたり一帯に高張提灯と時の声が鋭く迫る。賊どもはぎょっとして立ちすくんだ。 「貴様ら! 神妙にいたせ。もうどこにも脱げる道はないぞ。おとなしく縄につけ」 手練れの与力を従えた馬上は、北町奉行・北条安房ノ守氏中であった。 左手からはこれもまた与力十数人を従えて南町奉行・飛騨ノ守正規が茫然と立つ血潮の伊蔵の前に出た。 「おぬしらの非道残虐の数々許しおかん。厳しい刑が待つぞ!」 ーーどこで手抜かりがあったのか。伊蔵は飛騨の守を睨みつけながらも逃げ道を探っていたーー 南北のみならず東西の町々にもびっしりと提灯が立ち並んでいる。あきらめて平伏し膝を折ろうとしたとき、伊蔵の右脇から息子音蔵が上段に刀を構え一気に飛騨ノ守に斬り込もうとする。 与力榎本一八が裂ぱくの気合で刀を下から摺り上げる。音蔵がよろめきながらも一八に突進する。一八は音蔵の刀が届くほんの寸前、右にかがみこみながら鋭い一閃を下から上に撥ね上げた。音蔵の左首筋から血潮が飛ぶ。右頸動脈を割られて音蔵がどっと倒れる。伊蔵と手下どもも刀を抜く。駆け付けた三之丞も鯉口を切る。しばらくにらみ合いが続いたが・・伊蔵が折れ、仲間を制した。多勢に無勢はいかんともしがたかった。目の前で息子を殺されながらも伊蔵は冷静であった。まだ何か・・逃走の手口を考えているのであろうか。子の刻過ぎには残る九人全員が捕縛され、取り方勢も北風の中を奉行所に引き上げていった。 押し込み強盗の取り調べ吟味としては異例の速さで、翌十三日早朝から南北両奉行所・与力同心たちが総がかりで調べを進めた。なかなかにしぶとく音を吐かぬ賊どもではあったが、膝上に十貫以上の大石を載せ、時には爪のあいだに針や楊枝を差し込む等厳しい取り調べで、ここ二十数年の越前、越後、陸奥、江戸での押し込み皆殺しの全容が判明する。翌十四日には血潮の伊蔵、与三郎、捨松は北町奉行所。おしのほか五名は南町奉行所の白洲に引き出されていた。誠に早い言い渡しであった。吟味の内容から北町では筆頭与力から三名に即日獄門が言い渡されていた。 「して。伊蔵。何か言い残すことはないか」 安房の守の言葉に・・ 「それにしても・・なぜにこのようにいきさつがお分かりになりましたのか‥そこが‥腑に落ちません」 目を細めわずかに笑顔の安房ノ守がそっと・・ 「そちの息子の音蔵と、そこな捨松の藤沢宿の風呂の会話からよ」 ぎょっとする捨松。ふーと息を吐いた伊蔵が、 「して・・それをお聞きになったご仁の名は」 「むう。それは・・いえぬな」 捨松を睨む伊蔵であった。十分に注意を払っておきながらも、蟻の一穴であることに伊蔵は歯ぎしりした。 南町奉行所でも、同日巳の刻までに、おしの他五名の即刻惨殺が言い渡されていた。翌十五日の江戸の町では瓦版から知った町人衆や武士たちが、今日の仕置きの話でもちきりであった。昼前までには馬上に引き回された音蔵ほか二名は中山道、小塚の原で獄門さらしとなった。おしの他五名もほぼ同時刻引き回しの上、東海道鈴ヶ森で処刑され落着となった。 神無月の末日。三之丞と与力・榎本一八は夕刻から鍵屋長屋の煮売りやおみよの店で飲み始めていた。 「いや。一八殿それにしても下段からの撥ね上げ切りまことにお見事でした」と三之丞。 「いや それがしなどまだまだの未熟者でござる。貴公こそ堀内道場では三指に入る腕前と聞き及びまする。一度是非ご教示いただきたい」と酒を注ぐ。 「それにしても、このほどはお奉行からえらくお褒めにあずかり恐縮いたしております。すべてこのいきさつは三之丞殿からと知っておいでなさるのに」 煮芋をうまそうにほおばる一八。 「それはそれでようございましょう。翌日直ちにおしのだけは遠島にと嘆願いたしましたが、両奉行、ご老中、柳沢公もお許しにならなかった。御政道を貫いたということでしょう。さあさあ、この酒は柳沢公・奥方様からでござる」 「おう。さようでございますか。心きく奥方様でございますなあ」 老中から、処刑の翌日には関係の諸藩にもいきさつが伝えられていた。 「それにしても・・風呂での一言が。恐ろしゅうござるな」 と一八は秋刀魚塩焼きに箸を出す。 「人の一生、生き死にはわからぬものでございますなあ。ほんの些細なことからあのようなことに」 三之丞も考え深げであった。 「この芋といい、小松菜といい、うまいですなあ。昆布出汁がしっかりと染み渡っておる。役宅の煮ものとはだいぶに・・」 「あれ、榎本様そのように大仰に。ただの煮物にござりますよ」 おみよがきれいな口ではずかし気に笑う。 鍵屋長屋の角を、今日は増上寺方向から風が吹き、門口に紅葉が落ちる。 完
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