妖精の尻尾
新人店員

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 風を冷たく感じ始める季節、日が昇るのも随分遅くなってきた。まだ夜が明けて数刻しか経っていないのに、通りには職場に向かう人々の姿がある。エドワードはその波に呑まれそうになりながら人と自動車、そして馬車の行きかう大通りを抜けた。  自然と息が弾み、出掛けに家人に着せられた薄手のコートの下では、じわりと汗が広がっている。 「意地なんて張らずに送ってもらうんだった」  エドワードは、コートの前ボタンを外しながら呟いた。コートの下に着ているのは紺のベストに白いシャツ。一見して仕立ての良いものだとわかる。十九世紀末――二十世紀を迎えようというのに、いまだ貴族社会の名残で階級が色濃く残る英国。この国でエドワードは、恵まれた家の生まれだった。まだ十三を越えたばかりのエドワードだったが、家では自分よりも年上の使用人達に頭を下げられる立場なのだ。実際今日とて運転手が送迎を申し出ていたのだが、彼はそれを断ったのである。  そのため、不慣れな乗合馬車に乗る羽目になってしまった。いくら産業革命を経て文化的に大きな変化があった昨今でも、車なんて持っているのは一部の特権階級だけだから、一般人は乗合馬車を利用する。当然、この時間帯は利用者が多い。そこまで気が回らなかったエドワードは、それが堪らなくなり、途中で馬車を降り、こうして近くはない距離を歩くことにしたのだ。     だがエドワードは、そのことを甘くみていた。自分の選択が招いた結果であったが、背中ににじむ汗を思うと、悔やまずにはいられない。それでもエドワードは、家人に車で送って貰うという選択肢を端から選ぶことができなかった。  だって、あんな店で働いているなんて知られるわけにいかないじゃないか、とエドワードは心の中でぼやいた。だが愚痴ったところで、契約を一方的に放棄することは彼のプライドが許さない。  契約――そう、それこそがエドワードがあんな店で働く理由であった。もっといえば、それを秘密にしなければならない理由でもあった。  エドワードが求めたものの対価を彼の店の店長は、労働力とその秘匿に求めたのである。普段からお金さえあれば大概のものが手に入っていたエドワードは、正直面食らったのだが、働き始めて五日も経てばこの生活も悪くないと思い始めている自分に驚いた。  エドワードがとあんな店と称したのは、一種の雑貨屋だ。様々な客が入れ替わり立ち替わり訪れる。友人宅のガーデンパーティー以外、特に家を出る機会がなかったエドワードにとって、何もかも初めての世界だった。いつも同じような顔ぶれと交わすホストと客の会話よりも、見ず知らずの客と交わす他愛もない会話が今は楽しい。エドワードが知らないことの多くを彼らが教えてくれた。  エドワードは足が速まるのを感じながら、いまだ見逃しそうになる小さな路地を抜けた。すると目的地が見えてくる。赤茶色のレンガ造りの建物。一階はガラス張りになっていて、店の様子が窺えるようになっている。だが、店内はまだ薄暗かった。エドワードはそれを気にせず、建物に足を向けた。  数段のステップの上にレンガの色に溶け合うような朱塗りのドアがあり、青銅製のプレートが掛かっている。プレートは裏返しになっているようで、そこには何も書かれていなかった。エドワードはステップを上ると、そのプレートに手を掛けた。裏返しになっていたそれを表に向ける。 You can get anything from socks to fairy's scales.  (靴下から妖精の鱗粉まで何でも揃います)  少しずつ馴染みが湧いてきたそのフレーズは、この店の営業時間を現すものだ。表を向いていればOpen、裏ならCloseという具合に。  しかしエドワードは、このプレートに書かれた言葉が真実であるか知らない。  産業革命以前、この国は妖精文化と共に歩んで来た。この国の伝承には多くの妖精が登場し、彼らの存在を実際に目にしたものはいなくとも、多くの者は彼らの存在を身近に感じ、信じてきたのだ。しかし産業革命以後、科学や文化の発展と共に妖精達は忘れ去られ、今では彼らの存在を信じる者は少ない。  そんな中でなお、この店はこのような看板を出している。その意図するところがエドワードにはわからなかった。  だが――彼ならそれも叶えてしまうだろう、とエドワードは思うのだ。エドワードに対して、彼がそうしてくれたように。そして少し癇に障るが、自分が与えられる対価以上に、彼には多くのモノをもらっているような気がする。  エドワードは、掴みどころのない店長の顔を思い浮かべた。手の中では、彼から預かった鍵が弄ばれている。まだほんの数日しか共に働いていない相手に、大事な店の鍵を預けるような信頼もその一つ。  鍵を鍵穴に刺し回すと、カチャリと金属音がしてドアが開く。薬草と油の混じったような独特の香りが鼻をついた。  壁に沿うように備え付けられた、エドワードの身長の優に二倍はある棚と、そこに並んだ色とりどりの商品が彼を迎える。中央に備え付けられた商談用の丸テーブルと、少し奥まった所に階段を背にして設置されたカウンターは年代物で、歴史を感じさせる深い色合いを醸し出していた。  今日も何かを求めて客がやってくる。忙しい一日が始まる。思いを巡らせながらエドワードは、シンプルな黒いエプロンに袖を通す。店の明かりをつけると、ずらりと並ぶ商品に命が灯った気がして、思わずくすりと笑ってしまった。 「さて、今日も一日頑張ろう」  腕まくりをしながら、エドワードは呟いた。

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