黒雨

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 そう言い放つと、肩回りに掛けられていた夫の両腕が、首元へと移動した。頸部を圧迫されて呼吸が苦しくなった。私は、もがき苦しみながら、尖った爪で思い切り夫の頬を引搔いた。私の首を絞める夫の手の力が緩んだ隙に、夫の拘束から逃れ、思い切り金的蹴りを喰らわせた。痛みで夫が蹲っているうちに、財布とスマートフォン、化粧道具などが入った仕事用のバッグを持って、家を飛び出した。  夫婦喧嘩は私たちにとって日常茶飯事だ。最初は小型犬がじゃれあうくらいのレベルだったが、それは日に日にエスカレートし、最近では、本気で生命の危機を感じることも少なくない。もし、勢いで、夫が私を殺してしまったとしたら、どうするつもりなのだろうか? きっと、愛人を呼び出して、ふたりで一頻りおろおろした後で、私を解体処分するのだろうか? 馬鹿ね。そんなことしたってバレるに決まっているのにね。そんなことを考えながら、私は、黒やら灰色のコートを纏った人々に紛れて、プラットホームに到着した銀色のボディーに黄色いラインが入った電車に飛び乗った。さて、今日はどこで下車しようかしらね? 夫婦喧嘩で気まずい雰囲気が漂ったときに家を飛び出すのは、いつも私の方だ。本当の意味で、何も持たずに家を飛び出したのは夫婦仲が悪化し始めた頃だけだ。今ではすっかり慣れっこで、コートを羽織る余裕まである。しかし、コートの中まで着替える余裕はなかった。裏起毛の黒のフリースワンピース。まあ、街中でショッピングをする分には問題なさそうだが、職場に来て行くのはどうだろう。私の職場は女性職員の私服に関しては基準が甘いが、流石に、主任の私が、毛羽立ったフリースワンピースを率先して着ていくのには多少の問題があるように感じた。よし、ショッピングしよう。もう、私は、先刻の旦那との喧嘩のことなど忘れ、まるで、旅行にでも行くようなうきうきした気分になった。

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