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 確認できたと理解できたのだろう。また先程途中まで聞いた口上を言い始めた。 「では、私が手をパチンと一度叩けば、眠りから覚めます。すると非常に体が軽くなっているでしょう。ただし二度叩けば催眠が解けます。さあ、行きますよ」  手を一度打った途端、香織の目が開いた。何が起きたのかとキョロキョロしている彼女に向かって朱音が尋ねた。 「体の具合はどうですか。どこか痛い所はありますか」 「いえ。体が軽いです。重い荷物を降ろした時のような感じです」 「そうですか。では」  今度は二度手を叩いた。それから朱音はもう一度香織に尋ねた。 「体の具合はどうですか」 「あっ、さっきまで軽かったのに、今は少し痛みがあります。腰も重いですね」  龍太郎が見る限り、香織の表情から嘘をついているようには思えない。彼女がそんな演技をするなんてとても信じられなかった。けれど体の具合など本人次第だ。医者であろうと、  そう簡単に他人が分かるものでもない。  そんな疑念を持っていると察したかのように朱音は続けた。 「ではもう一度体を楽にして、私の指に注目しましょう。いいですよ。今度はゆっくりと目を閉じて下さい。はい。これからあなたのおでこに龍太郎さんの手が引っ付きます。まるで磁石のように、あなたの頭は彼の手に引き寄せられます」  ここで朱音が目で合図をしてきた。手を額に置けと言う指示のようだ。その通りに従う。すると彼女がパチンと手を叩いた。  再び香織が目を開ける。朱音が言った。 「はい。龍太郎さんは手をゆっくり放して下さい」  これも告げられた通りにすると、引っ張られるように香織の頭が移動した。もう少し離そうとしたが、今度は立ち上がってまで頭が付いてくる。さらに遠ざけようとしたが、その分彼女は引きずられるように動いた。 「すごい。引っ張られる。本当に自分が磁石になったみたい」  疑心暗鬼になった龍太郎は下に手を向けた。だが香織の頭は追いかけてくる。そのせいで、彼女はお辞儀するように腰を曲げた。もっと下にと手の甲を床に近づける。それでも額がついて来た。よって香織は膝を折りしゃがんだ。  ものすごく不自然な態勢になったが、彼女は苦痛な表情を浮かべながらも笑った。 「痛い、痛い。でも引っ張られる。怖い、怖い。何、これ」  パチン、パチンと二回手が叩かれた。その瞬間、香織の額がすっと手から離れる。 「わっ、やっと外れた。すごい、すごい」  顔を上気させた香織は、立ち上がりながら目を白黒させている。その様子をみて龍太郎は何も言えなかった。  代わりに朱音が口を開いて説明してくれた。 「さっき香織さんには手が開かないようにしましたけど、今度もしっかりかかりましたね」 「龍太郎、これ冗談じゃないから。本気で引っ張られて離れなくなったのよ。演技じゃないって分かるよね」  これには頷かざるを得なかった。手に当たる感触と、離れていった際の感じはまさしく磁石のようだったからだ。 「とんでもない特技ですね。いつからこんな真似が出来るようになったんですか」  思わず口にした龍太郎の問いに彼女は答えてくれた。 「まだ両親が離婚する前、父が教えてくれた記憶がぼんやりとあります。小学校に上がる前だったので、実はよく覚えていません」 「そうなんですか。だったらどんなきっかけで他人に催眠をかけ始めたんですか」 「小学生の時、ちょっとした遊び心で、周囲にいた数人に試しました。私は十歳で芸能界に入りましたが、その時何か特技はないかと事務所の人に言われ、催眠術と答えたのです。それでやってみてと言われ何人かにかけた所、二人だけ上手くいった人がいました」  ここで香織が口を挟んだ。 「そうでしたか。でも朱音さんの特技が催眠術だなんて、聞いたことはないですけど」 「それはそうです。事務所でも限られた人しか知りません。確率が低いですし、芸人ならともかく女優志望だった私には余りプラスにならないだろうと、プロフィールには載せないことにしたのです。だからずっと封印していましたが、ここ十年位はバラエティの仕事が増えたでしょ。それでいつか試す機会が来るかもと、また練習をし始めました。今のマネージャーはよくかかる人でしたから、彼で何度も試していたのです。でも社長とかは駄目だったので、披露するタイミングを逃したまま現在に至るって感じですね」  そう説明した朱音だったが、何かを思い出したのか急に表情を暗くしうつむいた。それを見て龍太郎は想像した。催眠術は彼女にとって、離婚し疎遠になり亡くなった父親が残した数少ない大事な記憶なのかもしれない。  香織も彼女に異変に気付いたらしく、不安気に尋ねた。 「どうかしましたか。またお腹が痛くなりましたか」  しかし朱音は首を振り、全く別の話を口にした。 「いえ。そうじゃありません。実はこの催眠術が、今回の騒動を起こした発端なのです」  言っている意味が理解できず、龍太郎は香織と顔を見合わせた。首を傾げながら彼女が尋ねた。 「どういうことですか」  何か意を決したかのように朱音は顔を上げた。 「お二人にはまだ、私と柳畑議員の関係についてお話ししていませんでしたね」  そう言われればそうだ。何故議員が公衆の面前で、いきなり彼女の腕を掴み非常階段まで引きずるように連れて行ったのかをまだ聞いていない。二人になった際、胸を押したと聞いてそればかり気になっていた。  彼女は説明を続けた。 「あの人はかつて、私と同じ小学校に通っていました。学区が同じで二つ上の先輩だったのです」 「幼馴染おさななじみだったのですか」 「それ程親しかった訳ではありません。単に互いの存在を知っていた程度です。向こうは議員さんの息子だから有名でしたし、私が芸能事務所にスカウトされたという話は、近所で噂になっていましたから」 「確か二世議員でしたね。でもその程度の面識なら、腕を掴むような真似はしませんよね」 「はい。芸能事務所に所属が決まった四年生の時、引っ越しをして私は別の学校へ通うようになりました。それから昨夜まで、あの人には会っていなかったのです」 「それなら尚更おかしいじゃないですか。どうしていきなり乱暴な真似をしたのですか」  香織のもっともな問いに、彼女は突拍子もない言葉を口にした。 「あの時偶然にも、催眠が解けたからだと思います」  二人は唖然とし頭が一瞬混乱した。しかしある考えが浮かんだ龍太郎はそれを口にした。 「昔、柳畑に催眠術をかける機会があったのですね。それが昨夜、偶然にも解けてしまった。そう言う事ですか」  彼女は頷いた。 「そうです。催眠をかけたまでは良かったのですが、解かないままでした。それがいけなかったのでしょう」  にわかには信じ難かった。彼女がデビューする前だから、少なくとも三十五年は経っている。催眠術自体、先程まで疑っていたのだ。それが昨夜解けたなど、あり得るとはとても思えなかった。だが彼女はそこまで想定していたらしい。 「正直言えば、この話をする前段階として、お二人に試したのです。まず催眠術を信じて貰わなければ、柳畑さんとの繋がりの話自体が信用できないと思ったからです」  そうだったのか。龍太郎と二人になった時、突如として催眠術が出来ると言い出した理由がようやく理解できた。彼女の言う通りもし香織がかかっていなければ、単に奇妙な話をし始めたと思うどころか、無実だという言い分さえ疑ったかもしれない。  それでもまだ納得しきれない点がいくつかある。そこで尋ねてみた。 「柳畑に催眠術をかけたのは小学生の頃ですよね。その時一体、何があったのですか」  それから打ち明けられた説明は、想像の斜め上をいくものだった。しかしそれは、あの柳畑が取った謎の行動を解明する、唯一のものとしか考えられなかったのだ。  衝撃の告白の後、取りあえず今日は寝ようと朱音はリビングの横の洋間で、龍太郎達は北側の寝室でそれぞれ布団にもぐった。  ベッドに横たわったが、脳が興奮していたからだろう。なかなか眠りには付き難かった。といって香織とその話題をし始めれば、余計に目が覚めてしまうに違いない。  彼女もそう思ったのか、静かに目を閉じていた。よって龍太郎もとにかく体を休めようと考え直し、頭の中を空にしようと試みた。そうしていると知らぬ間に眠ってしまったのである。一日色々な事があったからか、精神や体はそれなりに疲れていたらしい。  翌日いつものように起きた二人は寝室から出て、香織が朝食の準備をし始め龍太郎はリビングの厚手のカーテンを開けて外の光を入れた。その音で朱音も目を覚ましたらしい。洋間の戸が開き、顔を出して挨拶された。 「おはようございます」 「朱音さん、おはようございます。洗面所は自由に使って下さいね」 「有難うございます」

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