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 すると意外な答えが返ってきた。 「これって趣味じゃなく特技になっちゃうのかな。私って催眠術が出来るんですよ」  また冗談かと思い笑っていたが、真顔に戻っている彼女の様子から本気で言っているのだと気付く。そこで首を捻りながら尋ねた。 「本当ですか」 「もちろんかかりやすい人と、そうでない人がいますけどね。暗示をかけてリラックスさせることもできますよ。どうです。試してみますか」  既に龍太郎は心身とも十分ほぐれていたが頷いた。 「折角ですからお願いします」  テレビ番組で見たことはあるが、実際にかけられた経験などない。それに緑里朱音と催眠術の組み合わせなんて全く思いも寄らなかった。こんなチャンスは滅多にない為、前のめりで質問した。 「どうすればいいですか」 「では体を楽にして、そのままソファに座っていて下さい。背もたれに体を預け、私の指に注目しましょう」  彼女は膝立ちで龍太郎の前に移動し、人差し指を左右に振りだした。言われた通りに目で追う。 「あなたはだんだん眠くなる。まぶたが重くなってきました。目を閉じていいですよ。はい。ではゆっくり大きく息を吸い、ゆっくり吐いてください。そう深呼吸です。もう一度吸って、吐く。徐々に体の力が抜けていきます。気持ち良くなったあなたは、深い眠りにつきます。目が覚めたら、驚くほど体が軽くなっているでしょう。はい、眠くなってきましたね。眠っていいですよ。はい、眠った」  こういう場合はどうすればいいのか。一昔前なら催眠術師や番組の意図を汲み取り、かかった振りをしただろう。だが近年は、いわゆるやらせに対してとても厳しい時代だ。よってかかっていなければ、素直に申告した方が良いに違いない。  といってこれはテレビ番組とは違う。あの緑里朱音が、恐らく冗談抜きで真剣に催眠をかけようとしているのだ。いや、本当にそうなのだろうか。これも先程までの流れと同じ、一種のジョークかもしれない。だったら取るべきリアクションも変わってくる。  龍太郎が苦悩しているのを余所に、朱音は言葉を続けた。 「では、私が手をパチンと一度叩けば、眠りから覚めます。すると非常に体が軽くなっているでしょう。ただし二度叩けば、催眠が解けます。さあ、」 「あ、起きました」  急いで目を開けそう告げると、彼女は両手を広げたまま動きを止めた。二人の目が合い、しばらく静寂に包まれる。先に口を開いたのは朱音だった。 「残念ながら龍太郎さんにはかからなかったようですね」  笑みを浮かべていたので龍太郎は安心して言った。 「はい。駄目だったようです」  何かで読んだことがある。催眠にかかりやすいのは、性格が素直で想像力が豊か。依存心が高くオカルト好きで、幽霊を見た経験のある人が多いという。  それを見た時、自分は当て嵌まらないと思った覚えがあった。一方で人の目を話す癖があり、集中力があって思い込んだら一直線の人という点は何故か条件を満たしていた。  催眠術にかかりにくいのは猜疑心さいぎしんが強く冷静で、不思議な現象に興味が無い人らしい。また知識が豊富で体調が良くない人や、解明しようと必死になる人も駄目だという。  その点は龍太郎に合致している。けれども余り悩み事や依存心が無く、かかりたくない気持ちが強く計算高い人も駄目らしい。そこは当て嵌まっていない気がした。  つまりどちらに転んでもおかしくない、との結論に至った。だから内心では本当にかかってみたかったのである。  がっくりしていると、香織がお風呂から出て来た。 「どうしたの。何かあった」  様子がおかしいと思ったらしく、不安気な声で聞かれた。その為二人で首を振り、龍太郎は立ち上がって説明した。 「大丈夫。ただ催眠術にかからなかっただけだから」 「催眠術ってなに」  次にお風呂へ入る為、すれ違いながら答えた。 「朱音さんの特技なんだって。俺は駄目だったけど、香織ならかかるかも」 「え、どういう事」  さらなる解説は彼女がしてくれるだろう。そう思い、龍太郎はそのまま黙ってお風呂場に向かった。香織もそれ以上言わなかったので、扉を閉めて服を脱ぎ始めた。  裸になり、風呂桶で湯をすくって体にかける。それからゆっくりと浴槽に浸かった。今日の疲れを取ろうと、手で肩を揉みながらぼんやりくつろぐ。  気がつけば、どうして催眠にかからなかったのだろうと考えていた。猜疑心が強いからなのか。そういえばあれより少し前、彼女の見かけに騙されてはいけないと考えていた。それがいけなかったのかもしれない。  そこで疑問に思った。そういえば、何故突然催眠術がかけられると言い出したのだろう。結局あれは冗談だったのか。でも彼女は目を開けた際、こう言ったのだ。龍太郎さんにはかからなかったようですね、と。つまり、かかった人がいるという意味に違いない。  いや、そうとは限らなかった。あの口振りも彼女の計算なのかもしれない。何せ演技派俳優として名をせている人だ。真剣な表情でコメディを演じられるのだから、あの程度の仕掛けなど造作ぞうさもないだろう。  湯船から上がり、ボディタオルに石鹼せっけんを擦り付けて泡立てる。香織は液体のボディソープを使用しているが、龍太郎は昔からの習慣で固形を使っていた。体を洗いつつ、こんなに彼女を信じ切れていないから催眠術にかからないのだろうと一人で苦笑する。  頭を洗い、泡を流しもう一度湯船に浸かってから上がった。風呂場を出る前にスポンジで軽く浴槽についたあかをこすって洗い流す。排水溝に溜まった毛髪などを取り除く等の掃除もした。  毎日こうしておけば、十日に一回の頻度でする風呂掃除の際、それほど汚れておらず、簡単に済ませられるからだ。  いつものルーティーンを終わらせ換気扇かんきせんを回す。浴室全体を乾燥させていればカビも生えにくいからだ。バスタオルで体と髪の毛を拭き、香織が用意してくれた下着などに履き替え戸を開けた。  すると香織達のはしゃぐ声が耳に届いた。 「駄目じゃないですか。これだと出来るようになったのか、分かりませんよ、朱音さん」 「ごめん、ごめん。でもしょうがないでしょ。何故か、かかりにくいんだから」 「かけられるのに、かかりにくいってあるんですね」  ソファに座って向き合い盛り上がっていたからか、二人は龍太郎に気付かないようなのでこちらから声をかけた。 「上がりましたよ」 「あっ、龍太郎がいた、って駄目か。さっき朱音さんでもかからなかったって言ってましたね。誰か他の人で試したいな」  そこでようやく催眠術の話題だと理解する。しかし疑問に思ったので聞いてみた。 「香織。試してみたいって、催眠術か。もしかして朱音さんから教わったのか」 「そう。朱音さんって凄いんだよ。私、一発でかかっちゃった」 「え? かかったって、催眠術にか」 「そうよ。龍太郎は駄目だったみたいね。だから折角教わったのに、朱音さんもかからないっていうから、出来るようになったかが確認出来ないのよ」  なる程そういう事かと納得しかけたけれど、聞き流せなかった為に再度尋ねた。 「香織は本当に、朱音さんの催眠術にかかったのか」 「さっきからそう言っているじゃない。それでコツさえを覚えれば、私にも出来るって聞いたから教えて貰ったの」  まだ信じられなかった為、今度は朱音に念を押した。 「香織にはかかったんですか」 「はい。彼女はかかりやすいタイプのようです。もしかして龍太郎さんは信じていなかったのですか」  痛い所を突かれ言葉に詰まる。だが彼女は平然と言った。 「でしたら龍太郎さんの前で、もう一度香織さんにかけて見ましょうか」 「そうよ。嘘じゃないって。本当にすごいんだから」  香織も同意した為、龍太郎は頷いた。もし本当ならば是非見てみたい。 「では先程龍太郎さんにも試した、体が軽くなるものからかけてみましょう。香織さんは今、体調はどうですか」  朱音の言葉に、やや躊躇しながら彼女は答えた。 「少し頭と腰が重い感じがします」  そういえば朝、そんな事を言っていた。だから出かける前に鎮痛剤を飲んだはずだ。その後特に支障が無かったので忘れていたが、まだ多少の違和感は残っているらしい。 「では体を楽にして背もたれに体を預け、私の指に注目しましょう」  朱音は香織の横に座ったまま、人差し指を左右に振りだした。 「あなたはだんだん眠くなる。瞼が重くなってきました。目を閉じていいですよ。はい。ではゆっくり大きく息を吸い、ゆっくり吐いてください」  その後も龍太郎の時と同じ内容を告げ言い終わっていたが、本当に眠ったかどうかは不明だ。すると朱音が言った。 「龍太郎さん。彼女の腕を軽く突いてください。眠ってしまったかどうか、顔を近づけて確認して貰っても結構です」  指示された通り、目を瞑ったままの彼女の二の腕辺りを人差し指で触る。起きて来なかったがそれだけだと分からない。その為に耳を近づけて寝息を聞いた。  結婚してから、二人はずっと一緒のベッドで寝ている。よって彼女がどういう状態なのか、大体判別できる自信は持っていた。  すると熟睡している時のように、胸が規則正しく上下していた。呼吸も乱れていない。これは本気で寝ていると思われた。竜太郎は静かに離れ、朱音に視線を送り頷く。

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