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 それはまりあにとっては、セピア色になった写真のように色褪せた記憶だった。十一年前のあの日、まりあは人生で最も輝いていた。結婚式の当日、式場に向かうまりあの隣には和内猛の姿があった。 「私、もう『和内まりあ』なんだね。何だか不思議な感覚だよ」 「まりあは『まりあ』だよ。ほかの何物でもない。俺のものだ」 ジャイアニズムのあるところはちょっと気になっているが、まりあは猛に惚れていた。  二人の出会いはさらにその三年前に遡る。当時、まりあは就職活動を控えた角善堂書店のバイトだった。大学一年生の頃から角善堂でバイトをしていたので、書店に親しみがあり、そこに就職できればと考えていた。読書に親しみがあって、POPを書くことが得意だとかアピール材料はたくさんあった。その時に相談に乗ってもらっていたのが、その当時勤めていた店の店長だった猛だった。猛は当時三十代前半と若くして店長に就任したことで、会社の中でも一目置かれていた。まりあも彼のことを尊敬の目で見ていた。 「あの、角善堂に就職したいんですけど、アルバイトからの正社員登用ってありますか?」 「ああ、それならあるよ。でも、それはあくまでも人員補充のためのものだから、新卒で採用と言うことだったら、ちゃん と説明会受けて、面接に臨んだ方がいいよ」  猛はそう言った後で 「そうか、ここの正社員になりたいと思ってくれるのか。俺は嬉しいぞ。本社に口添えしておくし、エントリーシートの書き方も教えるから、何でも言ってくれよ」  と付け加えた。親身になってくれる姿勢がまりあにとっては、何より嬉しかった。それから説明会などが重なって、なかなかバイトに行くことが難しくなってきたときでも、閉店後に店を訪れ、猛のアドバイスを受けた。ときには、2人で食事をしながら、付き切りで就活の相談に乗ってもらうこともあった。自然と2人は距離を縮めた。いつの間にか就活が終わったら、テーマパークに行こうという約束が交わされた。  角善堂から内定をもらったときも、最初にそのことを伝えたのは両親でも、ゼミの教授でもなく、猛だった。 「店長、角善堂から内定もらいました。これも店長のおかげです。ありがとうございます!」  まりあは電話口での第一声でそのように伝えた。 「そうか、河合さん、おめでとう! 第一志望に受かってよかったじゃないか。俺のおかげもあるけど、河合さんが魅力的だから内定がもらえたんだよ」  猛も喜びを爆発させていた。 「これで、店長とディズニー行けますね」 「ああ、そうだな。約束だからな。楽しみだよ」  二人とも、声を弾ませていた。  まりあは初めて猛と手をつないだときのことを憶えている。それは駐車場に車を停め、ディズニーランドへ行く途中のことだった。彼は車でまりあの住む学生マンションまで迎えに来てくれた。方向は反対なのに、そこまでしてくれる猛にすっかり惚れこんでしまった。 「店長、今日はディズニーに行くのに、休みを取っていただいて、ありがとうございます」 「おいおい、ここは店じゃないんだから、店長じゃなくて……そうだなぁ、猛でいいよ」 「えっ、たけしって、そんな風には呼べません。やっぱり、店長は店長ですよ。まだ恋人同士じゃないんだし……」  そう言うと、まりあは猛の様子をうかがうように見た。すると、猛は少し黙って、それから言った。 「それなら、今から恋人同士になる?」  まりあの顔が一瞬にして紅潮した。 「な、何言ってるんですか? そんな軽く言わないでくださいよ。それは……もっと……ムードのあるところで言ってほしかったですよ」 「軽く言ったつもりはないよ。本当はムードのあるところで告白したかったんだけどな……それは改めてまた言うとして、出発しようか」  その車中は気が気でなくて、まりあはほとんどしゃべることができずに黙って過ごした。車内に流れる彼の好きなバンドの曲がやたらと耳に残った。一時間半くらい車に乗って、パークに到着した。平日だったので、休日ほどではなかったけれども駐車場は九割方埋まっていた。何とか車を停めると、まりあと猛は車から降りた。 「ありがとうございました、店長……じゃなかった、猛さん」  猛は思わず、ぷっと噴き出した。まりあはまた顔を赤らめて、 「もう、言いなれないんだから仕方ないじゃないですか」  と言った。そのすぐあとに、猛はまりあの手を握って言った。 「ごめんごめん、でも、その赤い顔もかわいらしくて好きだよ。さ、行こうか」 「えっ……」  その次の言葉をまりあは紡ぐことができなかった。しばらく、ぼんやりと歩いていたが、猛がずっと手を握っていたのに気がついて、グッと手が離れないように握り返した。 テーマパークに入ってからは、そこまで混んでいるわけでもなかったが、どのアトラクションでも行列ができていた。以前に行ったときは行列の長さに辟易していたまりあも猛といると、並んでいる時間さえも貴重なものに思えた。帰れば、店長とバイトの関係に戻ってしまう。まりあにとっては、それが怖かった。話す話題は尽きなかった。就活のこと、学生生活のこと、友達のこと、まりあは一生懸命に、熱っぽく語った。猛も今までのことを話してくれた。お互いの恥ずかしいことも話して、繋がりあえたような気がした。  あっという間に、夜になり、パレードの時間になった。その日は一日中晴れて、残暑が厳しかった。そんな状況下でも、まりあも猛もそれらが苦にならなかった。場所取りをして、パレードが来るまでしばらく待つ。 「パレードそろそろですかね?」 「もう来てもおかしくないんだけど」  こんな他愛もない会話でさえ、彼らにとっては大事に思えた。一言も無駄じゃない、そんな風に二人とも思った。やがて、きらびやかな電飾を施したフロートが並んだパレードがやってきた。フロートの上ではキャラクターたちが愛敬を振りまきながら、アピールをしている。  まりあはドキドキしていた。パレードを見ながら、これから訪れるであろう胸を焦がす時間のことを考えていた。まるでパレードの光が遠くに見えるように感じられ、キャラクターたちのアピールにもぼんやりと手を振り返すだけだった。 「そろそろ帰ろうか、パレード終わったし」 「うん」  いつの間にか、パレードは終わり、道の両端を埋めていた客たちは立ち上がり、帰り支度を始めている。お土産をまりあの分まで両手に抱えた猛はすでに立ち上がっていた。周りを見ても、座っているのは彼女だけだった。 駐車場までの帰り道、二人は手をつなぎながら黙って歩いた。その道はずっとどこまでも続いていくかと思うくらい遠く感じられた。十分くらい歩いただろうか、猛の車にたどり着いた。まりあにはとても長いものに思えた。猛は後部座席に土産を置くと、まりあに 「どうしたの? 乗りなよ」  と促した。 「すみません、荷物まで持ってもらって、先に乗るのは気が引けちゃって」 「いいよ、そんなこと気にしなくて」  猛は少し面倒くさそうに言った。猛は車に乗り込むと、しばらく黙ったまま、エンジンをかけずにいた。 「どうしたんですか、エンジンもかけないで。疲れました?」  まりあが心配そうに言う。 「なあ、朝言っちゃったけど、もう一度言うよ。俺は河合さん、いやまりあのことが好きだ。付き合ってほしい」  この時が来るのは分かっていたが、まりあの喜びは頂点に達した。すぐに、 「私もです。猛さんのことが好きです。よろしくお願いします」  と返した。 「このことは書店の皆には内緒な」  猛はそう付け加えた。 「はい」  まりあが返事した時点で、二人の秘密が成立した。  猛に告白されてから、まりあの中で起こる時間の流れは急に早くなった。何度かデートを重ね、二人の仲は親密になっていった。速読を教わったのも、その頃だった。猛の仕事終わりに食事に行くことが多かった。まりあも就職を決めた後は、卒論を書くだけなので、大学に顔を出すよりもバイトに精を出すことの方が多くなっていった。 「まりあ、卒論は大丈夫なのか? ちょっとシフト希望入れ過ぎだぞ」  と猛が心配になるくらい、まりあはバイトのシフトに入った。 「大丈夫、それはそれでちゃんとやってるから」 まりあはいつもそう言っていた。実は少しでも、猛のそばにいたいという思いがそうさせたのだった。早く卒業したい、そんなことを思いながら、まりあは春を迎えたのだった。 つづく

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