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 その夜、まりあはずっと篠宮のことについて考え続けた。 (篠宮君のことを明るく振ったつもりだけど、それが却って彼を傷つけたんじゃないか)  そう思っただけで、子供たちの前では見せなかった涙が溢れ出てくるのだった。 (もう篠宮君に会えないかもしれない。そこまでの覚悟を決めたはずなのに、悲しくなるのはなんでなんだろう)  洟をすする音が寝室に響く。横では翔太と悠太が目を閉じて眠っている。 (私も寝なくちゃ)  目を閉じてみるのだが、まぶたの裏に貼り付いたかのように、篠宮の顔が映る。そして、また目覚めてしまう。それを繰り返すうち、気付けば寝室のカーテン越しに映る光は眩しさを帯びてきた。まりあは一足先に起きて朝の支度を始める。ふと、後ろを振り返ると、翔太が起きていた。 「おはよう」 「ちょっと、あんたはまだ寝てていいんだよ」 「そんなこと言ったって、お母さんがずっと起きてたから、気になって眠れないよ」  まりあは動揺を隠すことができなかった。 「えっ、何で知ってるの?」 「お母さん、ずっと泣いてたじゃん。心配になっちゃって。悩んでることがあったら、僕に話して」  翔太に泣いていることを気付かれ、まりあはどう返事をしていいか分からなかった。ただ、 (子どもの前では泣いてはいけない)  との思いが強かった。 「ありがとう、でももうお母さんは平気だからね。さあ、起きて支度しなきゃ。翔太はもうちょっと寝てても大丈夫だからね」  まりあはそう言うと、寝室から台所へ行こうとした。しかし、その途中で言わなければならないことに気づき、寝室へと戻った。 「お母さんが泣いてたことは悠太には内緒だよ、約束してくれる?」 「分かった、約束するよ」  そんなやり取りを交わした後、まりあは台所へ行き、翔太はベッドに倒れ込んで眠った。  吊革に掴まって移動する通勤電車はやはり苦痛だった。この日はイヤホンで好きな音楽をずっと聴いていても、あの時みたいに倒れてしまいそうで不安だった。この日ばかりは篠宮に会えることも楽しみではなく、苦痛にさえ思った。だが、こんな時に限ってというか、やはりと言うべきか、まりあはトリップしてしまった。       ※ 「まりあ、どこにいるんだ? いいから出ておいでよ」  篠宮らしき声がする。 「まりあ、僕はここにいるよ。逃げも隠れもしないから、一緒になろうよ」  その声は遠くから聞こえているようだった。 (そもそも、私はどこにいるんだろう?)  その疑問は当然のものだった。まりあは電車の中にいるはずだったのに、なぜか森の片隅にいた。木の陰に隠れている。声を出そうとするが、喉の奥に何かが引っかかっているみたいでうまく声が出ない。木の陰から出ようとするものの、足が上手く動かない。つまりは手も足も声も出せなかった。 「まりあ、まりあ、どこにいるんだ?」  篠宮のような声は大きくなっていく。 (篠宮君、私はここだよ)  声にならない声でまりあは叫ぶ。彼女の声が篠宮に聞こえているのかも分からなかった。 (それにしても、篠宮君はどうして私のことを”まりあ”って呼んでるんだろう?)  ふとそんな疑問に駆られた。一度、そう思ってしまうと、気になって仕方がなくなってしまう。 「まりあ、ここにいたんだね」  背後から声が聞こえる。まりあは希望に打ち震えた。 (篠宮君、私を救い出してくれるんだね。ありがとう!)  そう思って後ろに振り向いた瞬間、彼女の表情が凍り付いた。そこには、顔のない人間が立っていたのだ。叫ぶこともできず、動くこともできず、まりあは近づいてくるその人間に慄いた。 (ちょっと、あっち行ってよ)  思っていても、目の前にいる人間には届かない。そして、顔のない人間がまりあに触れた。       ※  まりあは新宿駅のベンチに座っていた。周りに人はおらず、通勤途中の乗客が改札の外へと流れていく。その光景を眺めながら、彼女は腕時計を見た。もう始業時間まで十分しかない。慌てて改札の方に向かうと、走って職場へ向かった。走る間も、 (私が見た夢は何を暗示しているんだろう。そもそも、私は何を隠れる理由があるんだろう。篠宮君から逃げたいって思ってるのかな? いや、そんなことはないはず)  と考えていた。慌てて走って、息を切らしながら、職場に到着した。そして何事もなかったかのように、今日一日頑張ろうと心に誓ったのだった。 「お疲れ様です」  篠宮は何一つ表情を変えずに挨拶した。 「お疲れ様です。昨日は……」  まりあがそう言いかけると、それに被せるように、 「昨日は貴重な経験をさせていただいて、ありがとうございました。作家さんのパシリなんてそうそうできることじゃないですもんね」  と篠宮が話す。まりあは気を取り直した。 「そ、そうね。昨日はありがとう。今日も頑張ってね」  そう言うと、レジから呼び出しがあったので、まりあは逃げるようにレジへと向かった。ビジネス書を取り置きしていた客が訪れたというのだ。客にとっては担当も何も関係ない。幸いなことに、そのビジネス本はベストセラーになって、売り切れていた本だったので、内容ぐらいはまりあも知っていた。レジの棚から、取り置きしていたビジネス書を取り出して、サラリーマンと思われる風貌の男性客に渡す。会計を済ませると、男性客は急いでいるようで、一瞥もくれずレジを後にした。  売り場に戻ってきたまりあは、浅倉さんに声をかけられた。 「ちょっと、大変。篠宮君が自分からPOPを作るって言いだしてるの。あの子、POP描くの苦手だって言ってたのに」  昨日までなら、好きな気持ちがあっても、 「ああ、明日大雨になるかもね。書き方をレクチャーしないと」  なんて冗談が言えたのかもしれないけど、まりあには今、そんなことを言う余裕はなかった。 (それにしても、どういう考えなんだろう)  そのことが気になって仕方ない。まりあの頭の中は、篠宮がどんな意図をもって行動を起こしているのかを図ることでいっぱいになっていた。そう思うと、篠宮の一挙手一投足が気になってしまい、仕事が手につかない。 (もしかしたら、篠宮君は昨日のことを話しちゃうかもしれない)  そのようなことが頭をよぎる。不安な中、終業の時間を迎えた。 「お疲れ様でした」  と帰りの挨拶をする。浅倉さんは 「お疲れ様でした。明日もよろしくね」  と声をかけてくれる。一方、篠宮は 「……」  品出しに気を取られていたのか、返事がなかった。まりあにとっては、そのことも不安の種だった。 つづく

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