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 開店前の書店に、まりあの謝る声がそこら中で聞こえた。 「ごめんね、昨日休んじゃって。ちょっと体調が悪かったの。一日休んだから、もう大丈夫」  本の発注も、在庫管理もベテランパートの浅倉さんが出勤していたので、何とか回ったと店長から聞いた。浅倉さんからは店長が平積みを手伝ったらしいのだが、あまり役に立たなかったことが伝えられた。 「まあ、店長らしいと言えば、店長らしいよね。店長休みだから言えるんだけど」  と笑って返したものの、まりあは申し訳なさでいっぱいだった。 「ホントにありがとう。昨日休んだ分、今度、そこの喫茶店でコーヒー奢るから」  浅倉さんはすかさず、 「じゃあ、カツサンドも付けてね」  と冗談めかして言った。 「それにしても、河合さんは仕事に子育てに忙しいんだから、無理しないこと。河合さんが倒れたら、ここは何とかなるかもしれないけど、家庭は大わらわになるんだからね。」  そして、浅倉さんは必ず次の言葉を付け加える。 「やっぱり、親は二人いた方がいいわね。再婚したらどうかしら。今どき、子持ちのシングルなんて腐るほどいるんだから、後ろめたさを感じることないと思うけどね」  まりあはその悪気なく発された言葉に傷つくまでは行かなくても、違和感を覚えることが多かった。元夫との関係が結婚末期には最悪な状態にまで至っていたので、今はとても気楽なことやしばらくは子育てに専念したくて、”夫”と呼ばれる大きな子供がいることが煩わしいことなどを浅倉さんにそれとなく伝えてみたが、 「ふーん、河合さんはそう思っているのね。でも、よく考えてみて……」  というように反語を付けられて、持論を展開されてしまう。まりあは浅倉さんにその点を理解してもらうのを諦めて、再婚話が出るとそれを受け流すようにしている。  ひと通り謝罪を終えると、まりあは開店までの間に入荷している書籍を確認し、取り置きや予約のある本を取り置きコーナーに置いた。事務所に置いてある金庫から現金の入った箱をレジまで持っていき、レジ内を確認した。以前は各フロアのレジコーナーにレジが十台以上並んでいたものだったが、今はセルフレジを導入していることもあって、昔ほどレジの確認作業は大変ではなくなった。その間に浅倉さんはその日発売の雑誌に付録を挟み込むため、バックヤードに応援に駆り出されていた。 「浅倉さん、悪くない人なんだけどな。話面白いし、仕事できるし。ただ、再婚を勧めるのを抑えてほしいんだけどな」  ぶつぶつ独り言を呟きながら、まりあはバックヤードの方を見ている。  すべての準備が整い、角善堂書店新宿店は開店の午前十時を迎えた。店内にはうっすらとショパンのノクターンが流れている。今の時間、訪れる客は年配層が多い。皆、一様にマスクをし、備え付けのアルコール消毒液を手に散布して、ウィルス対策をしている。  開店してしばらくすると、ゆったりとした雰囲気に包まれた店内に、 「どうなってるんだ!」 とレジの方から怒鳴り声がこだました。まりあが向かうと、セルフレジの前で老人に見える男が新書担当のパート女性店員に向かって、捲し立てているようだった。 「どうされましたか?」  まりあが老人に尋ねると、 「どうしたもこうしたもないよ! この本屋はどうなってるんだ」  老人は興奮していて、具体的にどうしたのかを引き出すには時間がかかりそうだった。 「何か不愉快に思われましたら、申し訳ありません。どのような点でお困りですか?」 「これだよ、これ」  と言って、老人が指差したのはセルフレジだ。話をよく聞いてみると、この老人はいつも本を買うときに人のいるレジを使っているのだが、パート店員に忙しいからとセルフレジを勧められたらしい。それだけでも腹を立てているのだが、老人曰くこのパートのセルフレジの説明も要領を得ず、とうとうイライラが頂点に達して、激昂してしまったという話だった。結局、店側が不快な思いをさせたとして謝罪し、有人レジで精算をすると、それ以上老人は何も言わずに店を去っていった。 「こういうときは、忙しくても有人のレジで対応した方がよかったね。年配のお客様って、こういう新しい機械類は苦手だから」  まりあは優しく言ったつもりだったが、若いパートの店員は客に怒鳴られたショックからか呆然としている。 「ほら、レジの方はしとくから、ちょっとバックヤード行って、気持ちを落ち着かせてきな」  まりあに言われたパート店員は、 「あ、ありがとうございます。ちょっと行って来ますね」  と言って、急ぎ足でバックヤードに向かった。  書店に再び平穏が訪れた。平日午前中の書店は穏やかな空気が漂っていて、まりあの精神を穏やかにさせた。何冊か新刊本の入荷があるものの、それらは大抵午後からなので、ゆったりしている。平積みになっている本を補充するときに、まりあと浅倉さんとで会話ができたくらいだ。  話題は自然と、怒鳴り声をあげた老人の話になった。 「たまにいるよね。ああいうお年寄り」 と浅倉さんが話を向けると、 「セルフレジを導入してから、使い方が分からないっていうトラブルが多いからね。キャッシュレスなんか私でもよく分かってないのに……」 まりあもそれに応じたが、話を終えないうちに中年の女性客が 「大月隆三りゅうぞうの新刊本はあるかしら?」  と尋ねてきたので、話は打ち切りになった。ちなみに、大月隆三の新刊本は売り切れになって、予約しか受け付けていない。彼の新刊本はその年の大河ドラマの原作の一つであり、歴史小説ファンには緻密な作風が受けて、出版不況の中、大ヒットを遂げている。まりあは書店員になるまで歴史小説をあまり読まなかったが、一度読んでみると歴史の重みが感じられて、その魅力にハマった。その結果として、戦国時代や幕末などには相当詳しくなった。  その大月先生が新刊本を引っ提げてサイン会を行うというのだから、歴史小説ファンで店内が埋め尽くされるだろうとまりあは想像する。一方で、書店員はイベントの企画から司会までこなさないといけないので、そのことを考えるとぞっとした。 「お疲れ様です!」  やたらと元気な声が聞こえた。バイトの山上やまがみこずえだ。 「ああ、お疲れ様です。今日も元気ね」  まりあが少々引いた感じで言うと、 「はいっ、今日も元気です」  とそれこそ元気よく返した。まりあは (今日はやたらと機嫌がいいわね。小説順調に進んでいるのかな) などと想像するのだった。  こずえは小説家志望で、調子良く作品が書けた翌日はとても機嫌良く仕事をしてくれる。だが、小説も毎日順調に書ける訳ではない。スランプに入ったときなどは、この世のものとは思えないローテンションで接客をしてしまうこともある。小説家を志望する書店員はたまに存在する。でも、彼女は小説家志望が先に来て、ややバイトのことが疎かになるようなところが見られる。だから、公募の締め切り前にもなるとそわそわし始め、終業時間になるとすぐに帰ってしまう。それだけなら良いのだが、本当の間近になると、その周辺の日にシフトを入れなくなってしまう。仕事はしっかりこなせているので、まりあや店長からは大目に見られているが、いつまで続くのかという思いをまりあも店長も抱いている。 「早く小説家になって、ここでサイン会できるようになってね」  一度、まりあが激励の意味を込めて言ったことがあるが、その時ちょうどスランプに陥っていた時期だったので、 「私の筆力で、小説家になんてなれるわけないですよ。どうして、そんな無責任なことが言えるんですか?」  などとこずえに凄まれたことがある。  何はともあれ、扱いづらくはあるが、まりあにとってこずえはバイト店員というよりかは、小説家の卵といった感じで捉えていた。 つづく

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