作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 篠宮はうだるような暑さを感じながら、ゼミを終えるといつもより早く悠太のもとを訪ねた。 「こんにちは、翔太君が家出したって本当?」 「うん、お父さんのところに行くって言ってたよ」 「えっ、そうなんだ。行く先が分かっているのか」  室内は熱中症になりそうなくらい暑くなっていた。 「こんなに早く来てくれるとは思わなかったから、エアコン付けるね」  悠太はエアコンのリモコンを持って来て、スイッチを押した。冷風が室内を駆け抜ける。篠宮の額に滲んでいた汗も、少しずつ引いていった。 「何か飲む? 麦茶ならあるけど」 「じゃあ、それでお願い」  悠太は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出すと、食器棚から出したグラスに入れて、亮に差し出した。 「ありがとう」  と言うと、喉が渇いていたのか、篠宮はすぐに麦茶を飲み干してしまった。そして、テーブルの上に、グラスを置いた。 「悠太君、これからどうする? このまま、放っとけないだろう」 「兄ちゃんのことは心配だけど、亮君が来るまで待ってなさいって言われたからなあ。それに、今連れて帰ったって、また家出したくなると思うんだ」  それを聞いて、篠宮の口からは何も言えなくなってしまった。物事の核心を突く悠太に、タジタジだった。 (僕らが変わらないといけないのかな?)  そういうことを思うまでになっていた。その時、家の電話が鳴った。 「もしもし、あっ、お母さん?」  悠太が電話の内容を聞く。 「うん、分かった。亮君に伝えとくね」  そう言うと電話が切れたらしく、悠太は受話器を置いた。 「亮君、やっぱり兄ちゃんは、お父さんのところに行ったんだって。それでお昼を一緒に食べて、泊まるんだって」 「そうか、分かった。翔太君はお父さんのところに泊まるんだね。ほとぼりが冷めるまではお父さんのところに泊まるのがいいのかもな」 (僕は彼らに何ができるんだろう)  篠宮はそんなことを考えるのも面倒になるくらい考えていた。 「あ、あとお母さん、今日は仕事、昼から休むんだって」  悠太の声に、篠宮は「うん」と生返事をした。余りにも気のない返事だった。 「そうか、ここに戻ってきてくれるのかな?」 「そうじゃないかな」  篠宮には悠太の声もどこか気のないように聞こえた。 「戻って、どうするんだろうな?」  篠宮が独り言のように呟く。その呟きは霧のように消えていき、それきり篠宮も悠太も沈黙したまま、時間だけが過ぎていった。 「ただいま」  というまりあの声が聞こえると、悠太は篠宮との間に広がっている沈黙を切り裂くように玄関まで行き、 「おかえり」  と言って出迎えた。遅れて篠宮も、 「おかえりなさい」  と言った。 「篠宮君、早く来てくれてありがとう。ごめんね、翔太のことで迷惑かけちゃって」 「いえ、いいんですよ。ところで、翔太君はお父さんのところに泊まるって言ってるらしいんだけど、どうするの?」  まりあは疲れた素振りも見せずに篠宮の質問に答えた。 「ちょっと今から、お父さんのところに行って翔太と話してくる。悠太と篠宮君はここで待っててくれる?」 「今からって、もう昼過ぎだよ。疲れているのに、明日出直したらどう? 急に行ったら向こうだってびっくりするよ」  篠宮の声をかき消すように、まりあは反論する。 「急に押し掛けたって、向こうは驚かないし、っていうか、勝手に出ていったのは翔太の方だからね。それで家出を唆したのはお父さん。そうだよね、悠太?」  まりあに見つめられた悠太は 「えっ、知らないよ。僕のいないところで、話してたんだよ。だから、家出って聞いた時も本当におどろいたんだって。ねえ、信じて。何も隠してなんかないんだ」  と必死に身の潔白を主張した。その様子はまるで、無罪を求める被告人のようでもあった。篠宮も、 「僕も悠太君が嘘をついているようには思えない。そうでなければ、わざわざまりあさんのところに電話なんかよこさないよ。いろいろ揺らぐことがあるかもしれないけど、子供の言うことを疑っちゃいけない。このままだと、まりあさんは悠太君のことも失うかもしれないから心配になるよ」  と悠太をかばった。 「ごめん、悠太。わざわざ電話なんか掛けないよね。我が子のことを疑うなんて、親として最低だよね。翔太にも謝らなきゃ。やっぱり、翔太のところに行ってくるわ」 まりあはそう言うと、踵を返し、玄関で靴を履いて、外へと出ていった。  無我夢中になっていたので、まりあがどうやって翔太に会おうかというプランがないことに気づいたのは、電車に乗った後だった。 (とにかく、翔太に連絡を取らなくては)  と思い、翔太にLINEを送ってみる。だが、これはまりあの中で期待薄なので、猛にもメッセージを送る。連絡がつくのかどうかも不透明だったが、それらのメッセージに気づいてくれることに賭けるしかなかった。しかし、返信のないまま、時間は過ぎ、二回目の乗り継ぎ駅で降りた瞬間に、メッセージが来た。猛からだった。 「翔太は母親と話すことはないと言ってるし、こちらとしても、あいつを刺激させて機嫌を損ねたくないんだよな。というわけで、今日は無理だ」  それだけが示されていた。余りにも一方的な拒否の構えにまりあとしても引き下がるわけにはいかなかった。 「翔太に一目会って、謝りたい。それができたら、しばらくはあなたのところに泊まってもらってもいい。だから、お願い、話だけでも出来るように話してくれない?」  とメッセージを送った。それから返信を待ったが、その間もじれったく、猛の住むマンションの詳しい住所を地図アプリで調べて気を紛らわせた。電車内の冷房の風が立っているまりあに当たって、体を冷やす。気がつくと、猛の住む街の最寄り駅に到着していた。駅のホームに降り立つと、冷えた体が暑さによって、一気に火照っていった。返信は来ない。しかし、ホームのベンチに座り、メッセージを送った。 「今、あなたの住むマンションの最寄り駅まで来ました。今から、そちらに向かいます」  まりあはこんなメッセージを送った自分を怖いと思った。 (これじゃあ、亮君のことを責められなよね)  そんなことを思っていると、猛から返信が届いた。 「近くまで来ているなら、俺と話そう。近くに喫茶店があるから、そこで話そう。地図を送る」 同時に添付された地図には猛が住むマンションの近くの喫茶店が表示されていた。まりあはそれでは納得がいかず、 「どうしても翔太に会いたい。そうでないとここまで来た意味がないから。そうでなければ、マンションに押しかけます」  と返信した。そして、まりあはマンションの方に向けて足を進めた。地図で見た感じだと、駅から徒歩十分といったところだろうか。歩いているうちに夏の太陽がじりじりとまりあの体を襲う。慌てて出てきたので、日傘も帽子も何も持ってきていない。 (帰ったら、日焼けがひどいだろうな)  などと思いながら、ひたすらに歩く。十五分ほど歩いただろうか、目的のマンションに到着した。  マンションは十階建ての立派な建物だった。マンションのエントランスで到着の報告をするべくメッセージを送ろうとしていた時ことだ。男がエレベーターからエントランスに降りてくるのが見えた。見覚えのあるその男は、まりあの存在に気付くと慌ててエレベーターから出ようとしたが、まりあはエレベーターの前に立ちふさがった。 「和内さん、何で翔太に会わせてくれないの?」  涙ながらにまりあは叫んだ。 「何でって……」  猛はまりあの迫力に押されて、何も言えなくなった。ついには、まりあはエレベーターに入り込み、猛の住む部屋に向けて歩みを進めていった。   つづく

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません