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「あの、本当にいいんですか?」 「いや、誤解しないでほしいんだ。篠宮君のことを思って今日は来たの。ごめんね、食事じゃなくてお茶になっちゃって」  吉祥寺にあるおしゃれなカフェの客は、まりあと篠宮のほかに誰もいなかった。ゴールデンウィーク期間の午前中と言うこともあるだろうが、やはり、長引く新型ウィルスの影響が大きいと思われた。「新しい生活様式」が浸透した社会は、何事にもソーシャルディスタンスを取るように求められる。まりあと篠宮の間にも無色透明の衝立があって、飛沫が散らないように配慮されている。  まりあは食事の誘いに乗ったときに、 「できれば、ランチとかじゃなくて、お茶くらいがいいかな」  と頼み、午前中が都合のいいことも伝えた。すると、篠宮はメールでこのカフェの地図を送ってくれた。吉祥寺の地理には詳しくなかったが、この地図のおかげで迷わずに目的地まで行くことができた。カフェには既に篠宮が到着していて、席を確保していた。  まりあはカフェ・オ・レを、篠宮はキリマンジャロを頼んだ。それぞれ注文した飲み物が届くと、まりあは何も入れずにそのまま飲み始めた。一方で篠宮は歪な形の角砂糖とミルクを入れて、ゆっくりとかき混ぜた。 「僕のことを思ってって言いましたけど、それってどういうことですか?」  篠宮が疑問に思うのも当然のことだった。彼にしてみれば、断るなら連絡などよこさないでほしいといったところだろう。一方のまりあにはぬか喜びだけはさせたくないという思いがあった。 「君に伝えなきゃいけないことがあるから、直接伝えたいと思ってます。それが篠宮君のためになると思ったから、今回そうしただけです」  まりあの口調が丁寧なものになる。それだけ緊張しているということだろう。 「伝えたい事って何でしょうか?」  篠宮の口も重くなる。慎重に言葉を選んでいるようだった。まりあも話し始めるのに時間をかける。しばらく沈黙が続いた。 「実は、君から告白されたとき、私はとても嬉しかった。流した涙も、好きな人から告白されたっていう嬉し涙と、好きな人を振るしかなかった悔し涙の両方だったんだよ」  まりあが有線以外は静まり返るカフェの中で言うと、 「僕はそんな話聞きたくなかった。いつまでも未練たらたらっていう訳にはいかないんです。どうせ振るしかないんだったら、完膚なきまでに叩きのめしてほしかった」  篠宮はやや苛立ちを見せた。その証拠に膝を上下に揺らし、顔もだんだんと険しくなってきた。 「それって、もう好きじゃないってこと?」  まりあは聞いた。 「何でそんな風に思うんですか? あなたが僕のことを好いてくれるって言うから、混乱してるんですよ。あなたは僕のことをどう思っているのかがさっぱり分からない」  篠宮が頭を掻きむしる。 「篠宮君、落ち着いて聞いてほしいの。好きだからって、学生の時みたいに付き合おうって訳にはいかないんです。私だって、もし君と同じように学生だったら間違いなく付き合っていました。だけど、今、私は社会人で君は学生、何よりも私は離婚を経験しているし、子供だっています。つまり肩にのしかかる責任が違うってわけ」  まりあがそこまで言うと、篠宮は何も言えなくなってしまった。それでも、彼が何か言葉を絞り出すまで、まりあは待った。 「責任ですか……。なら僕はどうなるんですか? 僕の思いはどうなるんですか?」  篠宮はそれこそ、呟くように言った。 「君の思いは身に染みるほど分かるよ。私もそうだったから」 「河合さんも、もしかしてバイト先の人を好きになったことがあるんですか?」  篠宮の疑問に、まりあは唇をかみしめた。 「実は私も篠宮君と同じように、バイト先の正社員のことを好きになりました。十歳年上だったんだけど、きっかけは就活の相談でした。角善堂でバイトしてたんだけどね、どうしてもそこの正社員になりたくて、相談しているうちに相手に好意を持ってね、それで付き合いだしたの。そのときは楽しかったなあ。付き合って三年で結婚したんだけど、しばらくして仲が悪くなっちゃって、そのうち離婚しちゃうんだよね。学生のうちはきっと見る目がないから、盲目的になっちゃうんだろうね。今でも、後悔してる。もっと、見る目を養ってから、恋をすればよかったと思ってる。君にはそんな風になってほしくないから、なってほしくないから……」  話しているうちに、まりあの目からは涙が溢れ出てきた。 (これで今年泣くのは何度目だろう?)  まりあが自分で呆れるくらいだった。ポーチからハンカチを探す。すると、まりあの目の前に水色のハンカチが差し出された。顔を上げると、篠宮が無言で微笑みを浮かべている。 「ありがとう、でもハンカチ持ってるから大丈夫」  しかし、ハンカチを探すが見つからない。結局、まりあは篠宮のハンカチを使って涙をぬぐった。女が泣いているのを見て、店の人が怪訝な表情を浮かべたのが見えた。 「もう店を出ようか、お互い飲み物もなくなったことだし」  まりあは篠宮に呼びかけた。だが、実際には最初に一口すすっただけで、ほとんど残っていた。二人は慌てて、冷めてしまったカフェ・オ・レとキリマンジャロを飲み干す。  勘定を終えて店の外に出ると、ゴールデンウィークに相応しい春というよりかは初夏に近い陽気だった。まりあと篠宮は吉祥寺駅の方に向かって歩き出した。篠宮は勇気を出して、まりあの手を握ろうとした。初めはまりあも嫌がる素振りを見せていたが、篠宮が何度も握ろうとしたので、それに応じて篠宮の手を握り返してみせた。篠宮は照れくさそうに視線をまりあから逸らした。恥ずかしそうに顔を赤らめて歩いていたまりあも、 (恋人同士みたいに歩くのなんて久しぶりだな)  まりあはそんな初々しい感じを覚えた。 「まだ時間ありますか?」  篠宮は聞いた。 「うん、子供のことなら気にしないで、元夫のところに遊びに行ってるから」 「それならせっかく吉祥寺まで来たんですし、井の頭公園に行きませんか?」  篠宮は思い切って視線をまりあの方に合わせながら誘いをかけた。まりあはこれが最後だからと思い、 「分かった。行こうか」  と答えた。吉祥寺駅の方から向きを変え、中央線の高架を抜けて、吉祥寺通りを井の頭公園へと歩いた。徐々に気分が高まってきたまりあは、久しぶりの恋人気分を味わっていた。井の頭公園に到着すると、まりあも篠宮も手を解いて井の頭池に向けて走り出した。なぜ走り出したのかは分からない。まりあは猛と付き合っているときに井の頭公園にも行ったし、篠宮もこの近くに住んでいるので、公園にはたまに通っている。新鮮味はないはずだが、とにかく若いカップルみたいに走り出したかった。 「篠宮君、こっちこっち」 「河合さん、待ってください」  まりあは息を切らしながら、井の頭池のほとりに到着した。遅れて篠宮もまりあの元にたどり着いた。二人は池を泳ぐ水鳥や、恋人や家族連れが漕ぐアヒルボートを眺めながら、じゃれあっていた。傍目から見たら、歳の差カップルに見えるだろう。だが、二人にとっては周りにどう思われようとも、どうでもよかった。 「河合さん、僕の最後のわがまま聞いてもらっていいですか?」 「何?」  篠宮は俯きながら、少し間をおいて言った。 「僕と最後にキスしてもらっていいですか?」  彼の鼓動は強く響いていた。まりあは顔を赤らめて、 「やだ、もう何言ってるの。恥ずかしいよ」  と言いながら、篠宮の肩を叩く。 「最後じゃなくて、最初のわがままにしようよ」  そう言ったまりあは唇を篠宮の前に差し出した。それに応じて、篠宮は彼女と唇を重ねた。まりあはほんの数秒のつもりだったが、自身の本心に従い数分に渡って口づけをした。井の頭公園周辺の時間が止まっているような錯覚に陥った。 つづく

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