マリア〜シングルマザーが仕事先のバイト学生と恋に落ちたら〜
第3部 第23話 もうひとつの恋の果て

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 街の雑踏、その中でこずえは一人佇んでいた。見てはいけないものを見たような気がして、その場から立ち去りたかったが、足が動かない。彼女の恋は無残にも終わりを告げた。  こずえがこの日、仕事を早退したのは体調不良からだった。梅雨が近くなると、頭痛がするのだ。六月初旬のこの日も仕事中に激しい頭痛に襲われ、とても仕事どころではなくなってしまった。 (今日は河合さんも休みだし、負担かけられないなあ。でも、これ以上は仕事できそうもないし……)  どうしようもなくなって、この日出勤していた浅倉さんに相談することにした。こずえは浅倉さんのことを苦手に思っていたが、今となってはそうは言っていられない。 「すみません、ちょっと頭痛がするんで早退したいんですけど……」 「そう、じゃあ店長に相談してみたら。こっちは昼休憩も取ったし、夕方になったら篠宮君も来てくれるから大丈夫だよ」 「分かりました。店長に言ってきます」  こずえは角田店長の元へ向かい、いきさつを話した。梅雨時になると激しい頭痛に襲われることも含めて。すると、角田は、 「そうですか、分かりました。今回は特別ですよ。あなたは時間とか体調管理とかそういったものにルーズなことが多いから、今後気をつけてくださいね」  と言い、こずえを牽制した。 (やっぱり、新しい店長は厳しいな)  などと思いながら、荷物をまとめて職場を後にした。午後四時前の新宿駅はいつものように賑わっていた。こずえはその街中をひたすらに早足で駆け抜けた。会社員に、学生に、お年寄り、皆が急ぎ足でどこかへと向かっている。その中で、あるカップルの周りだけは時間が止まっているかのように、スローな動きになっていた。こずえはふとそのカップルが気になって、そっと後をつけることにした。何故かは分からないが、そのカップルに興味があった。しかも、どこか既視感みたいなものを感じられた。 (あのカップルなんか気になるんだよな。もしかして、小説のネタにできるかも)  などと思っていると、そのカップルは駅東口のところに立ち止まり、それまで組んでいた腕を解いた。お互い耳打ちをしながら、笑い合ったりしている。そして、傘を持った男の顔がちらりと見えた瞬間、こずえはハッとした。 (もしかして、篠宮君?)  顔がはっきりと見えなかったが、こずえは確信が持てた。そして、彼とともにいる女の正体は……、 (あっ、河合さんだ)  背が小さくて、サマーニットとロングのプリーツスカートに身を包んだ女性がまりあだと気づくのに少し時間がかかった。化粧がいつもと違っていたからだ。  こずえは家に帰ると、よたよたと体を床に横にした。 (篠宮君と河合さんが付き合ってるなんて、どうしたらいいんだろう。ほかの人だったら諦めもつくけど、よりにもよって河合さんと付き合ってるって、どういう顔して向き合ったらいいんだろう。私は篠宮君が好きだったし、だから公募の小説を篠宮君に読んでもらっていたのに……)  体を起こすと、いつも執筆用のパソコンを置いている机の上に自分の体を置いていた。もう何も書く気が起きなかった。彼女は食べ物ものどを通らず、すぐにベッドに横になった。  しばらく、こずえは執筆にもバイトにも力の入らない日々を送った。特に執筆のアイデアが湧かず、公募の締め切りを前に悩んでいた。 「どうしよう、全然アイデアが出てこない。このままじゃ、締め切りに間に合わないよ」  悩んでいるときに、こずえに悪魔が囁いた。 (君は随分とスランプに陥っているようだね。この際だから、河合さんと篠宮君のことを書いたらどうだい? 君の恋の供養にもなるかなと思うんだけど)  急に出てきた悪魔の囁きにこずえは驚きながら、 (そのことは考えないようにしているの。今はそれよりもこの作品を仕上げなきゃ) (本当にそれでいいのかな? 自分の気持ちに蓋をするようなことをしてると、いつか爆発しちゃうよ。そうなる前に書いちゃった方がいいんだけどな)  この自分の中の葛藤をひたすらに繰り返していた。  次の年の春、こずえは歓喜の渦の中にいた。  こずえのスマホに電話がかかっている。 「もしもし」  と電話に出ると、出版社を名乗る男からの電話だった。 「文星新人賞を受賞することが決定いたしました。おめでとうございます。つきましては……」  こずえはその場で電話を放り投げそうになった。そのくらい嬉しくて、念願のことだった。電話が切れた後、彼女は 「やったー、やったー! よくやった私」  と叫んだ。でも、翌日冷静になってみると、こずえは不安になってきた。 (もし受賞作を彼らに読まれたら、どんな反応をするだろう)  不安を抱えたまま、バイト先に向かい、角田店長に受賞したことを報告した。角田も、 「そうなの、それはよかったわね」  と言い、喜んでくれた。その話は瞬く間に広がり、こずえは祝福を受けた。 「よかったね、いつの発売号に載るの?」  などと、コミック担当の正社員に聞かれたときもあり、そのときは優越感に浸ることができた。と同時に、彼らに読まれることに対する不安が日々増していることも事実だった。彼らの耳にも受賞のことは入っていった。 「こずえちゃん、おめでとう。念願がかなったね」  とまりあが言うと、 「ええ、そうですね。ありがとうございます。」  という風に返すしかなかった。 「どうしたの、嬉しくないの?」  とこずえの様子がおかしく見えたのか、まりあに見透かされてしまい、こずえは何も言えなくなった。更には同じようなことを篠宮にも聞かれてしまい、再び沈黙をするしかなかった。  こずえの受賞作の載った文芸雑誌「文星七月号」が発売された。この間に文芸雑誌の取材を職場で受け、電話取材もひっきりなしだった。店内のPOPも大々的に書かれ、取材を受けた内容をそのまま載せたり、不慣れなサインを書いたりもした。店内はどこか、こずえの新人賞受賞バブルに沸いていた。だが、その一方で、こずえの中の不安も大きくなる一方だった。  雑誌発売日の翌日のことだった。こずえが品出しをしていると、まりあがこずえの方に向かって歩き始めた。もしかして、何か聞かれるのだろうか?こずえは心の中で戦闘態勢を整える。 「こずえちゃん、ちょっと話があるんだけど、ちょっとバックヤードの方へ来てくれる?」 「はい、分かりました」  こずえは素直に応じた。売り場からバックヤードまでの道のりが長く感じられた。バックヤードに入ると、店頭での笑顔から一転して、硬い表情になり、 「こずえちゃん、受賞作を読んだんだけど……」  と言った。怒っている様子ではなかったが、努めて冷静を装っているように見えた。 「これって、誰かモデルとかいるの?」 (それはあなたたちです)  そう言いたいのを喉元まで抑え込み、言い切った。 「いや、モデルとかは無くて、本当に私の妄想で書いたものなんです」 「噓でしょ、これはどう見ても私と篠宮君の様子を書いたものだと思うんだけど、本当のことを話してくれる?」  まりあの静かだけれども、その中に怒気すら感じさせる追及にこずえは、 「えっ、まりあさんと篠宮君って、そういう関係だったんですか?」  としらを切った。 「そういう関係って、どういう関係のことを言ってるの? それは置いておいて、これを読んで正直失望した。今までこずえちゃんの書いた作品って、良くも悪くも天真爛漫な作風な気がする。でも、この作品は悪意を持って書いているように思えたの」 「失望って、ずいぶんな言い方ですね。私は今までと変わらず、作品に魂を込めたつもりです。結果として賞を取ったわけだから、評価されたってことですよね。まりあさんの言っていることは主観的な感想にすぎません。それとも、私が想像したような関係性をまりあさんと篠宮君は形作っているってことですか?」  こずえの挑発的な言い方に、まりあは顔色一つ変えない。しかし、内に秘めた怒りがこずえにも伝わってくる。 「そうね、正直に言うと私と篠宮君との関係は、あなたが書いた小説の序盤の関係性に似ているわね。ここまで、話したんだから、あなたも本当のことを話してよ」  しばらく沈黙した後に、こずえは腹を括った。 「確かに、河合さんと篠宮君のことをモデルにして書きました。私、見たんです、河合さんと篠宮君がデートしているところを」 「ということは、私たちが付き合っていることを知っているってことだね。そしたら、何で私たちのことを小説のネタにしようと思ったの?」  静かではあったが、まりあの目は血走っていた。 「ごめんなさい、私も篠宮君のことが好きだったんです。だから、公募小説を真っ先に見せたのも篠宮君だったし、そのくらい好きだったんです。でも、篠宮君がデート帰りでバイトに行くのを河合さんが見送るところを見てしまって、二人は付き合ってるんだと思って、それで腹立ちまぎれに書いてしまったんです。でも、まさか賞を取るとは思わなかったんで……申し訳ありませんでした」 そう言うと、こずえは涙を浮かべた。まりあはこずえの頭をなでると、 「そう、分かりました。正直に言ってくれてありがとう」 と言い、その場を離れた。力の抜けたこずえはしばらく立ち上がることができなかった。 つづく

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません