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 こずえが機嫌よく仕事についてくれたところで正午を回ったので、まりあと浅倉さんは休憩に入った。 「今日は何も昼食買ってないよ」 とまりあが言うと、 「何かお忘れじゃない?」 と浅倉さんが言い返す。 「あっ、カツサンド奢る約束ね。ちゃんと覚えてるよ。じゃあ、今日は喫茶店行こうか」  二人は大型書店から少し歩いたところにあるレトロな喫茶店に入った。新宿の高層ビル街にあって、ビルとビルの隙間にひっそりと佇むその店は歌舞伎町や新宿アルタと言った繁華街に近く、夜の店の人たちからスタジオアルタから放送されていたお昼のテレビ番組の有名司会者まで様々な客が足繁く通ったとされている。しかし、マスターが有名人にサインを求めない主義の人のようで、それも噂でしかない。  ウィルス禍の影響か、お昼だというのに客はまばらだった。その少ない客も食べたり飲んだりするとき以外はマスクをしている。異様な光景に見えた。二人は奥の方のボックス席に座り、メニューを眺めた。すると、喫茶店のマダムが水を持って来てくれた。 「いらっしゃいませ。今日もおいでいただいて、ありがとうございます」  マダムの表情になぜだか生気を感じない。浅倉さんが心配になって、 「マダム、今日は元気ないね。どうしたの?」  と声を掛けた。すると、マダムは口を開いた。 「そうなんですよ、このところウィルスの影響でお客様が減ってしまって、大変なんですよ。今は少しお客様もいらっしゃいますけど、夜はもうダメですね」  上品なマダムがしゃべると、苦境に立たされているにもかかわらず、余裕をもって構えているように見える。 「そうか、時短営業になってるから、夜の営業ができないんだね」  浅倉さんは納得したように話した。まりあも浅倉さんも頼むものを決めたので、そのままマダムに注文した。まりあはナポリタン、浅倉さんはカツサンド、あとそれぞれコーヒーを頼んだ。 「今日はこずえちゃん元気よかったね。ずっと、あんな感じだといいけど」  浅倉さんが口火を切った。 「そうねえ、悪い子じゃないんだけどね。ちょっと気まぐれかなってくらいで」  まりあもそれに答えた。 「私はああいうタイプの子とは合わないかな。いくら夢を追ってるフリーターだからって、気まぐれで主任に詰め寄るような従業員とはちょっと働きたくないなあ、正直言って」 「あれは詰め寄られたっていうか、私が不用意なことを言っただけだよ。あくまでもこっちのせい」 「まりあちゃんは優しいね。うちにもあの子と同じ年格好の息子がいるけど、フリーターになってたら、家から追い出してたね。大学生やってくれてるから、食べさせてやってるけど」  まりあは (随分と厳しいなあ)  と感じずにはいられなかった。 (自分がその立場だったらと思うと何だかんだで、家で食べさせてしまいそうな気がする。夢を応援するわけじゃないけど、今の息子たちを見ているととてもじゃないけど、浅倉さんのような態度は取れないなあ)  まりあがそんな想像に耽っていると、スマホから着信音が鳴った。職場の固定電話からだった。 「河合さん、大変だよ。山上さんが倒れちゃって、今から戻れるかな?」 店長が悠々とした声で、そして態度で電話している様子が目に浮かぶ。  昼食もそこそこに店に戻ってきたまりあは、こずえの様子を見て驚いた。事務所にある客用のソファに横になっている彼女の表情は暗く、顔色は青ざめていた。 「こずえちゃん、大丈夫? 来たときはあんなに元気だったのに」 「すみません、昨日の晩は調子がよくて、寝ずに小説を書いてたんです。それが祟っちゃったのかな」  まりあは呆れながらも、自身が昨日休んでしまったこともあり、強くは言えないと思った。 「あのね、こずえちゃん。体調悪い時は無理して来なくていいからね。電話一本でも入れてくれれば、それなりの対応ができるから。正直言うと、こういうのが一番困ります。そのあたりを分かってほしいな」  このように、口調も穏やかにして諭すように言うしか選択肢が残されていないように思えた。 「実は私も昨日体調が悪くて仕事休んじゃったんだよね。でも、浅倉さんや店長がそこをカバーしてくれて、助かったんだ。こずえちゃんがどうするかは、あなたが決めることだけど、もし休んだとしても気にしないでほしいんです」  まりあの言い方はやんわりと帰宅を促すようであった。 「分かりました、反省します。今日は申し訳ありませんが、早退したいと思います」  こずえがまりあの意図を汲み取ったように言った。 「その方がいいわね」  そう一言だけ残し、エプロンを付けて、売り場へ向かった。 (やっぱり、あの子もほっとけないわね。だから浅倉さんに「お母さんみたい」って言われるのかな)  などと思いながら、まりあはこずえが残した品出しと陳列の作業を進めていった。  その様子を喫茶店から持ち帰ったカツサンドを食べながら見ていた浅倉さんは思った。 (やっぱり、仕事場でも“お母さん”してるよ。やっぱり、荷が重いんだろうね。結婚して楽になった方がいいわね)  こずえは店を去る前に、まりあに挨拶していった。とても申し訳なさそうに見えた。今日は篠宮が休みなので、まりあが終業時間を迎える五時半以降は、こずえがひとりで売り場に残る予定だった。今回はこずえが早退したために、その目算が崩れることになった。いるメンバーで何とかしたいところだが、浅倉さんには昨日もお世話になっていて、二日続けてお願いすることはまりあの気が引けた。 (今日は私が残業するか。でも、子供たちの夕飯はどうしようか)  そんなことを考えていると、目の前に篠宮の顔が浮かんだ。 (篠宮君、助けてください)  心の中で呟く。こんなに篠宮を頼りにしているのは初めてのことだった。だが、すぐに現実に戻り、 (そんなこと頼めるわけないよな)  などと思いながら、バックヤードで月末に行われる大月先生のサイン会の企画書を作成していた。すると、浅倉さんが 「河合さん、ちょっと来てくれる?」  と私を呼んだ。ちょうど、夕刻にさしかかったくらいだった。売り場へ出ると、目の前にトレンチコートを着た篠宮が現れた。 「お疲れさまです」 「お、お疲れさまです」  突然の篠宮の登場に、まりあは思わずドキドキしてしまった。せっかくの状況なのに、言葉が上滑りする。 「ちょっと、どうしたの? お休みじゃないの?」 「いやあ、山上さんから電話があって、涙声で話すもんだから、何があったんだろうと思って聞いていたら、バイト先で倒れたって聞いて。慌ててシフト表を見たら、夕方からシフトに入る人がいないと思って、居ても立ってもいられず出てきたという訳です」  篠宮の思いには一点の曇りもないように思われた。仕事着も持ってきているようだ。 「大丈夫、シフトはこっちで何とかするから、篠宮君は無理しなくていいよ。ありがとう」  まりあは篠宮の献身的な気持ちに甘えたいと思いながらも、それが叶わないことをよく知っていた。手が足りないからと言って、アルバイトに負担を押し付ける真似はできなかった。 「河合さん、僕は河合さんが心配なんです。昨日も体調不良で休んで、戻ってきたばかりなのに、残業なんて体がもちませんよ。それにお子さんもいらっしゃるんでしょ……」  そこまで言うと、あとは浅倉さんが引き取った。 「篠宮君の言う通りよ。病み上がりなんだから、ここは篠宮君に甘えなさい。バイトの時間外勤務が難しいっていうんだったら、休みを別の日に付け替えればいいじゃない」  まりあは少し考えてから、 「分かった、今日は篠宮君に入ってもらうことにします。その代わり、篠宮君のシフトを変えるから、あとで代替の休みの日を教えてくれるかな」  と言い、バックヤードへ戻っていった。 「はい」  と返事をする篠宮の声が聞こえた。  バックヤードに戻ったまりあとそれに付いてくるようにバックヤードに入った篠宮は二人きりになった。 「篠宮君、どうしてここに来たの? 単にシフトの問題だけで、バイトに入ろうとしたわけじゃないと思ったんだけど」  まりあは思い切って聞いてみた。本当は抱きしめたいほど愛おしいと感じていたのにも関わらず。 「さっきも言ったんですけど、僕は河合さんが心配なんです。生意気かもしれないですけど。いつも一生懸命で、辛そうな状況でもいつも明るくて、しかも子育てまで一人でこなしているじゃないですか。何か抱えてるんじゃないかって思うと、居ても立ってもいられなくなるんです」  篠宮が心境を吐露している。その眼は至って真剣だった。 (彼はどうしてしまったのだろう、こんな子持ちのおばさんの心配なんてする必要ないのに)  まりあはそう思わずにいられなかった。それでも、店に誰もいなかったら、彼女は篠宮を抱きしめていたかもしれない。しかし、そんな気持ちを必死で抑えて、 「篠宮君、代わりの休みはいつにする?」  と話題をはぐらかした。そのときの篠宮の表情は不安と失望と心配とが入り混じったような何とも言えないものだった。口は真一文字に結ばれ、眼は弱弱しくもじっとまりあの方を見ている。 「来週の木曜日にします」 「分かった、そのように調整するから待っててね。あと二十七日の日曜日は大月先生のサイン会があるから、予定に入れといてね」  そこまで言うと、まりあは篠宮がじっと見つめていることに気づいた。 「あ、あと、心配してくれてありがとう。私は定時に帰れればそれで大丈夫だから、あんまり心配しないでね。あんまり不安な表情してると、篠宮君の方が体調崩しちゃうよ」  篠宮は無言でその場を離れた。彼の表情は怒っているようにも見えたし、不安がっているようにも見えた。  やがて五時半が来て、終業時間になった。 「それじゃあ、あとはよろしくね。あと、POP作ったから、正面のところに貼っておいてくれる?」 「分かりました、貼っておきます。お疲れ様でした」  彼の返事は実にあっさりしたものだった。  まりあは帰りの電車の中で、 「はあ、篠宮君を怒らせちゃったかな」 とため息をついた。冬の真っただ中、暗い中を電車は走る。乗客は皆マスクをして、一様にスマホの画面を食い入るように見ている。最寄り駅に到着すると、自宅のあるアパートに向けて、まりあは歩き出した。コートの襟を立て、寒さに耐える体制を整えて。帰れば息子たちが待っている。今日は彼らに癒してもらおうか。吐く息は白くなって、空へと消えていった。 第1部完、第2部へつづく

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