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 猛はまりあをエレベーターに乗せた時点で、翔太抜きで話をすることを諦めた。 「和内さん、どうか翔太にちゃんと謝りたいの。お願いします」  必死に懇願するまりあに、猛は戸惑いながらも、 「分かった。翔太に会わせてやるから、必死の顔をするのはやめてくれ」  と言った。エレベーターは5階で止まり、まりあと猛は何事もなかったかのような顔でエレベーターを降りて、廊下を歩きだす。途中で同じフロアの住人と思しき人物とすれ違う。その人は見慣れぬ顔に少し違和感を覚えているように感じられた。  猛の部屋の前に来ると、まりあを廊下で待たせ、彼一人が部屋の中へ入っていった。どうやら、翔太に話をしているようだった。まりあが玄関ドアに耳を当てて、会話を聞いていると、 「嫌だよ」  とか、 「仕方ないだろう」  などといった声がおぼろげに聞こえてくる。二十分ほど待っただろうか、玄関ドアの開く音がして、 「入って」  という猛の声と同時に、まりあは部屋に飛び込むように入っていった。すると、リビングにあるテーブルに翔太が座っていた。 「翔太、無事だったのね。よかった」  安堵の表情を浮かべるまりあとは対照的に、 「……」  翔太は俯いたまま、置き物のように何も話さなかった。  猛の住むマンションの一室は重い沈黙に包まれていた。テーブルには玄関側にまりあが座り、奥側に猛と翔太が座った。翔太は俯いていて、まりあとは目線を合わせない。一方、まりあは翔太の方に向き直って、涙を流している。猛はどうしていいか分からず、目を泳がせるばかりだ。テーブルの上には何もなく、それぞれの視線が交錯する。  猛が立ち上がり、 「お茶でも出そうか」  と勧めてくれたが、 「いいえ、結構です」  とまりあは断った。再び猛が着席すると、沈黙の時間が訪れた。その空間は一秒をとても長く感じさせるものだった。五分ほど部屋の中は、壁掛け時計の秒針の音しかしなかった。そんな状況を破ったのは、まりあだった。 「翔太、今まで寂しい思いをさせてごめんなさい。しっかりしているように見えても、いろいろ我慢してたんだね。それに気づくことができなくて、ごめんなさい。お母さん、しっかりとあんたたちのこと見ていくからね」  そこまで言うと、まりあの目にはジワリと涙が溢れた。その様子を一切見ることなく、今度は翔太が口を開いた。 「で、あいつとは別れるの?」 「えっ、それは……」  まりあは言いよどんだ。再び場は静かになった。まりあは溢れる涙を止めることができず、ハンカチで目頭を押さえている。 「あいつと一緒にいるんだったら、謝っても意味ないし。帰ってよ」  翔太がそう一言呟いたのは、沈黙が続いて、十分くらい経ったころだった。猛は、 (また、しつこく食い下がるんじゃないだろうな)  という目でまりあを見ている。しかし、まりあは、 「分かった。夏休みの間、お父さんと一緒に暮らしてみな。きっと何か見えてくるから。そしたら、帰るわ」  まりあが席を立った瞬間、翔太は奥の部屋へと消えていった。それは一瞬の出来事だった。 「おい、いいのか。お前にしてはずいぶんあっさりしているように思うんだけど」  猛がまりあのあっさりした態度に戸惑いを覚え、尋ねるとまりあは、 「だって、あの子はもう中一でしょ。親が無理矢理連れて帰ってきたところで、また家出しそうな気がしたから。それに私も子供たちを今まで甘やかしてきたから、ちょっとは変わろうと思って」  と答えた。 「どんな意図があるのかはわからないけど、お前も変わったなあ。ところで、篠宮との関係はどうするつもりなんだ? 別れる気はあるのか?」  猛の質問に、 「いいえ」  とまりあは一言添えただけだった。  最寄り駅に到着すると、すっかり日が西に傾いて、暮れようとしていた。 (慌てて出てきたから、今日の夕食の準備何もしてないなあ)  そんなことを思いながら、まりあがスマホをチェックすると、篠宮からLINEが届いていた。 「悠太君と相談したんだけど、夕食、宅配ピザでいいかな? あとついでに一緒に食べてもいいかな。お代は出すから」  まりあはすぐさま返信を送った。 「ありがとう、夕食はピザでいいよ。亮君も食べていってね。代金は気にしないで、家庭教師の費用に組み込むから」 (自分が翔太と話している間に、夕食のことを考えていてくれたなんて。あんまり当てにしちゃいけないんだけど、悠太も成長したなあ)  などと思いながら、電車に乗り込んだ。 「翔太、本当に母ちゃんのところに帰らなくていいのか? 父ちゃんは仕事も遅くなることがあるし、寂しい思いをすることもあるかもしれないけど、いいのか?」  猛は近所のファミレスで、翔太に向かって言った。まだ、注文をしたばかりで、テーブルの上には水の入ったグラスが二つ置かれているだけだった。 「うん、いいよ。よそ者に家を乗っ取られるよりはまだマシだよ」  翔太は言葉少なだった。その会話があってから、お互いにスマホを操作して、過ごした。二人とも、スマホゲームに夢中になるあまり、会話らしい会話をしなかった。しばらくすると、注文していた料理が二人ほぼ同時に届いた。翔太はチーズハンバーグセットを、猛は親子丼を注文していた。 「父さん、何で、ファミレスで親子丼を頼んだの?」 「何でって、俺たちが親子であることを記念してだよ」  翔太は噴き出してしまい、 「親子って、俺たち生まれた時から親子じゃない。当たり前のことじゃん」  と笑いながら言った。 「それもそうだよな、お前は父ちゃんの息子で、俺はお前の父ちゃん。当たり前のことだよな。さあさ、食べよう。腹減ったなぁ」  猛の言葉と同時に、二人は食べ始めた。空腹だった翔太と猛は黙って夕食を食べた。十分もしないうちに、平らげてしまった。 「翔太、彼女はいるか?」  不意に猛が尋ねた。 「まだいないけど」 「そうか、父ちゃんが翔太ぐらいの年の頃には、彼女がいたなあ」 「何それ、自慢?」  翔太は少し嫌な顔をしたが、それに気づかない猛は、 「よし、どうやったらモテるか、家帰ってから教えてやるよ」  と言い、財布を取り出した。  まりあが家に帰ってきたのは、八時前のことだった。 「ただいま」  と言うと、 「おかえりなさい、遅かったね」  と悠太と篠宮が出迎えた。 「お腹すいちゃった。もう食べようかな」  まりあは台所で手を洗うと、リビングに座り、テーブルの上にあるピザに手を伸ばした。もう冷めてしまっているが、二種類のピザがそれぞれ二切ずつ残っていた。暖かければ伸びるはずのチーズがすぐに切れた。そのチーズを見ていると、まりあは何故だか悲しくなってきた。 (でも、子供の前で泣くわけにはいかない)  そう思って、グッと涙を堪えた。残りのピザを食べているうちに、悠太は眠ってしまい、篠宮が後片づけをしていた。まりあは無性に亮のことを抱きしめたくなり、台所に立つ亮を後ろから抱きしめた。 「亮君、私は馬鹿だよ。翔太に謝ったけど、全然響いてなくて。何で気づかなかったんだろうね」  それに対して篠宮は、 「まりあさんは馬鹿じゃないよ。翔太君のことも悠太君のこともこんなに愛しているじゃないか。羨ましいよ。僕も彼らに同じような気持ちで接することができるかなって考えると自信がなくなる」  と答えた。篠宮はまりあの方に向き直ると、二人は自然と唇を重ね合わせた。何度も何度も接吻し、その場にへたり込んだ。立ち上がり、一旦離れると、まりあと亮は黙って寝室へ向かい、再び口づけをした。昂った二人は、勢いのままにお互いの服を脱がせ、互いの体を舐め合った。暑い夏の夜だったが、汗をかくのも気にせずに、互いを愛撫し、慰めるように激しく愛し合った。 つづく

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