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 最寄駅に到着したまりあはホームで電車を待っていた。その表情は冴えない。悠太のことが心配だからというだけではない。 (電車に乗るの憂鬱だなあ)  そんなことを思っていても、時間が逆行することも、その流れがゆっくりになることもなく時間が過ぎていく。それと同時にホームにはどんどん人が増えていく。電車が入ってきた。車両は寿司詰め状態でスペースを空ける余地もない。しかも、そこにずかずかと乗客が入っていき、電車の中に吸い込まれていく。まりあもほかの乗客に押されながら、電車の奥の方に入っていった。 (これからこの密閉空間に閉じ込められるのか)   そう思うだけで、眩暈を起こしそうだった。しかし、ここでは迷惑をかけられないとの思いが辛うじて勝り、しっかり立っていられる。そんな時は篠宮のことを考えようと、まりあは思っている。 (今日は夕方少しだけしか会えないけど、眼の肥やしだと思えばこんな満員電車なんて苦じゃない)  それにウィルス対策で換気のため電車の窓が開いていたので、絶えず冷たい風が入ってくる。閉じきった状態よりは環境が幾分かマシだ。マシなはずだったのだが、この日は誤算もあった。いつもより早起きだったせいか、眠気が襲ってきたのだ。 「ダメだ、完全に寝不足。どうしようかな」  そんな小さな不安に付け込むように、密閉空間の恐怖が意識されて、まりあを襲う。ぎゅうぎゅう詰めの満員電車の中で、彼女はトリップする。              ※  まりあは車の助手席に座り、ドライブに出かけている最中だ。後ろの座席では二人の息子、翔太と悠太がキャッキャッと言いながら座っている。この車を運転しているのは、顔の見えない男だった。 「なあ、ドライブ楽しいか?」  男は運転中と言うこともあってか、こちらを向かない。 「うん、楽しいよ。だって久しぶりの家族揃ってのドライブだもの」  まりあは、なぜだか努めて明るく振る舞っていた。本当はどんよりとした気分だったのに、無理している。 「お母さん、おしっこしたい」  悠太が平然とした表情で言った。 「えー、家出る前にトイレ行っとかないからでしょ。申し訳ないけど、どこかコンビニにでも寄ってくれない?」 「分かったよ。そこのコンビニに寄るわ」  顔は見えないが、運転している男が苛立っているのが手に取るように分かった。悠太をトイレに連れて行き、翔太もそれに付いていっている間、男は一人車に残ってタバコを吸っていた。まりあたちが車に戻ると、車中にタバコの臭いが残っていた。 「どうして、タバコ吸っちゃったの? 臭いが残るじゃない」  まりあは運転席の男を責めた。なぜタバコを吸ったのか、誰かは分からないが、言うしかないと思った。それに対して、男は彼女の方を向かずに言う 「タバコ吸っちゃ悪いのか? 俺だって苛立ってたから、落ち着かせようと思っただけだ。窓開けて吸ってたからそこまで臭くないはずだ」 (そういう問題じゃないでしょ)  とまりあは言いかけて言葉を飲み込む。子供たちが心配そうな目で見ている。子供の前で、大人同士が喧嘩している姿を見せるのは教育上良くないと考えて、自分を抑え込んだ。そして、努めて明るい声で、 「さあ、行きましょ。今日はどこに行くのかな?」  などと言ってみるのだった。  車はコンビニから動き出した。さっきの軽い言い争いが尾を引いているのか、車内は妙に静かになった。子供たちはひそひそと話をしている。そのうち、道路は渋滞し始めた。運転している男はハンドルを指で叩いたり、舌打ちをしたりするなど、明らかに苛立っていた。 「おい、この道はそうなっているんだ。いつも混まないだろう」  苛立ちをぶつける男に、 「それじゃあ、交通情報を聴きましょうか?」  とカーラジオを付け、交通情報をやっている周波数に合わせる。しかし、どのラジオ局もなかなか交通情報を放送しない。彼の苛立ちは頂点に達し、 「ああ、やっぱり電車で行けばよかったよ!」  と社内の静寂を破るように、大声を上げた。まりあも苛立っていたが、またしても感情を抑える。 「そうね、次回からはそうしましょう。混雑したら、時間がもったいないですもんね」  まりあは気がどうにかなってしまいそうだった。横を向いて、男の表情を窺おうとする。しかし、男の顔を見たまりあは腰を抜かした。男の顔は目も鼻も口もない、のっぺらぼうだったのだ。              ※ 「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」  なぜか篠宮の声がして、まりあは目覚めた。 「あれ、ここは?」  駅のホームの隅の方で、横になっていた。周りには駅員が何人か立っていて、ビニールシートでまりあの様子は隠されているようだった。電車の案内や乗客の足音が耳に響いてくる。 「ここは新宿駅のホームですよ。乗客の方からあなたが急に倒れたと言って、車掌に通報があったものですから」  駅員が答えている間に、まりあは篠宮の姿を確認した。 「篠宮君、どうしてここにいるの?」 「僕はたまたま同じ車両で近くに乗っていました。倒れたと聞いて車掌に通報したのは僕です」  まりあは「しまった」と思った。今まで、電車に乗っている間にトリップしてしまうことはあったが、仕事に影響がない程度だったので会社には内緒にしていたのだ。 「皆さんもありがとうございました。ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。篠宮君、このことは内緒にしてくれる? 会社にばれるといろいろややこしいからね」  まりあは懇願したが、篠宮は首を縦に振らない。 「ダメですよ、もしかした大きな病気かもしれないですから、職場に話して休んだ方がいいですよ」  確かにそうなのだが、シングルマザーのまりあとしては稼がなくては、子供二人を養うことができなくなる。彼女は無言で立ち上がり、職場に向かおうとした。しかし、その手は篠宮によって引っ張られてしまった。 「いけません、今日は休んでください。今日起こったことは内緒にしますから、今日は休んでください」  引っ張る手の強い力とは対照的に、彼の眼は何かを優しく訴えかけるようであった。駅員が 「お話中のところすみません、大丈夫でしたら、救急には連絡しませんがよろしいでしょうか?」  と躊躇しながら聞いているのも、彼らには聞こえていない様子だった。  結局、まりあは職場を休むことにした。大月先生のサイン会を控えた忙しい時期に休むのは気が引けたが、篠宮に通勤途中に倒れたことを知られてしまったので、彼の言うことも聞かねばならなかった。店長は、体調不良で休むことを伝えると、 「そうかそうか、君もよく頑張っているからね。体調が悪いときには休むのがいいよ。昔なら這ってでも出て来いって感じだったんだけどね。今は違うから……」  といかにも出てきてほしいような口ぶりで話していた。  それにしても、篠宮があの電車のあの車両に乗っていたのは偶然だったのだろうか? まりあにはそれが奇跡とは思えなかった。 「今日はこっちのキャンパスで授業だったんですよ。たまたま、早くキャンパスに行く予定を立てていたら、河合さんに出会ったんです」  そのように彼は話していたが、それがどうにも運命のように思えてならなかった。しかも、手まで繋ぐことができたというのは、いよいよ偶然にそうなったのではないと感じられた。 「今日はゆっくりと休んで明日に備えようか。篠宮君と手も繋げたし、今日は悪いことばかりじゃないよね」  と悪夢へのトリップを忘れたかのように、まりあは鼻歌を鳴らしながら空いている下りの電車に乗り込んだ。 (どうして、トリップしてしまったのだろう?)  帰宅したまりあはずっとそのことを考えていた。 (あのシチュエーションは前に経験したことがある。忘れかけた頃に、トリップを起こして、記憶が呼び覚まされる。どうして?)  いくら考えても、袋小路に入ってしまうことをしばらく考えていた。そうしているうちに、眠気が襲ってきて、まりあはソファに横たわったまま眠ってしまった。まるで置物のように動かず、寝息すら薄っすら聞こえる程度だ。  しばらくすると、ガチャッと鍵を閉める音が聞こえた。しかし、すぐさま鍵の開く音がした。 「あれ、誰かいるの?」  悠太の声だった。 「あ、ごめんね。お母さん、調子が悪くて、仕事休んだんだ」 「えっ、大丈夫なの? 僕が学校行きたくないって言ったから?」  悠太も朝に「学校に行きたくない」と言ったことを気にしている様子だった。 「そうじゃないけどね、悠太のことは心配してるんだ。学校でちゃんとお友達と仲良くできているかなとか」 「それなら、気にしないで。僕はちゃんと友達とも仲良くしてるし、前も言ったけど、いじめられてないんだから。『学校に行きたくない』って言ったのは眠かったからだよ」  悠太の表情を見ていると、真剣で誰かをかばっている様子は見えない。 「それよりも、僕が言ったことでお母さんが病気になったんだったら、そっちのほうが嫌だな。もう、学校行きたくないなんて言わないから」  半泣きで一生懸命に言う悠太の表情を見ていると、まりあまでもらい泣きしそうになる。まりあは悠太をギュッと抱きしめた。 「よかった。でも、無理しなくていいんだよ。学校行きたくないときは無理に行かなくていいからね」 「お母さん、ありがとう。でも、痛いよ」  そう悠太に言われても、まりあは彼を強く抱きしめ続けた。 つづく

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