マリア〜シングルマザーが仕事先のバイト学生と恋に落ちたら〜
第1部 第1話 シングルマザー まりあ

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 二月に入ったばかりの北風の強い一日だった。河合まりあは駅から自宅アパートまでの夜道をコートの襟を立てて、歩いて行く。 「今日もよく働いたなあ」  アパート近くの公園まで来た。街灯が薄っすらと灯っているのが、余計に寒さを身に沁みさせた。アパートの玄関ドアを開けると、二人の息子が出迎えてくれた。 「ごめんね、遅くなっちゃって。今日は作るの面倒だから、ピザでも頼もうか?」 「わーい、ピザだ、ピザだ」 無邪気にはしゃぐ弟の悠太ゆうたを見て、兄の翔太しょうたは、 「先週もピザじゃなかった? まあ、ピザは好きだからいいけど」  とどこかクールに対応する。食べたいピザをそれぞれが選び、スマホで注文した。  それぞれの反応を示す兄弟をよそに、彼女は息つく暇なく、夕食の準備に取り掛かる。さすがにピザだけでは栄養が偏ると思い、サラダを用意することにした。トマトと胡瓜を切り、レタスを千切る。それをドレッシングで和える。それに常備菜として作り置きしたきんぴらごぼうと共にテーブルに並べる。手軽、と言えば聞こえがいいが、側から見れば手抜きとも取れる。  そのうちに、悠太が泣きながらまりあのところへやってきた。 「兄ちゃんが叩いたぁ、うわーん」  と言い、まりあの足元に纏わりついてくる。 (小二になったんだから、やり返すくらいしなさいよ)  と心で呟きながら、翔太を呼び出す。 「こら、また翔太は悠太を泣かす。仲良くしなさいっての。あんた、お兄ちゃんでしょ?」 「そんなこと言ったって、悠太が先にちょっかい出してきたんだから、しょうがないじゃん」 翔太は悪びれる様子なく話す。一方で悠太は 「兄ちゃん、怒られてやんの。兄ちゃんが悪いんだい」 と相変わらずまりあに隠れながら、ギャーギャー叫んでいる。 「あんたも先にちょっかい出さないの。お兄ちゃんに泣かされるんだったら余計なことをするんじゃない」  そんなこんなで大騒ぎしているうちに、チャイムが鳴った。ドアの前では暗い中、ピザの宅配のお兄さんが受け取りを待っている。待ちきれずにピザを受け取りに玄関へ駆け込んだのは悠太だ。 「お兄さん、ありがとう」 と言って、早くもピザを受け取った。その後にまりあが玄関先へ出て、お金を渡す。最近流行っているウィルスのせいか、お兄さんはある程度の距離を取っていた。そのお兄さんからお釣りを受け取ると、ガタッという箱が床に落ちる音がした。 「何してんの、ああ、落としてるんじゃないの」 幸い箱のふたは開いていなかったので、ピザが床に落ちることはなかったのだが、まりあの怒り口調にたじろいでしまい、悠太は再び泣き出してしまった。それを見ていた翔太は悠太のもとに近づき、 「慌てるからだよ。まあ、こんなことよくあることだって、こんなんで泣いてたら涙が枯れちゃうよ」 と慰めていた。 (翔太もお兄ちゃんしてるんだな) まりあはそう思わずにいられなかった。小学五年生になった兄の成長に救われた気持ちになり、弟の成長にも期待を寄せられる余裕を持つことができた。  テレビも音楽も流れていないリビングは夕食前後の騒がしさから、一転して静かな空間になった。翔太も悠太も寝室の同じ布団で寝息を立てて休んでいる。まりあは椅子に座り、本棚から取り出した新刊本を読み始めた。彼女の本の読み方は言わば速読のようなものだった。一ページ読むのに三十秒もかからない。そして、彼女は読みながら、何やらノートにメモを残している。印象に残ったシーンやセリフを書き起こしているのだ。この読み方はまりあが書店員になってから、先輩に教わった読み方だった。今はその先輩の顔を見るだけで、寒気がしてしまうのだが……。  二時間ほどかけて読み終え、本を閉じると、今度はノートに色の付いたサインペンを使って、POPの下書きを書き始めた。手書きのPOP作りはイラストの得意なまりあにとってストレス発散の機会ともなっている。 (自分が推している本が日の目を見るなんて、なんて幸せなんだろう)  いつもそんなことを考えながらPOPを作り、実際に売り上げが上昇した本もあって、表彰されたこともあるくらいだった。ある時などは、本屋大賞を受賞した作品の帯を他の書店員とともに書いたこともあった。ただ、まりあ自身は別の本を押したい気持ちもあったのだが、それは心の奥底にしまっておいた。もちろん、POPを見た客や本の帯を手に取った読者は彼女がシングルマザーであることを知らない。  POPの原案を書き終えると、まりあは仕事のことを考えていた。 「月末に大月おおつき先生のサイン会があるんだよな。大月先生は,物腰は柔らかいんだけど、癖が強いからなあ。そうだ、篠宮しのみや君に先生の対応を任せちゃおうか。彼の勉強にもなるし、ちょうどいいよね」 いつの間にか、心で思っていたことを呟いていた。ふと、篠宮りょうの顔がまりあの頭の中に浮かぶ。その瞬間、まりあの顔が一気に赤くなった。 「やっぱり、篠宮君ってかっこいいよね。背も高くて、すらっとしてるし、ちょっと抜けてるとこあるけど。顔だって人はどういうか知らないけど、ジャニーズに負けないくらいのイケメンだと思うんだけどなあ。やっぱり、高嶺の花だよ。私みたいなバツイチ子持ちのおばちゃんにはあんな若い子、手が届かないよね」  バツイチの彼女にとっては貴重なときめく瞬間だった。  篠宮が大手書店の角善堂かくぜんどう書店新宿店にアルバイトとして入ってきたのは約半年前のことだった。まりあが抱いた彼への最初の印象は優男だった。マスクで口周りは隠れていたが、目元は穏やかでいかにもいい人という感じを醸し出していた。 「篠宮亮と言います、よろしくお願いします」  彼の第一声はこれだった。少し緊張しているのが、初々しかったが特別ときめくようなことはなかった。次に店長が口を開いた。 「それじゃあ、篠宮君には文芸書を担当してもらいます。和内わうち……じゃなかった河合さんに付いて、いろいろ教えてもらってください」 「もう、店長いい加減に苗字を覚えてくださいよ~。篠宮さん、よろしくお願いします」  内心、まりあはデリケートな対応ができない店長に腹を立てたり、諦めたりしながら、上手く篠宮に対応したと思った。まりあの明るい口調に、周囲からは笑いにしていいんだという認識が広がり、クスクス笑いが起こった。彼女は明るくて人当たりが良いというのが周りの評判であり、自己評価でもあったから、それに沿えただけでも満足だった。 「篠宮さん、文芸書担当リーダーの河合です。改めてよろしくお願いします。」 「よろしくお願いします」  緊張した面持ちで篠宮は返した。その日はまりあのほかにもう一人浅倉あさくらというパートが勤務していたので、通常業務は浅倉さんに任せて、篠宮を付き切りで指導することにした。本の平積みの仕方、並べ方から補充のタイミングまでを初めに教えた。白い半袖ワイシャツに黒いスラックスを着て、その上から「角善堂書店」と書かれた紺のエプロンを纏った篠宮は幼く見え、お店屋さんごっこの延長線のようで初々しかった。  その後はレジに向かい、レジの練習をした。最初は空いているレジを使って、扱い方から教えた。とはいえ、角善堂書店新宿店ではセルフレジを導入しているため、なかなか実践の機会は訪れなかった。十二時になって、まりあと篠宮は一緒に休憩に入ることになった。 「今から休憩ね、お昼はバックヤードで食べてもいいし、外に食べに行ってもいいよ。お昼持ってきた?」  彼女自身でも母親かと思うくらい心配すると、 「それがお昼を持ってくるのを忘れちゃって、どうしようかと思ってたんです」  と不安そうに尋ねた。見かねたまりあは言う。 「それなら、裏口を出て一本筋を入ったところにコンビニがあるから、そこで買ったらいいよ」 「ありがとうございます、早速買いに行きますね。行くときは気が付かなかったなあ」  篠宮は急いで、店を出ていった。  篠宮が店を飛び出してから四十五分経つが、篠宮は店に帰ってこない。 「どうしたんだろうね? 新人君」  さすがに、店員の間から心配の声が上がる。 「逃げちゃったんじゃないの? あの子、線細そうだし。前にもいたじゃん、そういうやつ」  そんな声も聞こえてきた。せっかく来たバイトだ、逃がしたくはない。店長に言って携帯電話の番号を教えてもらい、彼と連絡を取ろうとしたときだった。バックヤードに人影が見えた。それは紛れもなく篠宮だった。 「ちょっと、どこ行ってたの? 心配したのよ」  苛立ち交じりにまりあが言うと、 「すみませんでした。コンビニに行こうとしたら、曲がるところを間違えたみたいで道に迷ってしまったんです。なので、こんな時間になってしまいました。ご迷惑をおかけしました」  と恐縮したように篠宮はボソボソと話した。手にはおにぎりが入ったレジ袋をぶら下がっていた。心から申し訳なさそうにする篠宮の姿を見て、まりあの怒りも鎮まったのか、 「じゃあ、急いで食べておいで。あんまり時間ないよ」  と言うのが精いっぱいだった。バックヤードの隅で急いでおにぎりを食べる篠宮を見たまりあは声をかけようとしたが、さらに傷つけてしまうような気がしてやめておいた。それでも、その後も篠宮のことが気になって仕方なかった。午後からも仕事をほぼマンツーマンで教えたのだが、その様子を見ていた浅倉さんに、 「河合さん、まるで彼のお母さんみたいだね」  と仕事帰りに言われてしまった。 「お母さんかあ」  まりあは帰り道、 (家だけでなく職場でも母親を演じていたんだな)  とその日の自分を振り返って思いながら、呟いた。もうすぐ家に着く。帰れば息子たちが待っている。そこには母親業を必死にやらなくてはと、モードを切り替える彼女の姿があった。それでも、まりあの心の中では篠宮の存在が放っておけないものになりつつあった。 つづく

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません