海の向こう
モレリア大陸 1-1

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 モレリア大陸にある大国ハヴィランドの大宮殿では、王太子の誕生を祝う催しが盛大に開かれていた。  宮廷楽団の演奏が広間を優雅に彩る。人々の笑いさざめく声、時折聞こえるグラスを合わせる音がそれに華やかさを添えていた。  今夜の主役は婚約者を伴って、国外から招いた賓客に取り囲まれている。  王太子ヴァレリアンは濃い金茶の髪に翠眼の物語に出てきそうな背の高い凛々しい美男。  婚約者のセレスティアは、明るい金髪、碧眼、白磁の肌を持ち、透明感のある空気を纏った妖精のような華奢な美少女。  神が定めたような似合いの対だった。  「結婚は1年半後だったね」  親睦の深い同盟国ノルデンソンの王太子チャールズが二人に訊ねると、セレスティアはゆったり頷き、笑みを深くして右隣の未来の夫を見上げる。  その視線を受けたヴァレリアンは目を細めると華奢な左肩に置いていた手に力を加えて自分の方へ引き寄せた。態と疲れたように溜息をついて見せる。 「ええ、途轍もなく長く感じる1年半になるでしょう。150年先まで待てと言われているみたいだ」  その理由に心当たりのあるチャールズは愉快そうに肩を揺すって笑う。  ノルデンソンの王太子妃キャスリンはそれを咎めた。 「あら、貴方も結婚前は似たようなことを頻繁に漏らしていましたわ」  チャールズは口ひげの形を歪ませて意味ありげにニヤリと笑い、ヴァレリアンの肩に手を置いた。 「だからこそさ。僕には分かるよ。今のきみの気持ちが」  男にしか分からない話だとチャールズは片目を瞑ってみせる。  この二人の王太子には立場以外にも共通するところがあった。  政略的な意図なしに望む相手を自分で見つけられたこと。婚約期間が長かったこと。幸いにも妃に望んだ相手の身分が高かったことだ。  そして、この結婚を周囲に望まれ期待されているところも共通していた。  2人が初めて出会った頃、彼女は僅か生後半年だった。  自分が王になったとき王妃として隣に在るのは彼女だと婚約を申し入れ、それが成立したのはセレスティアが2歳のときだ。  宰相の娘だと知って欲した訳じゃない。  17年近く傍で慈しんで、成長を見守ってきた。もうヴァレリアンは彼女なしの人生は考えられない。  チャールズは婚約期間こそ8年と比較したら長くはないが、今のヴァレリアンのように婚前の長い "待て" に苦しめられた過去がある。  当のキャスリンは夫が当時藻掻き苦しんだことなど知らない。だから、こんな的外れのことを言う。 「そうね。婚姻の誓いを交わすまで気が抜けないわね。ガレア王家もまだ諦めていないようだし」  キャスリンが目線を動かした先には、こちらを無遠慮に凝視する美貌の男女。ガレア国の王太子と第三王女だった。  ヴァレリアンもセレスティアも視線をやらなかった。意識すらしていない。二人は彼らの行動に慣れきっている。  ガレア国の王族は長い間、それぞれの婚約者に成替わる機会を虎視眈々狙ってきた。  ガレアの第三王女イザドラは、セレスティアと同じ17歳でありながら、既に滴るような色気を持つ凄みのある美少女だった。  ハヴィランドの王族との縁談を宛てなく待っているため、生まれてこの方婚約者は持っていない。  20歳になるまでにハヴィランドの王子達の結婚や婚約をどれか白紙にさせて空いた席へ座ることが彼女の目標だった。  それが叶わなければ、国外から降るように来る縁談の中から相手を見繕い一番国益に適った結婚をする予定になっている。  イザドラの兄、ガレアの王太子オリヴィエも美しかったが、その美しさは破格だった。彼は女性と見紛う……いや人間なのか疑いを持つ程の美貌の男で、余りにも見た目が人外過ぎて妖精王という渾名がついている。  ガレアの王族は、より多くの子を成す義務を持つ。オリヴィエも既に側妃と愛妾が幾人かいたが、正妃の座はセレスティアのために長年空けていた。婚姻の申し出はしてある。17年間ずっと断られ続けているだけで。  彼がこれほどの美貌に生まれついた理由と、セレスティアへの執着の理由の根幹は同じだった。 *  ハヴィランドには古に女神タイスが降り立ったとされる古代湖ブレーゼがある。  晴天の日の湖の色は、"貴石エメリアム" の別名と同じ "天上の青" と呼ばれ、絵筆で再現不可能とされる美しさを誇る。  ブレーゼ湖は、その神秘性でも古くから有名だった。  水の透明度は高く、船を浮かべると宙に浮いているよう感じると言われていて、真冬に湖水が凍ると貴石エメリアムと同色の僅かに緑がかった深い青に変わった。  実は約600年前までこの湖は隣国ガレアの王家直轄地にあった。  当時小国だったハヴィランドは、ガレアに仕掛けられた戦争に運良く勝ち、ブレーゼ湖とその周辺の領土を切り取って自らのものにした。  女神タイスの加護の象徴である湖を奪われたことで、ガレア王家は国内で求心力を失ってしまう。その後、躍起になって湖を取り返そうと仕掛け続けた戦争で、じわじわと領土を削られ国力は衰退していった。  方やハヴィランド国は賢王と戦上手な将軍に恵まれた時代が長く続き、ガレア以外の国との幾度かの戦争で領土を増やし国は栄えた。  国庫が尽きてこれ以上の戦争を諦めざるを得なかったガレアだが、ブレーゼ湖のある領地を諦めはしなかった。あくまでも正攻法でことに当たるのは難しいと納得しただけだ。  ガレアは、これまでとは異なる戦法をとった。  王族はこぞって私財を投じて大陸中から美女美男を集め、ハヴィランド国と取引を持ちかけた。当然承諾はされなかったが、それでもガレアは諦めない。  大枚叩いて掻き集めた美人達を無駄にすまいと、その血を王家に取り入れた。美貌の王子、王女が生まれたら婚姻を持ちかけて、ハヴィランド国に入り込むという確実性に乏しい上に時間のかかる方法に変えたのだ。  掛け合わせの結果、念願叶ってガレアの王族からは美貌の男女が多く生まれた。  ハヴィランドの王族は、幾ら美しくとも獅子身中の虫になるのを承知でガレアの王女を娶るつもりなど毛頭なかった。  だが、それ以外の国の反応は違った。ガレアに麗しい王族が誕生するたびに大陸の多くの国が婚姻関係を結ぼうとこぞって押しかけた。  こうしてガレアは先を見据えた政略結婚をし続けた。他国と多くの縁戚関係が出来ると外交は必然的に盛んになり国力は上がった。  顔が良いだけの馬鹿では国が潰れる。幾度も取り込んだ賢い男女の血が表れ始めて4代前に賢王が立つと、ガレアは急速に発展して行く。  領土こそ小さいが大陸でも有数な裕福な国になり、大国ハヴィランドとも対等に遣り合えるようになった。  当然、その間も湖の返還交渉はしつこく続いていた。  ところが、ハヴィランドのある公爵家に娘が誕生するとガレア王家が手に入れたい対象はブレーゼ湖から、その娘へと変わった。  女神タイスはこの世界を創造した5神の内の1人で、この世界の4つの大陸の中で信仰している国は多くあった。  古くからある聖典に創造神達の記述はあれど、その容姿については全く触れられていない。神々の似姿は描写されてきたが、いずれも画家の想像だ。  女神タイスは髪色は豊穣の象徴である金、瞳は古に降り立ったとされる湖の青で描かれることが多かった。  ブレーゼ湖はエインズワース公爵領と王室直轄領の間にあった。  奇しくもエインズワース公爵の末子であるセレスティアは父譲りの金髪で、瞳は天上の青と呼ばれる貴石エメリアムの色をしていた。  ガレアは湖を取り戻す事ができないならと、女神タイスに似た娘を王家に欲した。ガレア執念の傑作、王太子オリヴィエの元にセレスティアが嫁せば丸く収まったかもしれない。  ハヴィランドでそう主張する貴族たちは一定数居た。  セレスティアの父親で、この国の宰相でもあるエインズワース公爵も当時その考えに賛同していた一人だった。 *  深夜、王宮の一室に呼ばれたセレスティアは、護衛騎士4人と侍女二人引き連れて、何の疑いもなくやってきた。誰が何の要件で呼んだのかは分かっている。  侍女がノックをするとドアの向こう側から低い声で誰何すいかがある。  「姫です」  侍女が端的に応えると、ドアは静かに開けられた。  ドアの隙間から見知った王太子の護衛騎士が顔を覗かせる。  いかめしい顔の騎士は主の待ち人を確認するとドアは大きく開かれてセレスティアだけを通した。  ここは王太子の私室ではない。  ヴァレリアンが13歳になったある日を境にセレスティアは私室へ通して貰えなくなった。逆にヴァレリアンがセレスティアの私室に立ち入ることもない。間違いが起こらないように。間違いが起きたのではと誰からも疑いすら持たれないように、ハヴィランド王とエインズワース公爵が決めたことだった。  最愛の婚約者と夜ほんの僅かな時間を二人きりで過ごす。  父王とエインズワース公爵夫妻には、ヴァレリアンが希望した、このささやかな逢瀬を自身の生誕を祝う夜にだけ目こぼしして貰っている。  セレスティアは既に湯を浴び終わり、今は体の線の出ないゆったりしたワンピースに着替えていた。腰より長い髪は一旦解かれて、婚約者に会うに相応しく侍女の手で複雑且つ緩めに編み直されている。  ヴァレリアンも湯を使い終わり、今は何の飾りもないコットンシャツとトラウザーズという出で立ちだ。  これから、ほんの僅かな時間を二人で過ごしたら、それぞれの部屋に戻って夜着に着替えて眠るだけ。  ヴァレリアンは入室した婚約者を見て、久しぶりに会えたような顔で歓迎の意を示すと自分が座っている長椅子の横へ座るように手招く。  微笑んだセレスティアは了承のため頷いて、一人分の間を空けてお行儀よく腰を掛けた。  セレスティアが座るやいなや、待ちかねたようにヴァレリアンは、すぐに手を伸ばしてその頬に触れた。 「ティア……今年も誕生日の特別な贈り物をくれるかい?」  これが深夜の呼び出しの理由だった。  セレスティアは既に今年の誕生日の贈り物を渡し終えている。  毎年ヴァレリアンは美しい婚約者の姿絵と彼女が自ら選んだ身に着けるものとを欲しがった。その要望に応えるべく、セレスティアは毎年宮廷画家の元へ1ヶ月通い等身大の絵画とロケットに入れる大きさの緻密絵を仕上げてもらい、誕生日に贈っていた。今年は裏地に細かな銀糸で刺繍が施されている特注品の素晴らしい外套も合せて贈っている。  婚約者からの更なる贈り物の要求にセレスティアは快諾する。 「ええ、どうぞ」  ヴァレリアンはセレスティアが15歳になったとき、彼女に強請る贈り物を一つ増やした。彼の言う "特別な贈り物" は物品ではない。  この贈り物を生誕祝としてセレスティアが求められるのは今回で三回目だった。  何を要求されているか知っているセレスティアは、目の前の婚約者に向かって軽く両手を広げて目を閉じた。よく知った気配が近づいてくる。 「わたしがいいと言うまで、目を開けてはいけないよ? それと――」  掠れた声でなされた言いつけをセレスティアは目を閉じたまま引き継いだ。 「このことは誰にも言ってはいけないのでしょう? 分かっています」  この部屋にはヴァレリアンの護衛騎士が二人壁の隅に控えていて気配を消していた。だから厳密に言うと部屋に二人きりではない。  彼らは王太子に忠誠を誓った者たちだ。王太子の個人的な事情は見聞きしても拷問されたって言わない。  セレスティアが漏らさなければ、これから起こることは他の誰も知ることはない。  セレスティアの婚約者に寄せる信頼はそれは強いものだった。ヴァレリアンもこれまで、その信頼に応える努力を最大限にしてきた。だから、こんな深夜に呼び出されても警戒無くやって来るし、何の躊躇いもなく目を閉じて無防備にしていられた。  ヴァレリアンは息を詰めながら、長い睫毛の縁取りのある閉じられた瞼を人差し指で、そっと撫でる。セレスティアは、くすぐったくて少し身じろいだ。  あと1年半。セレスティアの全てを自分のものに出来るその日までがヴァレリアンは呪わしく思えるほど長く感じた。  ヴァレリアンはゆっくり両腕を伸ばしてセレスティアの身体を包み込み腕の中に閉じ込める。力の限り抱きしめたい気持ちを押し殺しながら。

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