王妃の冠の以前の所有者であるヴァレリアンの母は、第三王子を産んだ際に亡くなっている。 母を失った悲しく寂しい初めての春、毎年避暑のために訪れていた離宮にヴァレリアンは足を運んだ。それには辛い理由があった。 王妃を産褥の床で亡くしたハヴィランド王の失意は激しく深かった。 彼は王妃を深く愛していたので、臣下たちの再婚の求めにも頑なに応じようとはしない。 この国では王侯貴族の権力の偏りを防ぐために、配偶者は慎重に決められている。場合によっては国が認めず、却下されることもある。 もし、死別や特殊な事情で離縁などした場合は、同じ一族から配偶者を迎えることに決められていた。これは王であっても同じだった。 このような政治的な問題もあって、ハヴィランド王は渋々亡くなった王妃の一族の娘を王宮に迎えたが、それは妃としてではない。 王妃の仕事の一部を担わせて、且つ権力の偏りを出さないだけなら妃でなくていいだろうと、ハヴィランド王はそこは断固拒否した。臣下たちも折れて選ばれた気の毒な娘は公式愛妾に据えられた。 そのような背景など知る由もない。父親の傍を公に侍る女が宮殿に入ると知った幼いヴァレリアンは到底受け入れられない。母親との楽しい思い出のある湖畔の離宮へ逃げ出した。 ヴァレリアンが護衛騎士の馬に乗せられ、景色の中にある母親の思い出を追いかけて湖岸沿いに散歩をしている時だった。 護衛を引き連れ、乳母に抱かれながら散歩していた湖畔の別荘に滞在中の生後半年のセレスティアと運命の出会いを果たした。 弟のせいで母親を亡くしたという気持ちをヴァレリアンは少なからず持っていた。生まれたばかりの弟を見たくない。王宮から逃げ出した理由の一つでもあった。 赤子に興味がない訳ではない。身分を明かした上で乳母の了承を取り、おとなしく抱かれているセレスティアを覗き込んだ。彼女は柔らかな金髪に白い顔に丸く赤らんだ頬の天使の如く美しく愛らしい子だった。 ヴァレリアンがこれまで見て触れたことのある赤子はいずれも弟だった。セレスティアは甘い匂いがして骨も細く身体も肌も柔らかかった。泣き声や喃語が小さくて弱々しい所も違う。ヴァレリアンは庇護欲を生まれてはじめて掻き立てられた。 覗き込むと大きな青い目がヴァレリアンを見返す。 今は王宮の宝物庫の奥に戻され、目にすることが叶わなくなった所有者を失った王妃の冠。思い出の母の頭上に頂く冠の中央に輝いていた宝石とセレスティアの瞳の色は同じだった。 だから、あの冠の次の所有者はセレスティアだとヴァレリアンは思ったのだ。 突然舞い込んだ王太子との婚約話にエインズワース公爵は顔を歪めていた。 初めて出来た娘は本当に可愛い。美貌と名高かった曾祖母に似ていたことも相まって手元から離したくなくて返事を出し渋った。こんな風に父親として苦悩するのは娘が然るべき年になってからで充分だと思ったのだ。 王太子には一族の娘を嫁がせる予定ではあるが、それは自分の娘でなくてもいい。苦労すると分かり切っている所にやりたくなかった。 臣下の身で王太子との婚約をこちらから断ることは当然出来ず、のらくらと公爵が返事を避けている間に状況は変化した。 ハヴィランド国の宰相の元に娘が生まれた。どうやら娘は女神タイスの特徴を持っているらしいという情報をガレア国は入手した。それが真実だと確認するやいなや、矢のような速さでガレアはエインズワース公爵に王太子との婚約を申し入れた。 既にハヴィランドの王太子から婚約の打診を貰っていた公爵は、それを理由に丁寧に断りを入れた。 何事にも粘り強く諦めの悪いガレアである。意に介さない。 受け取らずには要られないような贈り物をつけて、定期的に使者を立て婚約を申し入れた。 非公式にガレアの王太子が尋ねてきたこともある。 もうその頃から破格の美少年だったオリヴィエは、応接間に連れてこられたセレスティアを抱かせて貰い、蕩けそうな笑顔で無邪気にもこう言った。 「君は大きくなったら僕の妃になるんだよ」 娘が小さいからといって洗脳するのはご遠慮願いたいと公爵は厚かましい王太子にお引取り願った。娘の面会を今後希望されるのであれば、ハヴィランド王家を通して頂きたいと正式に返事を出して以降、オリヴィエは公爵邸には来れなくなった。 ガレアの意向を知った一部の貴族たちは、ブレーゼ湖をかの国がようやく諦める絶好の機会になると言い始めた。 エインズワース公爵も同じように考えていた。そもそも半分は自分の領地だ。諦めてくれるなら枕を高くして眠れる。 ガレアからいつ仕掛けられるとも知れない戦争に常に備えて多くの予算を割き続けるのも税金の無駄だった。十数年先の未来にセレスティア一人を嫁がせて国の問題を解決できるのであれば、それに越したことはない。 ガレアも何百年にも渡る怨念のような執着を昇華できるのだ。セレスティアは下にも置かない扱いを受けて生涯大事にして貰えるだろう。 ハヴィランド国としても恩が売れて優位に立てる。国を預かっている宰相として利点しか浮かばない。 ハヴィランド王も同じように思っていたが、普段わがままを言わない息子の懸命な訴えを無下にも出来なかった。 自分の望んだことではなかったが、王妃を亡くして半年も経たずに公妾を王宮に入れたことへの罪悪感もある。 亡くなった母親との思い出深い地で出会った娘で、王妃の冠に嵌った宝石と同じ瞳をしている。自分の妃にしたいとヴァレリアンは必死になって訴えた。 「父上が母上にしていたように、絶対に大切にします」 この一言でハヴィランド王は折れた。 君主として良い判断ではないのは分かっていた。 孤独な王座に在り続ける日々、心から愛した人を伴侶として傍らに置くことが、どれほど自分を慰めたかハヴィランド王は知っていた。 「分かったよ、ヴァレリアン。宰相にまた話をしてみよう」 王は息子に頼もしく請け合ったが、話す機会はとんと無かった。 ハヴィランド王が改まった話し合いの機会を伺っている間に女神タイスを主神として祀っている国からも婚約や結婚の申し入れが次々とあって、エインズワース公爵は多忙を極めていた。 婚約期間なしに即座に結婚させてくれという非常識な話もあった。 難儀なことに断っても他国の使者らは帰らない。セレスティアを一目見ようと邸の周りを彷徨くようになると、公爵は苦渋の選択をすることになる。 「陛下、先日のお話。謹んでお受けいたします」 娘の身の安全を考えて王太子との婚約に正式に返事をしたのだった。 こうして、セレスティアは2歳にして王太子の婚約者になり、準王族として扱われるようになった。 エインズワース公爵の要望で誘拐の危険を避けるため王宮にも専用の部屋が用意された。 初めは王太子の私室から一番近い客室に。 ヴァレリアンが13歳になり精通を迎えると王太子の私室から最も遠い女性用の客室に変えられた。 セレスティアが14歳になり初潮を迎えると、高い石壁で囲まれて出入り口が一つしかない小さな離宮に場所が変わった。 公爵家も専用の侍女と護衛騎士を雇っていたが、王家はそれぞれ専任の者をつけて、年齢に応じてその数を増やしていった。 セレスティアは実家であるエインズワース公爵邸と王宮を月に幾度か行き来するという人と比べて大分変わった生活を2歳から送ってきた。 その環境は細心の注意を払って整えられ、配置する人員も充分な調査が入り、施す教育についても綿密に審議が重ねられた。 セレスティアの親族とそれに等しい者たちは、個性的だが概ね常識的だった。 一回り近く歳の離れたセレスティアの2人の兄は、初めこそ特殊過ぎる妹に暫くは戸惑っていたが、王宮から邸へとやってくると全力で可愛がった。 エインズワース公爵夫人は産後体調が優れず暫く実家に帰っていた。 すっかり回復して意気揚々邸に戻ってくると自国の王太子やガレアの王太子や他国の使者らが続々と出入りするので心労で倒れてしまい、また実家に帰った。 娘がこんな大変な状況に陥ったのは、自分がこんな風に産んだせいだと公爵夫人は、さめざめと泣いて暫く気に病んで臥せっていた。 けれど、女子供は泣いてから強いと言われている通りになり、夫のエインズワース公爵を呆れさせた。 公妾のカミーユは課せられた仕事で多忙だったが、王宮に在ってはセレスティアの母代わりを務めた。 王妃亡き後、セレスティアを未来の王妃として導くのもまたカミーユの仕事の一つだった。 カミーユは継承問題を生じさせないために自分の子供が望めない。 王の寝所に侍るときは、王族の間ではよく使われる大変高価で身体に負担のない避妊薬を服用している。 王太子と第二王子は母親の後釜に入った女として遠巻きにしていたが、幸い第三王子とセレスティアはカミーユに懐いた。彼女は持つことの敵わない自分の子供として二人を可愛がった。 多くの愛に囲まれて、育てたように彼女は育つ。 かくしてセレスティアは、熟練の園芸家が丹精込めて育てた温室の花のような令嬢になった。 5歳の年の差がある。婚約者は、まだほんの子供だとヴァレリアンが油断している間にセレスティアの季節は順当に巡って美しく花開いた。 そうなると不都合なことにヴァレリアンは傍に居ることが辛くなってくる。喉の乾きと飢えが日々強くなって、自分の行動が制御出来ない瞬間が増えることに彼は怯えた。 自分の手がセレスティアの体の形や秘められた場所の肌の柔らかさを知りたがっても、本能が白い首や耳の後ろ、胸元の薫りや肌の味を確認したがっても、衝動は都度殺して無かったことにした。 * セレスティアを無垢なまま娶る決意をしているヴァレリアンが、自分に許したのは自身の生誕を祝う夜。僅かな時間に恋人として口づけることだった。 「ティア――」 名を呼びながらヴァレリアンは理性を総動員している。 今も抑圧された情欲が腹の下で開放を願っているのを感じている。 獣のような荒い息をセレスティアに掛けたくなくて、水の中に沈んでいるような苦しさを覚えながらヴァレリアンは細く息をした。 先程、目を閉じるように言ったのは、自分の獣性を帯びてるだろう瞳を見られたくなかったから。 怖がらせたくない。嫌われたくない。軽蔑されたくない。その一心だった。 その思いは普段から変わらない。 今のセレスティアは、女の季節でいえば春半ば。 その特有の愛らしさや美しさを目の当たりにし傍近くに感じることには男として苦しさと痛みが伴った。 疚しい気持ちと自分が無意識に向けてしまう卑しい眼差しに気付かれたくない理由から一緒に居ても目を伏せることが多くなる。 溜息を息を詰めて殺す回数も合せて増えると、護衛騎士や側近達に気の毒そうな目で見られるようになった。 2年前の今日のこの日もセレスティアを抱きしめながらヴァレリアンは残り時間を数えた。あと3年半だと。 あの時の残り時間に感じた苦痛より、短くなっている筈の今の方がずっと辛く感じるとは当時の自分は思っただろうか。 そんなことを考えながら人差し指だけで小さな顎を掬い、顔を上に向けさせる。親指を左右にゆっくりと動かし、唇の感触を確かめた。親指の先を軽く閉じられた唇の間に差し入れる。しっとりと濡れた柔らかく温かい粘膜が指に感じられた。 セレスティアは、この行為に含みがあることすら分からない。 思わず出た溜め息が彼女の瞼に当たる。 「どうなさったの?」 「いいや……なんでもないよ」 セレスティアには子供が知ることを許される範囲でしか大人の男女についての知識は与えていない。ヴァレリアンがそう望んでエインズワース公爵も同意した。 一般的な貴族令嬢は注意喚起の意味も込めて、ある程度の知識を与えられるだろうが、セレスティアは身体も心も厳重に守られている。 王家、公爵家の使用人達や友好関係のある者たちには余計な知識を入れないようにと周知徹底させてもいた。 今は何も知らないままでいることを彼は望んでいる。 その時が来たら、ヴァレリアンが全て自分で教えるつもりで。 理性を振り切ってしまわないように奥歯に力を入れながら唇を寄せた。 押し当てた唇からは、ふっくらと柔らかい感触が返ってくる。 小さく漏れて掛かる呼気は甘い。一瞬の目眩のような、意識が揺れる感覚がある。 その甘美さに、二回目の溜め息が漏れた。 今度は下から掬い上げるように唇を押し当てた。 目を閉じている状況で体のバランスが崩れるのを恐れたのか、セレスティアは無言で胸に縋ってくる。 次々と角度を変えて押し当てる唇の間から、僅かに舌を出して伸ばしセレスティアの唇を濡らす。滑りが良くなると、その感触をヴァレリアンは充分に楽しんだ。 甘い。甘い……。ひたすら甘い。 左手はセレスティアの頭をあやすように撫で、右手は無意識に背中をゆっくりと官能を与える意図を持って蠢いていく。 想定していたよりも早く、本能に掛けた縄が伸び切ってヴァレリアンの手から離れようとした。 呼吸が乱れていく。そして――。 「もしかして、ご気分が優れないのですか?」 胸を押して唇を離したセレスティアが目を閉じたまま心配そうに訊ねる。 ヴァレリアンは息を詰める。時間稼ぎの為にゆっくり頭を撫でて、気付かれないよう細く吐いて弾む息を整えた。 「いいや……いいや。ありがとう、大丈夫だよ」 昂った為、張り詰めて痛むところがある。この時間では鎮める先を求めて王宮を出るのも難しい。疲れ切っているのに、もう今夜は自分を鎮めずに眠るのは無理だとヴァレリアンは諦めた。 刹那的な恋に相応しい相手なら社交界に多く溢れていた。その気になれば何人だって侍らすことは出来たし、実際誘惑も多かった。 今だって一声かければ、口の固い夫人や令嬢、侍女に女官も寝室に偲んで来ただろう。 けれど、万が一にもセレスティアやエインズワース公爵の耳に入るかもしれないと思うと軽はずみな真似は出来なかった。 健康な男なのだ。女無しで過ごし続けられる訳はない。 ヴァレリアンは精通してからずっと病気も妊娠も心配ない高級娼館で情欲を処理し続けていた。 セレスティアの心身が大人に近づくにつれ、その利用頻度はあがったが、彼女を傷つけないようにするためには、どうしても必要な措置だった。 ヴァレリアンは熟れたような熱く濡れた唇が離れたことで冷えていくのを惜しんで再び唇を寄せた。 この僅かな時間に代償行為を求めるのは許されるだろうかと彼は一瞬考える。ヴァレリアンの舌はセレスティアの口内に入りたがっていた。 不埒な意識が腹の底から手を伸ばしてセレスティアを捕まえようとしている。それに気付いたヴァレリアンは慌てて彼女の両肩を掴んで身体を離した。 「ティア、もういいよ。ありがとう」 唇が震えている。声には出ていないだろうかと心配しながらヴァレリアンは、一人分の間を空けた元の位置に座り直す。 湿った唇に手の先を当てたセレスティアは、口づけの名残を惜しんでいるように見えた。 「目を……開けてもいいのかしら?」 夢から醒めたばかりのようなぼんやりした声で尋ねてくる。 「もちろん、いいとも。眠いだろう? 遅くに来てくれてありがとう。――もうお帰り」 心から愛している婚約者を穢さないように守ってきた。誰からも。自分からも。 セレスティアにとって最も危険なのは自分ではないかと思い悩んだこともある。 ヴァレリアンは忍耐を重ねて涙ぐましい努力を続けていた。 今、この瞬間も――。
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