視線の行き場をなくした翠の瞳に窓の外が映る。 翠達の来店を機に客が続き、外にも人の列が並ぶ。 カップルの女性が彼氏に日傘を差し掛けた。 テーブルが澱んでいたのは3分位か。 白を基調とした店内に流れているのはジブリのオルゴール。 その長閑さに軍配が上がる。 「悪い、一気に過去にトリップしたわ」 翠は眉を‘へ’の字に下げたまま、上目遣いで太一を睨めた。 「顔が恐くなっていた……」 太一はもう一度、悪いと、言って手刀で詫びる。 ようやく放念した翠は、ふざけた素振りの膨れっ面だ。 ピッチャーを持ったウエイトレスがグラスに水を注いでいった。 太一は手持ち無沙汰にグラスを手に取り、一口だけ水を飲む。 「洋太郎さん俺が留年する原因を作った人だよ」 翠の動揺を慮ってか、話し振りが朗らかだ。 目を見開いた翠は小首を傾げる。 「私、先輩の留年理由知りませんけど……」 三年生の留年理由など最下級生の間では噂のも登らない。 『チャップリン』がたまり場でなければ、お互いの存在すら知らずに過ぎていた。 「事故?病気?」 翠は控えめに聞いてみる。 「自動車事故だよ。そんで、運転していたのが洋太郎さん」 「それじゃ……恨んであの顔?」 「嫌、洋太郎さんも、ぶつけられた被害者だから……」 「ふ~ん」 頷くだけの翠は過ぎたことには関心を持てない質だ。 「オヤジ達が洋太郎さんを攻めた事が今でも気に食わねぇ」 太一は脚を組み替えると体を斜に向けた。 そして腕を組むと、下唇を噛んでまた憮然とした顔を見せる。 「私、洋太郎さんに会うに止めた方がいいの?」 「……」 反応が無言なのは当たり前だ。 意見や希望があったとしても口に出せる立ち位置から太一は外れている。 「行こうか」 太一は伝票を手に取るとレジに進んだ。 翠は後を追い「ごちそうさま」と言うと、先に外に出る。 帰りのルートに太一の行きつけの服屋があると立ち寄った。 太一は翠にハイブランドのポロシャツをプレゼントするという。 理由もなしに高額な品は受け取れないと固辞したが、俺にあるから、と突きつけられてしまった。 太一の引く境界線は凸凹と複雑で翠の足は覚束ない…… 太一はアパートまで送ってくれた。 翠は躊躇しながらも太一を誘ってみる。 しかし太一は、店があると、帰っていった。 翠は「さようならと」と見送った…… 翠は控え室でカラオケ教室の生徒さんにメークをしてあげている。 母の主催で開催されるカラオケの発表会はAM9:30~PM5:00までの長丁場だ。 それでも翠は午前中でご無礼させてもらう。 翠は発表会の事をすっかり失念していた。 それで洋太郎との初顔合を今日にしまったのだ。 午後から応援で後輩が二人来てくれる。 彼女達は翠の父の会社の連中がお目当てだ。 翠にはよく分らないセンスだがガテン系が好きらしい。 必然的に鍛え上げられた頑強な肉体はジムのマシーンで仕上げた肉体とは質が違い、それは顔つきにも出ているという。 言われて見れば日の焼けた顔面は精悍に見えなくもない。 控え室は特撮ヒーロー出身の俳優が不倫した話題で盛り上がっている。 確か理想の夫に選ばれたこともあるはずだ。 「翠ちゃん、男は浮気しない男と、浮気する男じゃなくて、浮気がばれる男と、ばれない男がいるだけよ」 持論を展開しているのはスナックのママさんだ。 名前は知らない。 翠は荒れた肌を隠す作業に没頭している。 「私は不倫されるなら不倫相手になった方がいいわ。家庭に縛られて、旦那に浮気されて……気の毒だわ。それに比べれば、世間の非難なんて知れているでしょ」 「……」 翠には耳に痛い言葉だ。 「ねぇ、翠ちゃんはどう?どっち?」 「私は浮気しない人と結婚しますよ~」 「じぁ、ヘタレ男だ」 「それでも浮気されるよりは、いいです」 心にもないことを口にするのは、お手の物だ。 ママさんが選んだステージ衣装は筆舌し難いほど兎に角派手。 翠は衣装に負けないメークをせねばと、粉骨砕身努力をした。 その結果、化け物みたいに濃い仕上がりになってしまったが、ママさんは出来上がった自分の顔に甚満足しているようだった。 翠はステージが見られないこと、が残念だと詫びて控え室を後にした。 洋太郎とは『欅』で待ち合わせをした。 以前、有希子に聞いた。 どうして喜多さんと『チャップリン』で会うことにしたのかと…… 『遊びなら、洒落た店や流行の店を選ぶけど、これから真剣に付き合いたい人には、自分の居心地に良い場所を知ってもらいたいでしょ。それと、もし、相手がその場にそぐわなかったり、気に入らないようなら、その人とは合わないってジャッジも出来るでしょ』 翠はそれに習ってみたのだ。 それに「欅」はランチも美味しい。 序を言えば、舘崎への防衛になる。 翠は丁度お気に入りに席が空いていたことに気分が良い。 洋太郎の風貌は添付されていた写真で大体、分っている。 翠は今日の服装を洋子に伝えておいた。 特徴的に服はあまりもっていない。 そして悩んだ末にタートルネックのノースリーブにした。 色も冴えたグリーンは一目だ分るはずだ。 スマホ弄りは心証が悪いので、しないでおいた。 待つ間翠は文庫本を開いた。 可愛らしい紙袋をサイズに切っただけだが、手作りしたブックカバーを掛けてある。 「田辺翠さんですか」 文庫本から顔を上げると、穏やかな佇まいの男が微笑んでいた……
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