ワガママを言おうと決めて、準決勝戦を終えてすぐの俺──和泉敬斗は、「決勝戦までやってしまおうぜ」とリングの中から相手をわざと挑発した。 「ぬゎっ、何ぬかしてやがる敬斗ォ!」 これで親父をまたもや激昂させてしまうことになったが、対戦相手が粋な人物で助かった。ゼエゼエいっている俺の望みをすんなりと呑んで、「ふぅん」と顎をしゃくってくれた。 「いいぜぇ、和泉敬斗。その話のってやる」 リングロープをくぐって、対戦相手がスルリと入ってくる。 「お前、時間無いんだっけ? だったらいっそ、ワンラウンドで決めてもいいけど?」 「ぬゎにを勝手な! おいゴラ敬斗ォ! マジで許さねぇテメー!」 リング外から、親父がそうやってボカスカキレ散らかしている。だが悪いな、親父。マジで時間がねーんだよ。 なんとか他の生徒さんになだめられて押されられている親父を横目に、俺はニチャアと黒く笑んだ。 「ははっ、一発勝負上等ッ」 とは言え、しかし息は絶え絶えの満身創痍。左前腕も腫れてきているし、マジでさっさと決めないとマズい。 その一方で、対戦相手は二試合分の休憩が出来ているから、呼吸も集中も整っている。傷にワセリンを塗れたようだし、気合いも申し分ない。 どうしたって、俺に勝ち目がなさそうだろう? 要するに、ボクサーの俺もSPの俺も、どっちも『勝ち目の無い状況』っていう危機一髪ラスボスバトルなわけだ。 ゴングと共に、俺は体勢を低くとって、相手の速すぎる拳を左に避けて、それから──。 ♡ ◇ 一二時三六分──鴨重邸。 俺の家から鴨重邸までは、実はそんなに遠くはない。走れば五分程度で着いてしまえる近所だったりする。 だから、試合を終えてヨロヨロとリングから降りて、相手選手たちにひととおりの謝辞と感謝を告げた後、ジャージを適当に穿いたり羽織ったりして、流れるように鴨重邸へ急いだ。 「いかがなさいましたか、和泉さま」 「あのっ、Sっ、エスピッ、ハア、SPの着替えっ、さしてぐだざいっ」 インターホンに、すがりつくように頼む俺。正直クソカッコ悪い。こんなのアイツに見せられるかよ。居ないってわかってっから出来るんであって。 一分程度で、一台の白い高級セダンが門扉前に到着。ぎょっとしていたら、令嬢専属運転手のいつもの女性が「ご乗車ください」と告げてきた。 「会場までお送りいたします。車中でお召し替えくださいませ」 「車、車中で?」 「窓ガラスは、スイッチ切り換えで黒色になるものを採用しております。人目に晒される心配はございません」 「ス、スゲー……あ、いやそれは別に心配してないですけど」 「とにかく、時間を有効に使いましょう。さ、時間がございませんし、お早く」 マジで気が利くぜ、頭いいな。さすが鴨重家専属の人員。 乗り込んだ後部座席には、いつものスーツはじめ、いつものセットが用意されてあった。綺麗なこれをさっそく汗みどろで汚してしまうのはマジで心が痛むところだが、四の五の言っていられない。言われたとおり、車中で着替えを進めていく。 ぐぬ、痛くて腕が上がらん。つーか、思ったより顔に怪我してる。指先も上手く使えなくて、なんかいつもよりネクタイが雑な気がするんだが。 アイツ怒るかな、急に俺が乗り込んでったら。 「なんで来たの?」とか「独りで出来るって言ったのに」とか。 でも今更だ。アイツにとって余計なことだろうと、構いやしねぇ。「要らねぇって言われても、気の済むまで護衛する」って、ボールを頭にぶつけたときのアイツに宣誓したはずだっただろう。 「和泉さま」 「えっ、は、はい」 運転席から呼ばれて、慌てて現実へ引き戻る。 「本日の会場は二五階。貸し切ったイタリアンレストランの一個室を使用しておられます」 うげ、やっぱり規模が違うぜ。なるほど、と相槌を返す。 「くれぐれも、お嬢様を会場から連れ去るようなことはお止めくださいませ」 「へ?」 げ、バレてる。なんで?! しかし運転手の彼女は、まっすぐ前を向いたまま淡々と告げていく。 「そういった行動は、社の信用問題に関わります。お見合い相手様は、社の取引先でございますし。今後の業務に支障をきたすおそれが」 「ヒッ、は、ハイ」 「それに、和泉さまを会場へ手引きしたメイド三名、執事一名、そして私の首も飛ぶでしょう」 「くっ、クビっ、がっ?」 おいおいおい、どのみちむっちゃ怒られるやつじゃねーか。いや、怒られるだけじゃ済まねぇやつだ。 全身をゾワゾワとさせ、するとピシリと背筋が伸びて。 「ですので。どうか会場内に留まったまま、なにかしらの手助けをお嬢様へ施しくださいませ」 優しい声色の、優しくない運転手の言葉。 情けない「は、はい」を言ったら、車がホテル・ブルーダッキーの出入口前で停まった。 「さあ。いってらっしゃいませ、和泉さま」 無茶振りだぜ、こんなの。作戦練り直せんのか? 俺!
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