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時雨先輩……名前からして村雨先輩みたいな細面の人かなと勝手に思っていたんだけど、予想と全く正反対だった。  言葉少なに「時雨だ、よろしくな」と挨拶を済ますと、台所の引き出しから茶色のエプロンを取り出し、そそくさと準備を始めた。 「正月……だったか、嫌いな食材はあるか?」  すぐさま僕は答えた。「ぬめぬめしたもの……イカとタコが苦手です」。  ぬめぬめして生臭いこの二つだけは、小さい頃から苦手なんだ。 「うん、なら大丈夫だな」冷蔵庫の中を見渡して、時雨先輩は支度を始めた。  っていうか……時雨先輩のエプロンかわいすぎ! 左胸にタヌキの顔のワッペンがついてるんだ、つい見入っちゃった。  なんていうか、寡黙そうな人柄と相まってて。 「時雨はああ見えて料理の腕は最高なんじゃ。まあ見ておれ」  僕の隣で駅長が何かをもしゃもしゃ食べながら教えて……ってそれ! 僕が買ったおにぎりじゃないか! しかももう二個食べちゃってるし。 「そう嘆くでない。もう少し待てば時雨の特製お昼ご飯をたらふく食うことができるんじゃ。我慢せい」  いやそれ謝罪になってないんだけど……  玉ねぎを刻んで、卵を溶いて、サクサク、コトコトと……  一心不乱に料理を作っている先輩の後ろ姿に、不思議と懐かしさがこみ上げてきた。  そうだ、まだ母さんが元気でいた時の、夕食を作っている……あの姿だ。  くつくつと煮えたつ醬油とみりんの織りなす甘辛な匂い。これは…… 「カツ丼……ですか?」「おう、大正解だ」  振り向かず背中で応えた先輩の声が、さつきと違って妙に弾んでいるように感じられた。  程なくして、僕の前には大きな丼に盛られた、熱々の湯気が立ち昇る、美味しそうな……あれ、ご飯だけ?  そこへ先輩がすかさず、フライパンからとろ~りと……甘辛く煮付けたカツ丼の具を、優しく乗せてくれた。 「コンビニで余らせたトンカツがあったからな、それと朝に向かいのおばさんが産みたての卵を持ってきてくれたんだ」  いただきますと手を合わせ、一口目を口に……  濃厚な卵に、まだサクサク感の残っているカツの衣が絡み合って……なんだろう、お菓子見たいな風味がまず口の中を漂っているみたい。  カツも肉厚ボリューミー。だけどすごく柔らかくって……全てがとろとろで美味しい!  飲み込むたびにだんだんお腹が減ってゆくような反比例した不思議な、けど心地よい感覚に満たされて、気がついたら特盛サイズくらいはあった量のご飯を、僕は瞬く間に平らげていた。むろん米粒一つ残すことなく。 「ごちそうさまでした、すごく美味しかったです」 「おう、言わねえでも分かるさ。お前涙流しながら食べてたしな」 「え……?」  なんだろう、知らないうちに泣いてた。  先輩に言われるまで全然分からなかった。  頬っぺたを触ると、確かに涙の跡が。

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