昼と夜の子どもたち
見えない友だち 8

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「でも、先生のポーは、ぼくのポーとはちがうんじゃ……」 「そうかしら? 足が四本で、そのうちの二本が短くて、ピンクの毛糸を食べて、モーツァルトが好きなあの子は、同一人物だとは考えられない?」  同じだ。これも誰にもいってなかったが、ポーはテレビで一小節でもモーツァルトの曲が流れると、ぼくを放ったらかして聞きふけっていた。二人で父さんの部屋へモーツァルトの曲を探しにいったこともある。  ポーが、伊藤先生の友だちだった?  それだけじゃなく、他にもぼくと同じポーを見ている子どもたちがいるかもしれないって? 「私はポーが他の誰にも見えないと知った時、悩んだものです。私が見ている世界と、みんなが見ている世界は、同じものなのだろうかって。わたしには見えるものが、あなたには見えない。……高橋くんは、私が見ている世界と、高橋くんが見ている世界は同じものだと思いますか」 「思います。だって世界はひとつきりしかないんだから」 「たとえば、ここにリンゴがあったとしましょう。それをとらえる人の心はみな違っています。視点、過去の記憶、リンゴを食べたことがあるかないか、お腹が空いているかどうか、リンゴに対する個々のイメージはバラバラです。美味しそうに思った人も、リンゴが怪物に見えた人もいるでしょう。あたが見ている世界と、わたしが見ている世界はちがうのです。同じものを見ることの方が、めずらしいですね」  ポーが見えていたのはぼくだけではない。  今までぼくにだけ見えていると思っていた世界が、さけてやぶれて別の世界とつながったような、伊藤先生の子ども時代を丸ごとなぞったような、こんがらがってめまいがするような気分になった。 「見えない友だちはなぜ存在するのでしょうか。子どもがさみしさをまぎらわせるためのもの? それだけ? まさか、そうではないでしょう」  伊藤先生は、ぼくに向き直った。 「高橋くんは、私よりずっとたくさんのものを見ているようね。それはきっと辛いことだろうけれど、あなたにはあなたにしか見えないものがあるのだから――自信を持ちなさい。大丈夫ですよ」  最後のセリフを、ぼくは伊藤先生から何度も聞いたことがある。けれど、今、その言葉はまったく違ったふうに聞こえた。

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