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「じゃあ、ケーキきりましょうか」  ――母さんの声が聞こえた。  ナイフを持っている――ぼくはびくっとしたけど、刃にはシミひとつついていなかった。銀色の、きらきらしたナイフだった。 「う、うん、そうだね……」  ぼくの周りには、母さんと友だち――ケンタとリョウとアキラがいる。真っ黒な大穴なんて、どこにも開いてない。  今の世界はなんだったんだろう? 夢? だけどあの血の匂い……ほんとみたいだ。  いやちがうったら!   目の前には明るい世界が広がっている。おかしなことは何も起こっていない……だろ?  ぼくはケーキのかけらを口に入れた。あの大きな黒いハエがわんわんとたかっていた。  それは美味しいケーキのはず……だった。たぶんね。  ぼくはとっても不安な気持ちで十才をはじめることになった。  あの光景を頭から閉め出そうとしたけれど、それはぜんぜん意味がなかった。そうしようと思えば思うほど、あの血の匂いがぷうんと漂ってきた。それに耳の奥でザッ、ザザッというヘンな音がしだした。  きっとあれは夢なんだ。そう、ただぼくは疲れているだけーー。  ぼくは、こんなことに悩まされているとは、誰にも知られたくなかった。  母さんから「先に入って」といわれたので、お風呂に入った。 「だから、夢じゃないって」 「どこだっ?」  またあいつの声だ! チカンでもしてんじゃないの? 「どこにでもいるよ――たとえば、ここ」  そいつの声は、風呂場の鏡から聞こえてきた。ぼくの顔をしたあいつがしゃべる。 「時がきたんだ。おまえはもう今のままじゃいられないよ」 「はー? なにいってんの?」  お風呂場全体が何かぶよぶよしたコケのようなものに覆われていると感じた……けれど、必死でその考えを頭から振り払った。 「おまえは今までまぼろしを見ていただけだよ――ほら!」  天井からどざっと水が襲いかかってきて、ぼくは簡単にそれにのまれる。いつもの風呂場の明かりの中、ぼくはおぼれていく――なんだなんだ、非常識的な展開だよな。どうしてこんな急にわけのわからないことが起こるんだ?  それはこれが夢だからだよ。  だけどぼくは息ができない。どうやって声を出したらいいかわからなくなって、鼻とノドに水がいっぱいにつまって、たぶん死んでしまう――そう思った時だった。  目の前に、ぼうっと銀色に光るものがある。それは別に強い光じゃなかったけど、ぼくの目をひきつけた。それは静かに、水の中でただ光っている。

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