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 毎朝、出勤前に駅前のコンビニでコーヒーを買って、店前でそれを飲む。その日の気分によって、パンも一緒に買ったりするけれど、毎朝そこでコーヒーを飲むのが俺の日課だ。週に五日、毎日、毎日、コンビニの前でコーヒーを飲みながら、どうやって仕事を休もうか、言い訳を考える。悩むふりをしながら、コーヒーを飲み終わると、今日もいつものように仕事へ向かう。  今日は水曜日。振り返れば、昨日も一昨日も仕事だった。先に目を向けても、明日も明後日も仕事。  駅の改札を通ると、階段が二つ現れる。右の階段を登れば、勤め先の工場に向かう電車があと二分でホームに来るだろう。左の階段を登れば、海の方へ向かう電車が来る。いつ来るかは知らない。  時間どうりにやってきたいつもの電車に、俺は乗り込んだ。いつもの車両の、いつもの吊り輪を掴む。周りを見渡さずとも、いつもの顔がいつもの場所にあることが分かる。  電車を降りて、駅から少し歩けば、左右に田んぼが広がる。この田んぼ道を十五分も歩けば、職場に着く。いつもの道。  本当は駅前で十分待てば、バスが来るのだけれど、歩いた方が早く着くので、毎朝そうしている。以前は、危ないからやめろと言われたりもしたが、最近はそんなことを言う人間もいない。  右側を見ると、田んぼを挟んで向こう側、田んぼと田んぼの間にある畔道を、女子高生らしき子が、駅の方へ歩いていた。かなり離れていて、表情まではわからないが、凛とした姿勢で、綺麗な黒髪を風になびかせている。  時間は八時半過ぎ。近くに学校はないから、どう頑張っても遅刻のはずだ。それなのに、彼女は急ぐそぶりもなく歩いている。しかも、あんな細道を一人で。  大丈夫だろうかと考えてから、俺の周りにも全く人がいないことに気がついた。普段なら、田んぼで作業をしている農家の人や、近所の人が数人で散歩をしていたり、そうでなくとも通勤の車が行き交っている道だ。でも、今日は誰もいない。  いつもと違う。  心の不安が現実になったように、急に日が陰った。さっきまであんなに晴れていた空が雲に覆われた。寒くもないのに、鳥肌がたつ。下から上へ。喉に何かが詰まったように、息がしづらい。思わず俺は立ちすくんだ。  突如現れた雲から、緑の光が筒状に降りて、田んぼの向こう側を包んだ。  そう思ったのも束の間、目を凝らすと、緑色の光は消えていた。そして、女子高生もいない。  雲は流れ、再び柔らかな日差しが周囲を照らす。気持ちの良い朝に戻っていた。  世界のあちこちで、人が消えるようになって、三年。俺の周りでこれまで消えた人間はいなかった。県内でも消えた人間なんて十人もいないはずだ。  三年前の二月、空から降る緑色の光が目撃され、同時に人が消えた。当初は世界中がパニックになり、情報が錯綜した。  三ヶ月経つ頃には、犠牲者の数は世界で一万人を超えた。七十八億分の一万。計算すると、約0.000143%の確率で、自分か、もしくは周囲の人間を失う。ぴんとはこなかったけれど、当時は俺も怖かった。  原因不明の異常事態は、仕事が一ヶ月も休みになるほどに、社会に混乱をまねいた。  やがて、情報は公的に整理され、被害にあった人の共通点が導き出された。屋外で、半径百メートル程度の範囲に他人がおらず、一人でいたこと。上空に雲があったこと。その二つだけだった。あとは運次第。  初めこそ、みんな外出を恐れたが、一人で外を歩かないことと、なるべく乗り物を利用することで、被害を免れることが認知された。  予想以上に人々の順応性は早く、一年を待たずして、世界は新しい日常を受け入れた。  これ以上被害が出ないように、メディアでも呼びかけられた。みんなんが家族や友達、近所の人とも声を掛け合った。人が一人にならないようにという、気配りが生まれ、街は以前よりも人が増えたようにすら感じる。  去年、俺は付き合っていた彼女にふられた。その日の夜、人のいない海辺を歩いてみた。数時間経っても何も起こらず、歩き疲れて一人暮らしのアパートへ帰った時には、悲壮も安堵もなく、ただ空っぽになって、ぐっすり眠れた。  あの時、緑の光が現れていたら、どうなっていたのだろうかと今でも考える。消えた人がどうなったのかは、誰にも分からない。  登校時間をずらし、わざわざ道路から離れた畦道を歩いていたあの子にも、何かがあったのだろうか。  初めて見たあの光は美しく、恐怖はなかった。むしろ自分も同じ状況なのに、彼女が選ばれたことに嫉妬した。残りの通勤路を歩いて、無事に職場へ着いた。今日も俺は日常から逃れられない。  持ち場に着いて、昨日の続きに取り掛かる。  明日はあの畦道を歩こうかと考えた。

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