叶わない恋を叶える方法
【第一章】夢(1)

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□□□□□ 走る。 細長い廊下をただ走る。 長いスカートが足にまとわりつくけれど、今はそれどころじゃない。 ようやく図書部屋の前までくると乱れた息を整えながら扉を開ける。 木でできた扉が、ギイといつも以上に大きく鳴いた。 「走ってはいけませんよ」  まだ顔も見ていないのにタロウさんがたしなめる声が届いた。ちょうど受付場所から車椅子で出てきたところだったみたい。あ、見えた。 「いえ、少し急いだ程度です」 「それにしては息が切れていますけどね」  しわだらけの目を細めるタロウさん。胸に当てた手をさりげなく横におろす。  でも、そんなことより――。 「新しい本が入ったって聞いたのですけれど、本当ですか?」  荒い息を抑えながら尋ねると、タロウさんは白髪に満ちた髪をガシガシ掻いた。 「もう耳にされたのですか? さすがハナさん、ですね」 「……本当に? 本当に新しい本が?」 「ええ。先ほど登録が終わりました」  へなへなとその場に座りこんでしまいそうになるのをこらえた。この図書部屋に新しい本が入るのは、あまりにも久しぶりのこと。詳しくは、百三十日ぶりだ。  車椅子をさらさらと操作して、タロウさんは大きな受付場所へ向かった。一枚板で作られた広い机。その真ん中に、一冊の本が置かれている。  皮で作られているのか、重厚な表紙に思わず感嘆のため息が漏れた。  手に取っても? と目だけで尋ねるわたしに、タロウさんは軽くうなずいた。図書部屋には窓がなく、柿色の照明が色を支配している。 「重いですね。これは、朱色の表紙ですね……。なんていう本ですか?」 「ええと」  おでこに載せていた丸メガネをおろし、タロウさんはわたしの手元に顔を近づけた。 「『理論と政治』と書いてありますね」 「理論と政治……」  我慢できずにその場でページをめくる。たくさんの文字が並んでいて、たまに図がちらほらと載っている。タイトルからして難しそうだ。これを読む人はきっと頭がいい人なんだろうな……。 「西側の棚、右上あたりに置いてください」 「わかりました」  言われるが否や、本を胸に抱え棚を目指す。 「走らないでください」  声が追いかけてくるけれど聞こえなかったことにしよう。  図書部屋と呼ぶには隙間だらけの棚。言われたとおり、右上あたりに背伸びして本を置いた。  少し離れて眺める。重厚感のある表紙が美しく、新入りながら存在感がある。こうして少しずつでも本が増えていけばいい。  宝物がまたひとつ増えた気分。うれしくて緩む頬を押さえると、緩く曲線を描く髪をうしろでひとつに結んだ。  受付場所に戻り、タロウさんから引き継ぎを受ける。この時間から閉館まではわたしが担当をしているのだ。  今日の客数は無し。返却も無し。そもそも借りられていないのであるわけがない。引継ぎはいつも一分もかからないで終わってしまう。 「もっとたくさんの人がここに来てくれるといいのに」  ついくだけた口調になってしまった。慌てて口に片手を当てるけれど、タロウさんは気にした様子もなく「ですね」と同意してくれた。 「またいつか、本が読まれる日は来ますよ。だからこそ政府もここを閉館にはしないのですから」 「戦争なんて早く終わればいいのに」  さらにぽろっと漏れた言葉に、タロウさんは人差し指を口に当てた。  いけない。タロウさんと一緒だとつい気が緩んでしまう。  クスクス笑いながらタロウさんは茶色の革袋を膝に乗せた。 「ハナさんは本当に本が好きなんですね」 「はい。大好きです」 「本が好きと言えば、例の彼、今日はみえていませんね」  何気ないタロウさんの言葉に、一瞬だけ反応が遅れた。 「きっと、お忙しいのでしょうね」  自分に納得させるように言ったタロウさん。動き出す車椅子に先回りして、扉を開けた。 「また明日」 「また明日」  扉が閉まると本当にひとりになってしまう。木製の椅子に腰をおろし、背筋を伸ばした。  それから、布巾でいくつかある机と椅子を拭いていく。  壁際の机は特に念入りに拭く。いつもこの席に座る彼が読書に集中できるように。  今日、彼は来るのだろうか?  今日こそ話かけることができるのだろうか?  答えはわからない。  でも、そのことを想像しているときの自分が、わたしは好き。 □□□□

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