REINの場所を説明するのはやっかいだ。 駅から遠いし、大学からも距離がある。住宅街に近いといえばそうだけれど、周りには小さな公園があるだけ。 平地の多い羽島市では珍しく小高い丘の上に、ちょこんとある小さなカフェ、それがREIN。 ログハウスのような建物で、もともとはリフォーム会社だったそうだ。倒産してしばらく放置されていたのを、中村さんが買い取ったと聞いている。 なだらかな坂をのぼっていくと、オレンジの光が宙に浮かんでいるように見える。自転車を押してのぼる坂道、近づけど遠ざかる蛍みたいな光が近づく。 からんころん ドアについた鐘が鳴れば、カウンターのなかにいる中村さんが私を認めてほほ笑む。 「いらっしゃい」 この言葉のために今日という日を生き抜いたと言っても過言ではない。 緩みそうになる頬を意識して抑え、 「こんばんは」 平然と挨拶する私は何者? 店内はカウンターと四人掛けのテーブル席がふたつあり、ひとつはサラリーマン三人衆で埋まっていた。たまに見かける人たちだけど、話はしたことがない。 カウンターの端っこに座ると、そこでようやく中村さんの顔を見た。 ああ……。漏れそうなため息を飲みこむと、じんわりお腹が熱くなった。 「今日から後期がはじまったんだってね」 細身の体にジャストサイズのワイシャツが似合っている。茶がかかった髪は私のそれより絶対に細いだろう。黒いパンツにはしわひとつない。 あまり見ていては怪しまれると、 「そうなんですよ」 うなずいてから見飽きたはずのメニュー表に視線をやった。 「お、佳織だ。お疲れー」 キッチンから顔を出した真理亜を見てホッとしてしまう。 「今日はバイト終わるの早かったんだね」 グラスに入れた水を差し出す真理亜に「うん」とうなずく。 しっかりしないと……。私はただの常連客、バイトの真理亜さんの友達、中村さんとは自然に話をする。 毎度繰り返す設定確認をしてから、アイスティーを注文する。 真理亜がここでバイトをしはじめたのは、彼女が高校二年生のときだそうだ。私がはじめて来たのは、大学一年生の五月一日のこと。 つまり私の片想いは、一年五か月が過ぎたことになる。 「ごちそうさま」 サラリーマンたちが会計を済ませ出ていく。その姿は夜の黒にすぐに見えなくなった。 本当にここは、夜空に浮かぶ宇宙船のようだ。 片づけをする中村さんをちらり。もう一度ちらり。お尻までかっこいい。って、なに考えてるのよ。 歩いたせいで火照った体をアイスティーで冷ましていると、ようやくこの空間に彼がいることが自然になる。久しぶりに飼い主に会えた犬みたい。振るしっぽは見せないように、心のなかで喜んでいる私。 「ねね、明日って必須科目あったっけ?」 真理亜の声に「えっと」とつぶやく。 ……あれ。 少しの間を取りスケジュール帳を取り出した。今、頭が真っ白になったように動けなくなったのだ。 いぶかしげに見てくる真理亜。少しの変化も見逃してくれない。 「明日はないみたい。なんで?」 平静を装い聞き返すと、真理亜は「あのね」と甘い声で答えた。 「今度、オーディションを受けるんだけど、課題の提出ってやつがあってね。録音データを出さなくちゃいけないんだって」 「……そうなんだ」 なんだろう、真理亜の言葉が頭に入ってこない。 「締め切りまでは間があるけど、――出すのが大事じゃない? だから――、――と思って――」 照れた顔で口を動かしている真理亜の声がうまく聞こえない。ぱくぱくとまるで金魚が酸素を吸っているみたい。 動けない自分を遠くから眺めているような感覚。 幽体離脱? 違う、視界には真理亜がちゃんと映っている。あれ……ピントが合わない。 「そう」 うなずいて視線を落とすと、アイスティーがぼやけている。輪郭を薄め、まるであの夢のなかの図書部屋みたいな色に変わっていく。 「ちょっと、――。大丈夫?」 「あ……うん」 「――――の!?」 ぐらりと体が揺れた気がした。 波が強いの? 違う、ここは海の上じゃない。 体から力が抜けていき、あっけなく私は椅子から転げ落ちていた。 ぱたんと最後に横頬が絨毯地の床に落ちた。 絨毯のくたびれた毛先が見える。その向こうで驚いた顔で駆けてくる中村さんの姿。 まるでスローモーションのようで、コマ送りのよう。 視界がどんどん黒く塗りつぶされ、もう中村さんの顔も見えない。 やけに眠い。眠いの。 まぶたを閉じれば、真っ暗な世界が両手を広げて待っていた。
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