叶わない恋を叶える方法
【第二章】恋をする人たち(4)

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 矢井田さんはREINにたまに来る女性客のことだ。 「矢井田さんって、レインの常連の矢井田さんのこと? どうして矢井田さんが倒れる原因になるの?」  本当にわからなかった。二十代後半で色白で顔の小さい女性。いつもひとりでカウンターに座って本を読んでいる。  珈琲チケットを買ったときに名前を登録することになっているのでお店で働く人は知っているが、真理亜を含め誰も彼女と話をしたことはない。『コーヒーを』という短い言葉だけが、耳にする唯一の言葉だったし。  それなのにどうして彼女の名前が出て来るんだろう。 「これはさ、内緒の話なんだけどね」  たいてい、噂話は内緒のまま息絶えることはない。普段はこういう話は苦手だけれど、自分に関することなら話は別。顔を前に出し、聞く姿勢を作った。 「ちょっと前にね、中村さんと矢井田さんがケンカしてたんだって」  そんなことありえない。  中村さんほど温厚な人は見たことがない。いつも笑顔でやさしい声で、珈琲を誰よりも愛している中村さんが口論? ありえないだろう。 「そう思うでしょう。でも、本当なんだって」  やはり感情が表に出やすいのか、なにも言ってないのに真理亜は神妙な顔でうなずいている。 「この話の情報源はイグアナさんなんだ。イグアナさんが嘘つくと思う?」  そう言われると自信が揺らぐ。イグアナさんというのは、真理亜がつけたあだ名で、本名は生稲さんという。大学院生で今どき珍しい三つ編み姿。化粧っけもなく、口数は少ないけれど、発する言葉はいつも曇りのない言葉ばかり。彼女が嘘なんてつくはずがない。 「イグアナさんがバイトの日ね、どうしても早く帰らなくちゃいけない日があったんだって。で、いったん帰ったんだけど、途中で家のカギを忘れたことに気づいて取りに戻ったんだって。そしたらふたりが言い合ってた、って。ま、一方的に怒ってたのは矢井田さんのほうらしいけど」 「なにかミスがあったとかかも」 「ううん。絶対に違うの。だって――」  急ブレーキをかけた車みたいに言葉をつぐむ。さっきまでは噂話を楽しんでいるような雰囲気だったのに苦しそうな表情に変わっている。 「これさ、佳織に言うかどうか迷ったんだけど……」 「いいから言って。ちゃんと知りたいよ」  こんなに悲しい目をしている真理亜ははじめて見た。私の前で号泣したあの日よりも重い空気がまとわりついている。 「矢井田さん……泣いてたんだって」 「泣いて……?」 「泣いている矢井田さんを中村さんが抱きしめてたんだって」  固まる私に、真理亜はまるで自分が怒られているように体を縮こませた。小さい体がもっと小さく見える。 「あの……」  やけに喉が渇いていて、だけど頭のなかは情報の処理ができず真っ白になっている。 「抱きしめるっていってもギュッとじゃなくて、少しだけ軽くって感じだったって」 「あ、うん」 「でもあたし、佳織の気持ち知ってるから心配で。佳織は無意識にふたりの関係に気づいていて、そのショックで倒れたんじゃないかってそう思ったの」 「……それは違うよ。だって、ふたりがそんなこと、してたの、知らな、かったし」  ロボットみたいな言いかたになってしまう自分に、逆に心が落ち着いていくようだった。 「それは違うよ」  もう一度言えば、すんなりの喉に空気が運ばれた。  私の片想いは早々に真理亜にバレているんだし、ふたりでいるときだけは、中村さんへの気持ちを隠さなくてもいい。 「でもさ、それ以外になにがあるの?」 「そう言われると困るけど、きっとなにか理由があったんだよ。だって中村さんには恋人がいるわけだし」  胸がちくんと痛くなる。中村さんに長くつき合っている恋人がいることは周知の事実。そう、事実なんだから。  彼の右手にはシルバーのリングが光っている。キラキラとオレンジの照明に輝き、存在を主張している。誰かを攻撃するように、彼を守るように。 「ひょっとしてさ、これはあたしの推理なんだけど」 「推理?」  単語のチョイスに引っかかるけれど、真理亜があまりにも真剣な顔だったので口を閉じた。 「中村さんの恋人が矢井田さんってことはない? ふたりが隠れてつき合ってるとか」  予想外の推理はあながち間違っていると断言できない。たしかに、中村さんの恋人を私たちは見たことがない。  たまに来店して小説を読んで帰る矢井田さん。恋人じゃないと言い切れるだけの自信がなかった。  でも……。 「たとえそうだとしても、それが倒れる理由じゃないと思うよ」  不安げな顔の真理亜から私は体を離した。 「だって、誰が恋人でも、現実はなにも変わらないから」 「どういう意味。わからないよ」  私だってわからない。「ええと」と白いテーブルに視線を置き、本棚に小説を戻すように整理する。 「矢井田さんとつき合っていたとしても、そうじゃなかったとしても同じ。中村さんに恋人がいるって事実は変わらないんだよ」  どんなに私がREINに行こうが、楽しく話して笑い転げようが、中村さんはほかの誰かを想っている。 「でも……つらくない?」  心配そうな顔をしている真理亜に少し笑ってみせる。 「つらくないよ。最初からわかってたことだから」  そう、はじめからわかっていたこと。  ――私の恋は絶対にかなわないって。

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