叶わない恋を叶える方法
【第二章】恋をする人たち(1)

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 毎日の生活の中で心底がっかりすることは少ない。  悲しい出来事が起きたとしても、なにかしらの希望が事由の端っこにぶらさがっているものだと信じていた。  子供の頃、テストの点が悪く母親に怒られているときも、漂うシチューの香りに小言は甘く和らいで耳に届いた。隣のみいちゃんが引っ越しをするときの涙は、お別れの品でもらったペンダントがキラキラと癒してくれた。  ほかにも、悲劇的な結末を迎えた映画に放心したあとの友達との夕食。好きなバンドの解散宣言とベストアルバム発売。  絶望にかろうじて残る希望のおかげで、なんとか目線をあげられる。そういうものだと思っていた。  けれど、診察室に入り丸椅子に座る医師を見たとたん、希望は幻と知り、文字どおり肩を落としてしまった。  理由は明確。  はじめて来た病院のはずなのに、目の前に座る医師を知っていたから。  楽器でも弾くようにキーボードを打つ医師が看護師から渡されたカルテを見て、「あれ」とつぶやいた。パソコン画面をもう一度見てから、カルテ。そして、いよいよこっちを向く。 「ああ、あなたでしたか」  なんでもないような口調。私のことを『あなた』、と呼ぶ人はこの人くらいだ。 「どうも……」  バッグから伸びた紐を両手で握りしめ、向かい側の丸椅子に腰をおろす。薄暗い部屋は、患者の気持ちを落ち着かせるためにだろう。  できれば「間違えました」と逃げ出したい気持ちになる。 「お知り合いなんですか?」  丸々した体型の看護師さんの問いに、「ええ」平坦な声で答える彼。 「わたしが帰りに寄るカフェの店員さんの友達です」  この病院の個人情報はどうなっているのか。看護師さんはややこしい関係性に眉をひそめてから、ふうんと首をかしげ奥へと消えた。 「佳織さんという名前しか知りませんでした。木下という苗字なんですね」  いつも『あなた』と呼ばれていたので、名前を知ってたことに驚いてしまう。  よれよれの白衣の右胸に『下条』と書かれたプラスチック製の名札が斜めについている白衣の下はぴっちりとしたスーツを着ていてなんだかアンバランスに見えた。  そういえばREINでもいつもかっちりしたスーツ姿だったっけ。 「下条さんはお医者さんだったんですね」 「小さな町医者の二代目です」  内科と精神内科を診察するこの病院へ来たのははじめてのこと。  古い平屋建てで剥げた看板が目立つこの病院は、いつ前をとおっても人の気配がなかった。  建物を侵食するように壁ぞいに生えている緑のカーテンも苦手だったし、風邪を引いたときは大学近くの病院を受診していた。 「ええと」  ガサガサと白い封筒から紙を取り出した下条さんが、紹介状を一読した。  今時コントでもつけないような丸メガネをつけていて、髪は寝起きかと思うくらいボサボサ。きっと若いのだろうけど、どこかおじいちゃんの雰囲気がする。  首を境にして上下でこうも印象が違う人は珍しい。  お店で会うと、たまに話はする。しない日もある。  そんな間柄だったので、まさか彼が医者だとは思わなかった。 「なるほど。貧血で倒れた、と」 「はい」 「で、倒れると必ず夢を見る、と」 「はい」 「で、精神内科を紹介されたわけですかぁ」  バカにされているのかと思ってしまいそうなほどのけだるい口調。この病院が流行っていない原因のひとつは、この話しかただろう。 「お店で倒れたんです。そのまま大学病院に搬送されました。すぐ目が覚めたんですけど、精密検査をした結果、この病院を紹介されました」 「そう」  朗読でもするように両手で紹介状を目の高さで持つ下条さんが、その目をこっちへ向けた。  どんぐりみたいな目だと思った。形がじゃなくて、色と固さが。 「あなたの症状の原因は、精神的なものってこと?」 「私に聞かれてもわかりません。ここに来るように言われただけなので」 「なるほど」  REINでの下条さんもこんな会話ばかり。温度がないというか、抑揚がないというか。自分の興味のある話題だけつまみ食いするみたいに話に参加してきて、それ以外の話では電源の切れたロボットみたいに動かない。  改めて顔を確認し、三十五歳くらいと推測した。いや、案外もう少し若いのかもしれない。 「どんな夢を見るんですか?」 「言いたくないんです。おかしいから」 「なるほど」  牡蠣の殻のように少し歪んだ口元。無精ひげがぴょんぴょんと顔を出している。 「じゃあ、様子を見ますかね?」  だから、私に聞かれても困る。なにも答えない私に下条さんはカタカタキーボードを打つ。 【夢 不明 様子観察】  このままではここに来た意味がなくなってしまう。 「私、貧血なのでしょうか?」  身を乗り出すと、下条さんはキーボードに細い手を置いたまま横目で見てきた。 「そういう可能性もありますね。薬は病院でもらってるみたいですね」  まるでここが病院ではないような言いかたをしている。 「眠れないのなら睡眠導入剤は渡せますが」 「それは大丈夫です」 「そう」  カタカタと軽い音が続く。「あの」と私は背筋を伸ばした。 「ここに来たことは内緒にしてほしいんですが」 「大丈夫ですよ」  これほどたよりない『大丈夫』を聞いたのも、はじめてのことだった。

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