□□□□ 急激な覚醒に思わず体がビクンと跳ねた。 背筋を伸ばせば肩のあたりが痛かった。気がつかない間にうたたねをしていたみたい。 タロウさんがいなくてよかった……。 まだ醒めない思考にまぶしいのは柿色の照明。どちらかといえばみかん色に近いかも。 壁時計を見るとタロウさんが帰ってからまだ一時間も経っていない。 「だめね……」 つぶやき体から息を吐いた。わたしなんかでももらえた仕事なのに、居眠りなんかしてちゃダメ。ふうと息を吐いて反省、反省。 ギイ 重い扉の開く音に、無意識に背筋が伸びた。革靴が鳴らす重い足音。 ……彼だ。 彼はわたしのほうを見ようともせずに、いつもの机に向かって歩く。マントのような汚れた布を肩のあたりに巻き、鈍い茶色のヅボンを穿いている。大きな歩幅に、ヅボン右足の破れている部分がちらちら見えた。 少し年上だろうか。背が高く、肩幅が広い。長い黒髪はいつも濡れているみたいに光っている。壁際の椅子に荷物を置くと、彼は息もつかず本棚へ足を進ませる。 こんなセピア色の世界でも、彼だけは色づいて見えるのが不思議だった。 閉館時間までここで本を読んで、そして帰って行く。一日のなかで誰よりも長く同じ空間に滞在している私たち。 なのに、名前も知らない。声も聞いたことがないなんて。 隣の部屋に住むいとこは『それが恋よ』と自慢げな顔で教えてくれた。そうかな、と疑問に思う。 誰だって、知り合いになれば名前を知りたいと思うものでしょう? 不満げなわたしに、今度結婚をする彼女は、『それが恋なの』と繰り返した。 経験のないわたしにはよくわからない。だったら声をかけてみるのはどうなのかしら。 きっとお互いの名前を知れば、なにかが変わるはず。 一度浮かんだ考えは、どんどん大きく成長しているみたい。 「……よし」 決心を胸にさっきの棚へ向かう。しまうのと違い、重い本は取り出すのに手間取った。 ――彼に話しかけてみよう。 本棚の間をゆっくりと歩くと、彼はいつもの本を手にしたところだった。こっちに気づかず背を向けてぱらぱらと頁をめくっている。 広い背中に声をかけるのに、これまでの人生でいちばん勇気がいった。 「あの、すみません」 小さすぎる声も、狭い図書部屋では大きく響く。彼はゆっくりと顔だけわたしに向けた。 冷たい目だ、と思った。氷というより、濁った冷水のような深くて黒い瞳。 「この本、今日新しく入ったんです。『政治と理論』、いえ……『理論と政治』だったと思います」 早口になってしまう。持った本を両手で差し出すが、反応がない。 不思議に思い顔をあげると、彼はさっきと同じポーズでわたしを見ていた。 「あの……」 わたしの声に彼は僅かに息を吐いた。 そして、言った。 「余計なことはするな」と。 低く、鋭い声は、いとも簡単にわたしを傷つけた。 □□□□□
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