傘をたたく雨に身をすぼめながらREINにたどり着く。 雨は激しさを増し、地面で踊っている。時間はもう七時過ぎ。 今日は真理亜は声優のバイトがあるらしく、終わり次第REINで勤務するそうだ。岐阜駅前のスタジオらしいからそろそろかな。振り返ると、一台の車が坂道をのぼって来るのが見えた。 雨のカーテンの向こう、ふたつのヘッドランプがゆらゆらと亡霊みたいに近づいてくる。 店のずいぶん前で停車した車の助手席からおりてきたのは、真理亜だった。車内灯がつき運転席の男性が真理亜に向かってなにか言っている。茶髪の若い男性で、どことなくあか抜けている印象。なにか返事をした真理亜が傘を差し丁寧にお辞儀をした。 Uターンをして去っていく車を見送ることなく真理亜がこっちに歩き出す。 「こんばんは」 声をかけると、 「うわ!」 真理亜は地声で悲鳴をあげた。 私がいること全然気づいてなかったみたい。 両手でギュッと傘を握りしめた真理亜が、 「な……なに、してんの? いつから見てたの?」 詰問するように尋ねてきた。 「今、到着したところ。ちょうど真理亜が来るのが見えたから……って、どうしたの?」 「あ……。ううん、ちょっと驚いちゃって」 動揺を抑えられない真理亜。車はもう、雨の向こうに消えていた。 私の視線に気づいたのだろう、「あ」と真理亜が叫んで駆け寄る。 「勘違いしないでよ。あの人、ただの声優仲間だから。雨がひどいから送ってくれただけなんだからね!」 「それなのに、あんなに離れた場所でおろされたの?」 さっき車が停まっていた場所を指さす手をむんずと掴まれた。 「ちが! あたしがあそこでいい、ってお願いしたの!」 「ふふ。そうだと思った」 笑いが抑えきれずに噴き出す私に、 「こうやって勘違いされたくないから気を遣ったのに。言ったでしょ、あたしは恋愛とかはしたくないんだって」 ぶすっと頬を膨らます真理亜がかわいらしい。 「ごめんごめん。雨に濡れちゃうからなかに入ろう」 「佳織ってさ、たまに意地悪なんだよね」 ぶつぶつ文句を言う真理亜が傘をたたむのを待ちながらドアに近づく。駐車場には赤い車が停まっていて、すでにお客さんがいる様子。 横の窓から店内を見たことに意味はなかったと思う。 「あれ?」 「どうかした?」 真理亜がひょいと私のうしろから店内をのぞきこみ「あれ?」同じように首をかしげた。 カウンターに中村さんの姿が見当たらない。 そのまま入ればいいのに、私たちは数秒見つめ合った。 もうひとつ左にある大きな窓に顔だけ近づけると、奥側にある四人掛けのテーブルに背を向けて座っている中村さんが見えた。 向かい側に誰か座っている。肩までの茶がかかった髪に薄い化粧。 「…矢井田さん?」 私の声に真理亜が「嘘!?」よくとおる声で叫んだので腕を引っ張った。 「しっ! 聞こえちゃう」 「ごめんごめん。でも、なにやってんだろう」 もう一度覗くけれど、ふたりがこっちに気づいた様子はない。やはり、中村さんの向こう側に座っているのは矢井田さんに間違いない。 「面接とかかな?」 そんなわけがないと思いながらも尋ねていた。 「あたしに聞いたって知らないって」 同じように窓辺に寄ろうとする真理亜に場所を譲った。ふたりで立つとどちらかが雨の直撃を受けてしまうのだ。 「やっぱりあの噂、本当だったのかもよ」 「あ、うん」 ふたりが向かい合っている時点で私も同じことを思っていた。前に町で見かけた日からわかっていたことだし、証拠が上塗りされたような気分。意外とショックは少なかった。 ぶつかると覚悟した正面衝突。爆発するとわかっていた時限爆弾。そんな感じかな……。 あとでジワジワ時間差で痛みが生まれることもわかっている。 観察を続ける真理亜から、雨へと視線を移した。今日はこのまま帰ろうかな……。 『ホリデイ』の感想を伝えたかったけれど、そういうテンションではなくなっている。あ、やっぱり傷ついてるんだ。 ぼんやりと鈍い痛みを確認していると、 「やばい」 つぶやく真理亜が私の手をつかんで強引にしゃがませた。まるでスパイ映画みたい。 「ね、矢井田さん……泣いてない?」 声を潜める真理亜。そっと顔を出すけれど、矢井田さんはうつむいているだけ。 ここからじゃうまく表情まで読み取れない。 「よく見えないよ」 見たくないものが見えなくなる力があればいいのに。 「ケンカしてるのかもよ。ほら、イグアナさんが言い争ってるの見たって言ってたじゃない?」 真理亜がひそひそと話をしてくる。 これ以上考えないように気持ちにガードをかける。剥がれる。また、かける。 壁にもたれ私は雨を見る。さっきよりも強く悲しく音を立てているみたい。 看板に視線を移せば、REINの文字が雨に打ちひしがれているように思える。感情は景色をいつもその色に変えてしまうんだ。 「雨、ひどいね」 つぶやいてみる。 「今日は帰る?」 と聞いてきたので首を振った。 「大丈夫」 「ならいいけど、心配だよ」 「大丈夫」 もう一度言った。そう、大丈夫。 最初からあきらめていた恋なんだし、むしろ事実を重ねることで、この気持ちも雨のように流れてしまうかもしれない。 「まさしくレインだね。この店の名前にピッタリ」 話題を変えようと雨のカーテンを指さした。すると真理亜が「ふ」と笑い声を漏らした。横を見るとこらえきれないように唇をギュッと噛んでいた。 「なにかおかしなこと言った?」 「ぶは!」ついにこらえきれずに噴き出す真理亜。 「……ああ、どうしよう。言っていいのかな。みんなと約束してるから……困った」 唇を尖らせている横顔にこっちが混乱してしまう。 やがて「わかったよ」観念したように真理亜は両手を挙げた。 「あたしが言ったってこと内緒だよ」前置きをしたあと、真理亜が看板を指さす。 「佳織は店名を勘違いしてるんだよ」 「え? どういうこと?」 「常連さんはみんな知ってること。おもしろいから、みんなで訂正しないでおこうってことになってるの」 上目遣いの真理亜に疑問が大きくなる。 「だって、レインでしょう?」 「違うの。この店の名前、正しくはリイン。雨のレインじゃないんだよ」 「リイン?」 看板の文字にはREINの四文字が。そういえば、この間も真理亜に質問したっけ。あのときはうまくはぐらされた気がしないでもない。 「リインってどういう意味なの?」 「略語なんだって。正しくは、リインカネーション」 REINCARNATIONの英単語がすぐに浮かぶ。頭の四文字を使っているってことなんだ。 たしか意味は……。 「輪廻転生?」 「そそ」と真理亜は言うけれど、そもそも輪廻転生ってどういう意味だったっけ。生まれ変わるとか、そういうこと? 「壮大すぎるテーマだったんだね」 感心する私に真理亜はケタケタ笑った。さっきまでのブルーな感情はどこかへ行ったみたい。今さらながら、下条さんが『リイン』と言っていたことまで思い出している。 「別に、内緒にしなくったっていいのに」 「そうなんだけどね、なんかおもしろくってさ。ごめんごめん」 ちっとも悪いと思ってないような口調で真理亜は謝っている。 「リインカネーション」 声に出してみる。 この店は宇宙船のように雨のなかで浮かんでいる。この店を訪れた人が生まれ変わる、そういう意味なのかな……。 バタバタと雨の音が大きくなって顔をあげると、傘を手にした健太がこっちに歩いてきた。 私たちに気づくと同時に、 「きゃあ!」 出してはいけない悲鳴を出した。 もちろん隣の真理亜はあんぐりと口を開けている。 「うわ、なにその悲鳴」 わざとらしくからかう私に、健太は無表情に傘をたたんだ。 「冗談で言ったんだよ」 「びっくりしたぁ。やめてよね、マジでびびったんだから」 真理亜は文句を言っている。健太は冷めた目を私たちに贈ると、入口のドアを開けた。真理亜と視線を交わし、私たちも店内へ。 「いらっしゃい」 もう中村さんはカウンターのなかにいて、矢井田さんはいつもの定位置であるカウンターのはしっこに座って読書をしていた。 いつもなら普通の光景も、違和感があった。 それを観ないフリで「こんばんは」と私も挨拶をした。 笑みまで浮かべて。
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