掌小説
サイレント・夕餉ナイト

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 晩ごはんの支度しなくちゃ。メインはしょうが焼き、キャベツの千切り、副菜にきゅうりと梅を和えたもの、具沢山のお味噌汁、ビールと食後のりんごも用意しなくちゃ。  語尾に「銀座」と名前の付いた、長い商店街。それを抜けてスーパーに行く。一箇所で全ての食材が揃うし、私はアンチ・コミュニケーション。商店街の人と、なるべく関わりたくない。  一年前まで、毎日お化粧して、ジャケットを着て電車に乗っていたのが嘘みたい。虚ろな瞳で買い物をして、夕食の支度の手際のことだけを考えるの。  スーパーから、買い物袋を腕にかけて出ていく。  夕暮れの商店街。五月の涼しさ。思わず公園に座ってゆっくりしたくなる。だけど公園は子どもでいっぱいだし、座ったら立ち上がれなくなりそう。晩ごはんの支度も、遅れてしまうし。  イメージ。暗くなった静かな公園で、私だけがいつまでも目を見開いたままベンチに座っている。手とお尻が、ベンチに張り付いてしまって。  早く帰らなきゃ。そう思って走り出した。買い物袋が揺れる。  道路を走るのが好きだった。移動の時間を短縮できるし、「人生を走っている」という感覚になれる。  いつでも生き急いでいたい。  スピード感を持って生きたいの。だから、もっと早く。走り続けたい。  急いで帰って、急いで料理をするよ。  マンションの五メートル手前まで来て、走るのを止めて歩き始めた。片手でポケットに入れた鍵を探る。鍵を鍵穴に。鍵と鍵穴の関係。  部屋の内部の静けさ。異様に片付いた室内。今日は午前中に、掃除機をかけて整理整頓をしたんだ。買い物袋を冷蔵庫の前に置く。レースを透かして室内に届く西日。私の仕事の始まり。静けさを助長するように、冷蔵庫の音だけが聞こえる。流行りのパティシエのお菓子の本。ジューサーとフードプロセッサーとホームベーカリー。  実家を思い出した。高校二年生になるまでは、祖父が鉄工所を経営していた。旋盤にボール盤、ステンレスと鉄。祖父の側近として働いていた溶接工の片山さん。  鉄粉で黒くなった手の甲が、私の足に触れたこと。背の高い横型タンクの影だった。五時を過ぎると、工場で作業する人は誰もいなくなっていた。錆びた折半屋根付近の採光窓から差す、オレンジの光。  すこしも嫌じゃなかったよ。だから、足に触られただけで濡れていた。濡れた自覚さえ持てないほど無知だったけど、後々それが判明すると、片山さんはそっと笑った。 「今だけだから」 「痛いのは、今だけだよ」  そう言って片山さんは私を揺すった。  あの頃に比べて、今はなんて。  死にたいのかしら。

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