圧倒的一人称
圧倒的一人称私
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 いいなぁ葉叶子はとこちゃんは可愛いしおしゃれだし個性的だしホントにすごいよねめっちゃ憧れる。  私に会う度にそんなふうな激烈な賛辞をぶつけてくる友人が何人かいる。その言葉たちはざらざらと角ばっていて私の鼻腔と喉の間あたりで粘膜を削りながら縦横無尽に暴れるのでついうっかりゲロ吐きそうになる。でも吐かない。だって私が可愛いことに変わりはないのだから。アイドルがうんこしないのと一緒。コホンとキュートな咳払いでえずくのを誤魔化す。  そのコホンの吐息に小さな黒い何かが混じっていることに気づいた。それは埃のように見えた。大きさは金平糖くらい。重力なんてどうでもいいと言わんばかりに浮かんでいて、ひだと呼ぶには細く毛と呼ぶには太い触手のようなもの(もう以後、触手ということにする)が無数に生えていてブランブランと動いている。え、キモッ。キモいけど身体に障らないなら別にいっかと思う。念のためにスマートフォンで『黒いふわふわ 吐く』『口から 黒いモヤ』と検索すると、黒色嘔吐の記事がずらずら表示された。んーなんか違うんだよなぁ、と口を尖らせながら画面をスライドしていくとメディカルなサイトが並ぶ中に『超幻想精神怪異辞典』というウルトラ胡散臭い文字列を見つけた。絶対にマトモじゃないと思いながらも『超幻想精神怪異辞典』をタップする。 『体内から放出される黒い靄!? 怪異名:やさしさ妖精さん』 「センスの欠片もないネーミングですね」私はげんなりしながらも、やさしさ妖精さんの説明を読み上げていく。「やさしさ妖精さんは主に体内から、かっこ、主に口、かっこ閉じ、放出される。無自我下の他者への配慮や憐憫を消化不良のまま放置すると毒性を持つようになるため、実体化させて体外へ放出されたもの。タルパの一種。へぇ。タルパ? 初めて聞く言葉です。井上いのうえさん、タルパって知ってます?」 「いや知らね。なんかの略? チキン南蛮のパーティとか」 「タルタルソースといえばチキン南蛮というのは凝り固まった思考ですね。ほらエビフライもあるじゃないですか。ちなみに私はおでんにもタルタルソースをかけて食べますよ」 「うげ」井上は顔をぐしゃっと歪めた。雅じゃない表情。私だったら人前じゃできない。「気持ち悪ッ。おでんにタルタルソースなんて絶対に合わないって」 「大根とか卵には合うんですよ。こんにゃくには絶望的にマッチしないですけれど」 「俺、無理だわ。超まずそう」  この井上という女性は最近つるんでいる友人だ。馬鹿みたいに手放しに私を褒めてこないところには好感が持てるが、別に性格が合うってわけじゃない。ああ言えばこう言うもんだから口論になることも多いし。例えば彼女は女性なのに一人称が『俺』であり(私はそんなもの取るに足らない個性のひとつでしかないと思うのだけれど)、その「女性なのに」という偏った考え方に辟易しているらしい。だけど今みたいに、おでんなのにタルタルソースはかけないっしょ、などと無意識に無自覚に言ってくる。ほんっとうに一貫性がなくって整合性がとれていない。で、指摘して口論になって、っていつもそんな感じ。私の言葉が彼女のハートをでかく震わすことはどうやらよっぽどないようで、徒労ってのも無駄だしなぁってことで、湧き上がる反論は腹の中でうまいこと気化させてため息として吐き出す。  ぽふっ、と音がしたわけじゃないが、そんな音がしそうな動作で私の口から黒い靄が出てきて空中をゆらりゆらりと浮かんだ。わ、また出た。やさしさ妖精さん。タルパ。 「雪希ゆきちゃん」と井上に呼びかける。「ね、これ見えますか? この変な黒いもや」 「は? なんも見えないけど」  うそ。私以外には見えていないんだ。  黒い靄は漂流するかのようにどこかに飛んでいく。私は気になった。この靄はどこへ行き、最後にはどうなるのだろう。消失するのか、密やかに道端にでも転がるのか。もしかしたらこれを集めている業者がいるのかも。私は井上に手を振って、靄を追いかけることにした。十分くらい経ったろうか。靄は律儀に歩道を通り、薬局を越えケーキ屋を越え二十四時間営業のジムを越え私の行きつけの居酒屋を越えコンビニを越え、地下鉄の駅構内に入っていった。改札にICカードを当てる私をよそ目に靄はずんずんとホームへ進んでいく。無賃乗車だ。なんて不埒な。  靄は他の乗客の合間を縫って地下鉄に乗りこんだ。私も慌てて後に続く。やっぱりあの靄、私以外の人からは見えていないみたい。 「あ!」  ぼんやり靄を眺めていると、地下鉄の車内だってのに誰かが大声を上げた。かと思えば、「葉叶子ちゃん!」と私の名前が続くのでうんざりした。振り返ると、例の『私に会う度にそんなふうな激烈な賛辞をぶつけてくる友人』のうちがひとり、あんず(名前は別に覚えなくていいです)の顔がそこにあった。私は怒号を喉元で食い止めて、無理くり超絶可憐なスマイルを作った。 「あら杏ちゃん、偶然ですね」  周囲の視線がチクチクうざい。大股広げて座っているチャラめの男まで軽蔑するような視線を向けてきている。はぁ? 品性のない男がそんな目向けてくんじゃねえよ。ま、直接は怖くて言えないけど。はぁ。ぽぅ、とまた口から靄が出た。 「葉叶子ちゃん今日もおしゃれだねー!」とでかい声で杏は言う。 「ありがとうございます!」と私は言う。  ゴミみたいな会話だ。何の意義もない。私が通っている大学は文系でアニメや漫画などのカルチャーの学習及び研究に力を入れている。だから男女ともに冴えない陰キャのオタクたちが集まっている。大半の人間は部屋着みたいな毛玉だらけのパーカーやヨレヨレでダサい色合いのチェックシャツやグレーと白のボーダー模様の服を着ているし、小学生かよって感じの運動靴を履いている。それがこの大学のマジョリティ。信じられないよね。だってさ私たちもう成人してるんだよ? よくもまあそんな格好で地下鉄に乗れたもんだと思う。私はパルコで流行の衣服を買う。商店街の古着屋に入ってかわいい服を探す。マトモに街を闊歩できるよう武装するために。  私のありがとうという言葉の価値も地に落ちたものだ。でも賛辞には杜撰にでもちゃんとお礼を言う方が、他人と良好な関係を保つのに効率が良い。一時の感情に身を任せて癇癪を起こしたところで社会で生きづらくなるだけだ。あー無駄無駄。些細な苛立ちや不満なんて全部ため息にしちゃえばそれでいいんだ。はぁ。ぽっ、とまた靄が現れた。私から排出されたやさしさ妖精さんたちはぽわぽわと電車内を漂っている。そのうちの二匹(単位は匹でいいのかな?)が、ふいにぶつかった。かと思えば、なんと合体した! 片方が片方を捕食するような格好ではなく、一瞬のうちに二匹の靄が合わさりひとつになった。サイズも二匹分になっている。えっ合体するのかよ、と驚愕している私をよそに、杏はべらべらと何かを喋っている。 「いいなぁ私も葉叶子ちゃんみたいにおしゃれになりたい」  とある駅に停まった時、靄たちが一斉に動きを変えて、ホームへと出ていった。私は杏に手を振り後を追う。杏の話す言葉の一つひとつが私には理解ができない。私みたいにおしゃれになるってなに? 誰かみたいになることがおしゃれなの? うーん分からない。だいたい私は特別なことはしていない。先述のとおりそれなりに流行りを学んだり、ときどき商店街の古着屋に足を運んだりするくらいだ。古着屋には毎回、私のほかに十人ほど客がいる。じゃあこの十人は全員おしゃれなのだろうか。で、トロピカルな髪色のこの古着屋の店主もやはりおしゃれなのだろうか。  井上(タルタルソースおでんを小馬鹿にした女)はたまに「意味合いが曖昧な言葉が嫌い」と言う。友達とか仲間とかがそれにあたるらしい。その気持ちは分かるような気がした。私もおしゃれって言葉が嫌いかも。だって使う人によって尺度が違いすぎるんだもん。  ごめんね杏。私はおしゃれじゃないんだよ。囚人みてぇなグレーと白のボーダー模様の服じゃ外に出られなかっただけ。マスカラつけないのは歯磨きしてないのと一緒だし、ほら歯磨きってすごくしんどいじゃない? でも今日会う人たちに息が臭いと思われる方がもっとしんどいから私は歯磨きをするしマスカラもつける。それだけのことなんだよ。  ごめんね杏。私は個性的じゃないんだよ。私はダサい格好の人たちがひしめく大学で偶然浮いているだけ。朱に交われなかったただのブルーなの。青より出でた藍色じゃないの。隣の芝生に移動したら私なんて他の青色と大差ないし、もしかしたらくすんだ水色でしかないのかもしれないよ。今いるショボい環境で目立っているだけで祀り上げられるのってさ、なんていうのかな、すんごく馬鹿にされてる気がするの。  靄はぐんぐん先に進む。私もぐんぐん後に続いた。やがて公園に辿り着いた。ブランコと滑り台といくつかのベンチだけある平凡な公園に足を踏み入れて、私はただでさえ大きくて可憐な目をさらに見開いた。え、何これ。巨大な、それはもう巨大なあの靄がそこでゆったりと揺れていた。公園をほとんど覆いつくし、高さは付近の電柱を優に超えている。これも妖精さん? 嘘だよだってこんなの化け物じゃん。私が発した靄たちは、その化け物に吸い寄せられていった。ぶつかると先ほど電車で見たのと同じように合体し、ひとつになった。  私は恐る恐る化け物に触れてみることにした。見た目はキモい。さっきまで見ていた小型の靄は、あの有名な映画(ある姉妹と父親が、母親の病院近くに引っ越し、クスノキに住む森の主と出会う物語を描いたアニメ映画)に出てきたススワタリみたいで少しは印象がよかったのに。今、目の前にいる化け物は、触手の一つひとつが人ひとり分くらい長いしうねうねうねうね動いているし、マジ超キモい。やばい。でも私の体内から出たものなんだよなぁ、と複雑な感情もあった。とりあえず指先で触手に触れてみる。ちょん。触手が反応して大きく揺れて私は総毛立った。ちなみに感触はぷにっとした。例えるなら水風船みたいな感じ。それがまたキモかった。  私は数秒の間固まった。理由はもちろん恐怖と困惑だ。絶対にすぐこの場から離れた方がいいよなぁ、などと考えながら一歩二歩後ずさる。すると先ほど触れた触手が私の動きに合わせてこちらに伸びてきたので叫びそうになった。ダメだ逃げよう。私は颯爽と化け物に背を向けて走りだす。駅まで振り返ることなく走った。荒れた呼吸に混じって靄がいくつかこぼれた。改札で手が震えて全然ICカードを取り出せなくて慌てた。慌てるとさすがに背後が気になっちゃってちらっと振り返る。ぷにっと鼻に感触があった。目の前が真っ暗になった。比喩ではない。真っ黒の巨大な靄が目と鼻の先にいたのだ。脚ががっくんがっくん震えだす。私は必死に悲鳴を抑えた。だって周りには他の人がいる。急に悲鳴を上げたら変な目で見られるだろうし、ほらそこのベンチに座ってるおじいちゃんなんてびっくりして心臓止まっちゃうんじゃない。だから声を抑えたら噤んだその口をこじ開けるように靄が放出されて、また巨大な靄と合体した。  ICカードをタッチして駅構内に入る。振り返る。巨大な靄は改札を飛び越えてついてきた。階段を降りる。振り返る。ついてきている。地下鉄に乗り込む。さすがにあの大きさじゃ入れないだろうと思った。思ったのに、触手は人と人との間をするするとくぐり、本体と思われる部分は水分のように自由自在に形を変えて、車内を埋め尽くした。私は他の乗客とぷにぷにに押し潰れそうになりながら吊り皮を掴む。気持ちが悪すぎて吐き気がする。しかも目の前の椅子に座るオジサンがずーっと貧乏揺すりをしていて、それが一定のリズムを刻んで私の膝にトントントントン当たっている。発狂しそうだ。いや、しないしない。今発狂したら私はキチガイだ。私は冷静で論理的で社会性があってでも女の子らしく可愛くて普通な人なんだ。普通って言葉は嫌いって井上なら言うんだろうなぁ。私は嫌いじゃないんだこの言葉。だって社会的で平均的な基準ってやっぱあるじゃない。それがないと特別な人が特別になれないし、普通でいたい人が普通でいられなくなると思うの。  巨大な靄の触手のひとつが私の顔に巻きついてきた。口も鼻も覆われてうまく呼吸ができなくなる。  これのどこが『やさしさ』で『妖精さん』なんだよ。私を殺す気満々じゃん。妖精さんって基本的に小さくて白人で羽が生えてて可愛らしいものなんじゃないわけ? ポリティカル・コレクトネスを意識してんのかな。いいじゃない普遍的なイメージがあったって。たとえそれが差別的だって。差別が嫌なら例えば白雪姫を黒人にするんじゃなくて、黒人の黒雪姫が登場する物語を作って浸透させるべきなんじゃないの? いやこれ今は関係ないか。酸素がどんどん薄くなって思考がまとまらないな。  何駅通過しただろう。人の出入りがあるのは感覚で分かるが、何人出て行って何人乗車したのか全く分からない。真っ暗で何も見えない。私このまま死ぬのかな。嫌だなぁ。優しくてでもときに男らしくリードしてくれる人と結婚したかったなぁ。仕事を続けるか子どもを産むかみたいな人生の分岐で迷って、結局ふたりくらい子どもができて寿退社したかった。井上に言ったら古臭い考えって軽蔑されそう。でもさ悪いことじゃなくない? 論理的に考えてみてほしいよ。その古臭い考え方が少子高齢化の脱却に繋がると思うよ私は。決して新しい考え方や価値観を否定してるわけじゃないの。「古臭い」なんていうしょうもない否定の仕方をしなければ簡単に破綻してしまう隙だらけの論なんじゃないのって思うわけ。だからさ「新時代はこういうものだから」じゃなくて、私は僕は俺はこう考えてこう選んだんだって胸を張ってればいいじゃない。他人はどうせ他人なんだし。  私はずっとそうやって胸を張ってる。私の考え方は圧倒的にクールで論理的な正論。私は私。私は可愛くいたい。だって女の子だから。女の子らしく誰にでもしおらしく愛想よく接する。怒りや暗澹とした感情は押し殺す。そんなもの見せたって怖がられたり他人との関係に亀裂を生むだけだから。そしたらみんなが可愛いって言ってくれる。そうでしょうよと思うけれど、しおらしい私は謙虚に手刀を振る。全然そんなことないですよぉ。社会では謙虚な姿勢は評価されやすい。もちろん謙虚すぎちゃダメ。攻める時は攻めないと。そんなこともわきまえてる。最強だね私って。最強な私だけれども、やはり暴力には屈すると思う。例えば靄を追っている道中の電車で見た品性のない男。ああいう男は刺激したら何をしてくるか分からない。女性より男性の方が体つきが屈強なのは事実なのだから、襲いかかられたら一巻の終わりだ。だからあの時は文句を噤んだ。今だってそう。貧乏揺すりを延々とぶつけてくるオジサンは、オジサンといえど男性で、やはり身体でぶつかりあったら負けてしまうだろう。だから文句は言わない。ため息でどうにかストレスをやりすごす。はぁ。口から靄が出た気がした。けれどもはや私の口は塞がれていてその姿も合体している様子も見えなかった。 「おい葉叶子」  ふと頬に痛みが走った。びっくりして思いきり息を吐きだすと口から触手が外れて酸素が一気に脳みそを駆けた。真っ暗闇の中からぴょこんと現れたのは井上の顔だった。「大丈夫?」と尋ねてくるので私はぶんぶん首を振った。 「ううん、全然」 「びっくりしたよ。帰ろうとして電車に乗ったら先に帰ってた葉叶子がいるし、なんかめっちゃ苦しそうだし。お前、顔色やばいぞ」  やはり井上にはこの靄が見えていない。私は彼女の顔に触れようとしたが、頑丈な触手がぷにっと邪魔をする。ダメ。動かせない。でも井上は靄が蔓延する車両の中、私の目の前まで来た。それってつまり彼女には物理的な干渉がないってことだよね。 「お願い雪希ちゃん、事情は後で話すから、私をここから連れ出してください」 「は? いよいよ脳みそがお姫様になったのか」 「ううん。脳みそは私ずっと昔からお姫様でしたよ。いいじゃないですか。雪希ちゃん、王子様になってくださいよ」  地下鉄が停車すると、井上は私の手を掴んで引っ張った。何も見えないけれど不思議と不安はなかった。私は身体にまとわりつく靄に押し潰されそうになりながらもよたよたと足を動かしていく。痛くて苦しかった。でも井上の手は容赦なく私を引っ張るので尻込みする暇はなかった。地下鉄の扉をくぐった瞬間まるで朝起きてすぐカーテンを開いた時のように目が眩んだ。大きく息を吸ってそして吐く。電車の扉が閉まり黒い靄は運ばれていった。私たちは、私の家の最寄り駅から二駅前に降りていた。 「なぁどうしたんだよ。病院に行ったほうがいいんじゃないか」  こんなキモい化け物が見える現象は医学的に病名をつけられるものなのだろうか。私はスマートフォンを取り出して、『超幻想精神怪異辞典』を開いた。やさしさ妖精さんのページを彼女に見せる。どうせ信じられないだろうけれど、私には今これが見えていて、物理的な影響も与えられているのだと説明した。理由は分からないが彼女に「お前ヘンだよ」って指摘してほしかった。 「私ね、違うと思うんです、この記事」 「インターネットなんて嘘ばっかりだろ」 「それって偏見ですよ。あのですね、私が黒い靄を吐いた時の状況を洗い出すと、『配慮や憐憫を消化不良のまま放置』って感じじゃないんです」私は杏に会ってデカい声で話しかけられたこと、品性のない男を見たこと、地下鉄の改札で絶叫を我慢したことを話した。「これって、配慮や憐憫そのものではなくて、そのせいで発生したフラストレーションを消化不良にしたって感じじゃないです?」 「んー、たしかに。んじゃさ、ちゃんと解消しなくちゃいけないんじゃね」 「ダメです。私、解消して相手の心に暗雲立ちこめさせる方が余計にストレス溜まるんです」  地下鉄の駅構内から外に出ると、今度こそ太陽の光を浴びることができるかと思ったのに、空は暗くて見上げると巨大な靄で覆われていた。うわ。正面を見て左右に首を振る。ところどころに大きな靄がぷわんぷわんと浮いている。うわうわ。めっちゃ増えとるじゃん。私の不審な挙動を見てとったのだろう、井上が「もしかして」と訝しげな声を出した。「例の妖精さんがいるのか」 「いっぱいいます。太陽も隠れてます。あ、でも、あんまり通らない道が塞がれてるだけです。別に帰れそうですよ」 「別に帰れそうって。でも変なのいっぱいいるんだろ。やばくねそれ」 「生活に支障がなければまぁいいかなって気もします」 「嘘だろ」井上は睨むような目つきになった。「やばいモン見ちゃってんじゃないのかよ。なんで受け入れてんだよ」  だって駆除できるならいいけどあの靄がいったい何者なのか皆目見当がつかないんだし、だったらあの靄がいる中でどう生きていくかってのを考えていかなきゃいけないじゃない。別に靄が見えたって私は可愛いし、必要な通路さえ塞がれなければ大学に行ける。パルコにも商店街にもきっと行ける。だとすれば何も問題ない。私は私でいられる。はぁ。私の口から黒い靄がまた出た。  私は助けてくれたお礼をひたすら言って、その後ひとりで家に帰った。晩ご飯を食べて、お風呂に入って、スキンケアをして、日が変わる前に眠った。朝起きたら顔を洗って歯を磨いてパンにジャムを塗って食べて家を出た。靄を避けながら地下鉄に乗った。触手を刺激しなければ靄に追われることはなかった。私は大学に行って例によってダサい服装の冴えない同級生たちに持て囃されながら講義を受けて学食でうどんを食べた。井上が体調を気遣って奢ってくれたのだ。大丈夫。私はへっちゃらだ。 「あ、葉叶子ちゃん!」  とデカい声が食堂に響いた。声の正体は杏ではなく崇美たかみという、杏同様、私に激烈な賛辞をぶつけてくる何人かの友人のうちのひとりだ。恥ずかしげもなく胸元に『LiFE OF PEACE』などと達筆で書かれているTシャツを着ている。上着はなし。下は何の変哲もないジーンズ。それと二千円くらいで売ってそうなペラペラのスニーカー。井上が気まずそうに顔をしかめる。だからそれは雅な表情じゃないのよ。私は笑顔を作った。こうしなくっちゃね。 「いいなぁ葉叶子ちゃんは今日も可愛いしおしゃれだし個性的だしホントにすごいよねめっちゃ憧れる」  と賛辞のフルコースをいただいた瞬間だった。私は突然息ができなくなった。息ができないことにも慌てたが、私はまだ賛辞に対するお礼を言えていないことにも慌てた。印象が悪くなってしまう。ありがとうって言わなきゃ。苦しい。でもさ、でも頼むから、お前の尺度で私におしゃれなんて言わないでくれよ。どうやらあの黒い靄がまた口から出てこようとしていて、でも今回はいつもよりも大きくて喉に詰まっているみたいだ。 「ねぇそのピアスどこで買ったの? 今度一緒に買い物行こうよ。葉叶子ちゃんに選んでほしいなぁ」  勝手なことばかり言いやがって。私が選ぶ服なんてそこらのコンビニでファッション誌を二、三冊立ち読みすれば分かるようになるのに。そんな簡単な努力もしないで他力本願でていうかね本当に一緒に買い物行く気があるのかも怪しいしほんとに腹立たしい。私はどうにか胸を張って街を歩けるよう当たり前のことをしているだけなのに、その当たり前のこともしねぇでよ。クソほど不埒じゃん。  私の異変に気づいたのか、井上が肩を揺らしてくれた。それがなければぽっくり意識を失っていたかもしれない。ぼんやりとした視界と思考の中で、井上が何かを言っているのが聞こえる。「おい葉叶子、やさしさ妖精をもう出さない方が」  なんでよ。これは私がこれまで築き上げてきた正義なのに。薄い視界の中でどこからか続々と靄の塊が私のもとへ集まってきている。私の四肢を触手でぐるんと掴み、思い切り潰そうとしてくる。首にも巻きついてきて、ぎゅっと絞まる。このままではバラバラにされてしまう。 「葉叶子ちゃん!」  崇美の声は相変わらずキンキンと脳みそに響いてぶっ壊れちゃいそうだ。 「葉叶子ちゃんってホント可愛いよね! 死ぬほど可愛い!」 「じゃあ」声を絞り出した途端、私の中で何かが崩壊した。「じゃあ死ねよ! 私の可愛さで死んでみせろよ!」  パチンと思いきり皮膚を叩くような轟音が響いた。キモい靄の塊が爆ぜた音だった。中に入っていた黒い液体がばしゃんと私の顔にかかり可愛い衣服にもかかった。パチンパチンパチンパチン。音は連鎖した。目の前で巨大な靄が一瞬ぷくっと膨れて、爆ぜる。以前水風船に例えたが、そんなものよりよほどパンパンに中身が詰まっていたようで、爆ぜると液体が四方八方に飛散して食堂の内装を黒く染めた。やはり他人には物理影響はなく、隣の井上や崇美はいっさい液体をかぶっていない。ふざけやがって。  崇美は両目を最大まで開いて(それでも私の普段くらいの大きさ)、口をわなわな震わせている。ほら死なないじゃん。あ、そうだ。ちゃんと声に出そ。 「ほら死なないじゃん。死ぬほど可愛くなんかないんじゃん。ほらね。やっぱり」  論理的に考えてみれば彼女の「死ぬほど」なんて言葉はただの強めの表現でしかなく、私が可愛くて誰かが死ぬことなどあるわけがなかった。 「急になにその正論」と崇美は腹を抱えて笑った。え、と思った。わけが分からなかった。だって何も正しくない。ただ感情任せで屁理屈な八つ当たりだったのに。「でも葉叶子ちゃんは怒ってても可愛いからやっぱりすごい!」  私はどっと疲れたのであった。ひょっとしたら死ぬほどムカついていたのかもしれないなと思った。死ぬほどムカつくのにずっとこねくり回した正論を言い訳にして我慢していたもんだから、ドス黒く巨大に育ったやさしさ妖精さんがいよいよ私を殺しにきたのかも。  結局何ひとつ解決していない。またあの靄たちは現れるのだろうか。その時はその時だ。何が正しいのかなんて全然分からないのだから私は私のまま相も変わらず武装をして生きていくしかない。 「大丈夫?」と井上。 「ううん、全然」 「じゃもう一杯うどん食うか」  ああいいねそれ。びちゃびちゃと黒くまみれた床を踏んで踏んで私は歩いた。
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