奏多郎は駅のホームにいた。 カメラマンの巻には、必要な分の撮影だけしてもらい、先に帰ってもらったのだ。 インタビュー記事の取材と写真撮影の予定はこなせたが、カメラマンの巻には、劇団のあまり見て欲しくない部分を見せてしまった気がしている。 佐伯は演出家の木梨に声をかけておらず、奏多郎が言うまで、まったく気づかないふりをしてインタビューの主導権を握ろうとしていた。 座長の佐伯は、今回の舞台はあくまでも「ワスプ」の定期上演の一つだ、というスタイルをとりたいようだ。けれど、キアラはまた別で、客びきとしての木梨の存在は不可欠である、というスタンスである。 結局、キアラが木梨を呼び出したことで、佐伯は機嫌を損ね、さらに奏多郎が木梨の経歴は記事に入れるつもりだといったことで、佐伯の怒りは奏多郎にも飛び火した。 奏多郎のシナリオは、「スマホの中で完結できる想像力」だと酷評するに至り、その場は混沌としていった。 遅れてきた木梨が「怒りをテーマとしていますから、座長は怒りへの感受性が高くなっているのでしょう」とのほほんと語ったところで、佐伯は稽古場を飛び出していった。 取材中であるため、奏多郎が追いかけるわけにもいかず、団員の一人が追いかけていく。奏多郎はキアラや木梨、他の団員から次の舞台への意気込みなどをインタビューし、聞く端から、頭の中で取捨選択していった。 シナリオ担当のご意見は、とキアラが話をふってくるので、 「いや、ほんと、スマホで世の中の意見を参考にしました」と佐伯の言葉を受けて返した。キアラは苦笑したが、木梨は満足そうである。 取材のあと佐伯に連絡をすると、劇団をやめようと思う、と告げられた。滝が座長になってくれという。 正直予想もしていないことだった。 佐伯は怒りやいらだちをエネルギーにして演技をするタイプの俳優だ。なによりも舞台が好きで、舞台の研究や稽古に費やす時間を失うのがいやで就職をしなかったくちである。 なかなか花開けないことへの焦りこそあれ、やめるということだけはないと思っていたのだ。 聞いてみれば、子どもが生まれるからだという。安定した収入が必要になるに違いない、という凡庸な発想から出た発言なのである。そんなごくごく普通の理由が、佐伯に適応されるとは思わなかったが、同時に佐伯がミーハーな生活人であることも、奏多郎は知っていた。 「既定のルートみたいなのを、佐伯も選びたくなるんだな」 奏多郎は思いがけずそんな言葉をもらす。 「なんとでも言えばいい。バランスをとれるやつが、今の日本の主人公だよ」 「社会に対して怒りの壁、表現の壁になる気はないわけ?」 「はあ?」 「見込み違いだったよ」 記事になったら送るよ、といい、奏多郎は電話を切った。直帰するつもりだったが、会社に行って原稿を作ってしまうと思う。自分の仕事ではなかったはずだが、やるからには、好きのないように仕上げたい。 ふと、なにかの匂いを感じ、奏多郎はふり返った。何人もの人がホームにいたが、どの人物から香っているのか分からない。 ハーフアップのミディアムヘアの女性の目が行く。女性は、ベージュのAラインスカートとパステルピンクのブラウスを着ていた。20代前半から半ばだろうか。どこか目をひく。だが、特に目立つ印象ではない。彼女からこの匂いがしているのだろうか? 顔色はあまり良くなく、視線は下の方に向けられている。 少し気になったが、電車が到着し、奏多郎は電車に乗り込んだ。女性はひとつ隣のドアから乗り込んだはずだ。だが、連結部から向こう側に見える車両に彼女の姿を見つけることは出来なかった。 社に帰り、原稿をまとめていると先輩から声がかかる。「ウチカケクリニックから連絡があったみたいだぞ」という。どうやら広告の出稿は今回限りにしてくれ、という話のようだ。 担当していた職員がやめることになり、新しく入った事務員が業務の引継ぎを拒否したためらしい。業務といっても、天野がテンプレートをいくつも用意している以上、広告料の振り込みくらいだろうが、広告料そのものを払い続けることに負担になりそうだ、と院長が判断したのだろう。 「了解です」と奏多郎はいうが、先輩は心配そうに顔を覗き込んでくる。思ったより大変そうだな、手伝うことあるか?と言ってくるのだが、次回お願いします、と奏多郎は目線を合わせることなく答えた。顔色悪いぞ、という先輩の声は、ほとんど雑音でしかなかったのだ。 ※ 「子育てAI化」 「義務教育全廃促進」 「消費税20%推進」 「妊娠免許制度」 「社会活動原始化計画」 「スマホ、IT端末の免許制」 出てくる大体の案が、取り締まりか、なにかをやめるかになってくる時点で、オワコンだ、と奏多郎は思う。 出てくるアイデアのどれもが、つまらないように感じられ、ツイートや書き込みをする気になれない。たとえ、熱烈な反応があったとしても、対応するのが面倒でもある。 どれもこれも着火剤や起爆剤でしかない。 奏多郎自身の怒りではないし、ネット上で怒っているような人も、ゲームに夢中になるように怒りの書き込みをするものの、大抵はブラウザやタブをとじてしまえば、ケロッとして善良な人として、知り合いに優しいメッセージを送っていたりするものだ。 モニタ上にあるゲームのような怒りに依存しつづける人は、どれほどいるのだろう。 佐伯の言った通り、奏多郎の想像力はスマホに依存しているものに違いないのだ。スマホ上にもひとさじの真実はあるに違いない、と奏多郎は思っている。 ただ、なにも疑問を持たず、自分の言葉でなにかに怒ることが、自分にはできないだけなのだ。 怒りというのは生理現象に近いものだと、奏多郎は思っている。感情的に怒る人は、自分のバイオリズムを惜しげもなく人にさらせるのと、同じだと奏多郎は思う。 すごいと思う反面「あけすけでみっともない」とも奏多郎は思うのだった。 いずれにしても、怒りもまたエネルギーには違いない。怒ることのできない自分には、圧倒的にエネルギーが足りないような気がするのだ。 奏多郎はサイトも掲示板もすべて閉じ、自宅のパソコンで3か月先までの自分の業務一覧を開く。 担当者が決まっていない部分や埋められないページなどは保留にし、手元に資料が揃っているものは、レイアウトし、自分の分の記事を作っていった。 外部ライターに飲食店のレポを数件依頼し、カメラマンには必要な写真をリストアップしてメールで送信しておく。 少し悩んだが、例の座談会には新人ライターに担当してもらうことにした。チャットアプリでその件を伝えておく。YESでもNOでもごり押ししていくつもりだ。経験になるとでもいって。その他の業務も割り振れるものは割り振り、出来るものは仕上げていく。 「ワスプ」のメンバーおよび、木梨にも連絡を入れておく。 「シナリオが完成しました。持っていくので、出来ればみんなで読みわせしましょう」という旨のメールだ。 シナリオはまだ、出来あがっていなかったため、修正作業も、会社の業務と並行して行う。すべて消化するのに、3日かかった。 確認作業も怠らず、取りこぼしはないはずだ。ただ、奏多郎を見る周囲の眼差しが、どこか異質なものを目撃したかのような不審なものへと変わっていったのには、違和感を覚える。 「滝さん、ちゃんと休んでますか?」 とパートの女性に声をかけたれたが、趣味に打ち込みすぎちゃって、少し寝不足なんですよ、と受け流した。これで問題ないはずだ。 予定していた業務をこなし終わったあと、奏多郎は編集長に休暇の申請をした。編集長は冒頭から驚いていたようだったが、奏多郎が終わっている仕事のチェックを申し出たところで、今度はいたわじげな顔に変わっていく。 「この頃、大丈夫?何か問題でもある?」 と問われてしまう。 編集部の母体である、イベント企画会社からの出向で編集長についているこの男性は、フットワークも軽く、社員からの信頼も厚い。奏多郎も好感を持っているが、先輩だけがいい顔をしないのだ。 「少し時間が必要なんです」と奏多郎は言った。 これは本当のことだ。しばし会話をしたのち、申請したとおりの期間休暇をもらえることとなった。引継ぎ作業を水面下で進めていたため、大きな問題にはならなかったのだ。 家に帰る途中の電車の中や家のダイニングなどで次々にリサイクル品やジャンク品を安価で購入していく。 「どんなものが、どんな人に必要なのだろう」 と考えながら、カートに入れていく。どんなことに人々は怒るのだろう?すべて送付先は「ワスプ」の稽古場の住所に指定した。 シナリオの修正作業は終盤に差し掛かっている。演出家の存在を想定して描いたヒューマンドラマのテイストを薄くし、「ワスプ」のエッジの聞いたノリに戻した。
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