その人は木のような人だった。 もう少し丁寧に言い直すなら、木の肌(樹皮)のような美しい皺を持つ人だ。 額や目の周り、口の周り、指や手の甲、首、現在見えている部分、すべてに渦巻きのような皺が幾重にも刻まれている。更に黒い皮膚は分厚く、いくつもの斑点のような染みを持っている。年季を感じされる姿をしていた。 手の甲はごつごつしていて黒松の樹皮に似ている。顔は縦に罅割れる杉の樹皮に似ていた。 わたしはその人の発する声を聞いて、その言葉を理解しようと頭を働かせてみる。すると、森林浴をしているときの、清浄な空気を鼻の中に感じたような気がしてきたのだった。 深く低い声で、その人は再び言う。 「ゲーム罪が確定しました」と。 わたしはそして、再び問い直す。 「ゲーム罪って何ですか?」 そうすると、その人はすっかり疲れきってしまったという風に、顔をしおしおに縮ませる。 ため息と思しき吐息を、木の洞のような口から吐き出すのだった。それから低い声で訥々と語りはじめる。 「申し訳ないんですけどね。この宣告ですべてです。あなたのような人は、毎日、何人何十人、いや何万人といましてね。毎日私のような人間が、こうして言い渡しているんです。判決をね。人員が不足していっているのが現状でしてね。こんなおいぼれが、緩やかに動く頭をきりりと引き締めて、どうにかこうにかインスタント裁判をする有様ですよ。私の個人的な感情で辞めるわけにもいかないので、仕方なく続けているし、今もこうしてやっているわけです。だから、頼みますから、この辺で納得してやってくれませんか?」 木製の机を間に挟んで机の正面に座っているその人は、たしかに年を取りすぎているように見えた。人と言うより、仏像やモニュメントのような類に近しいのでは、と思うくらいに、その雰囲気は落ち着きすぎている。 「何を納得すればいいの?」 その人は棒読みと言ってもいいほど、平坦に、 「あなた自身の死と、それに付随する罪と罰についてです」と言うのだった。 この人からすれば、もう幾度も幾度も、何千何万とくりかえしてきた台詞なのかもしれない。しかしわたしには聞き捨てならない言葉があった。 「早い話が、あなたは自分の死によって迷惑を被った人たちに、罪滅ぼしをしなければいけないということです」 その人は腕時計を一度ちらりと見てから、そう告げた。その時計の目盛はわたしの知る時計とは少し違っているように見える。 死、罪、罰。すべて物々しすぎて、頭の中に上手く入っていかない。 しかしその人は、粛々と宣告してゆく。 「まず、死について。 この頃はあらぬ期待を持っている人が多いようです。 転生する機会が与えられたから、このような裁判にかけられているとか。実はこれは夢でしかないので、実際には自分は死んでいないのだ、とか。そういう類の死んでいない、 生き返るという期待を持って、この裁判にのぞむ人が増えてきたように見受けられます。思想にも流行があるのでしょうかね。 しかし、まァ、それは見当違いですし、無駄な期待ってもんです。まがいようもなく、ここに来た人は例外なく死んでいますし、この後転生するかどうかは、私には関係のないことです。 ただ、人員が足らないので、とにかく片っ端から裁いていかなきゃならん現実があるというだけで。そうじゃないと、自分の死後の身柄について、責任を取る人がいなくなるのでね。それだと、報われない人もおるわけです。あなたのようなありがちなケースでも、あなたのために何人も死んでいます。もっとはた迷惑な死の場合は、数十人、それ以上のときだってあります。とはいえ、ここは自死専門なので、被害の量といっても、たかが知れていますがね。自死は、なにぶん人数が多いので困っています。 次に、罪についてです。あなたの罪は今申しましたように、人に迷惑をかけ、あなたの死で、他に何人か(結果として)死んだことです。直接的にせよ間接的にせよ、記録上は4人の人が死んでいる。それが罪になりますね。 最後に罰。 これはもう、その4人が報われる方法を探すことでしかありません。とは申しましても、報いなんて漠然としたものを、既に未来を失った存在であるあなたに、託しても、時間だけが浪費されてしまいますので、具体的な罰をこちらから提案させていただきます。(これは、転生だとか成仏だとかは別の次元の話ですので、誤解なきようにお願いします)。 あなたは、この部屋に来る前、入り口で問われたときに、ご自分が言っていたことを、覚えていますか?そう、どうして死を選ぼうとしたのか、という動機を聞かれたそのときに、です。何と答えましたか?」 わたしは覚えていない、と正直に言った。 入り口と簡単に言っているが、入り口からこの部屋に来るまで大分待たされていたのだ。 ドラマであれば、ワンクール終わってしまうくらいの期間だったと思う。少なくとも私の体感では。 「29日前ですよ」 その人はきっぱりと言った。 「29日前。この建物の入り口で、あなたは死の理由、その動機について問われて、言いました。“ビッチになりたかったからです”って」 「嘘。そんなこと、わたし言いましたか?」 その人は木の葉の集ったような頭をわさわさと縦に二度振る。ただそのわたしが気にしている具体的な中身について、その人は何ひとつ関心ないようだった。 その言葉をそのまま転用し、引用しました、移し替えました、と言う他人事で、 「そのため、私はゲーム罪を導きだし、ビッチの刑に処す判断に至りました」 と簡潔に言うのだった。 「その、ゲーム罪っていうのも、ビッチの刑というのも、説明はないんですか?」 「ただの名前にすぎませんのでね。うまく説明することは出来ません。 これこれこういう訳だから、この罪です、この刑です、というのが理屈立てて説明できれば、格好がつくし、体面も良いのでしょう。ご本人がたが納得するかどうかは、ともかくとしても。しかし、人員が足りんのです。協議する時間も人材も、そして私の頭のメモリーも欠けておるのでね。ただ、判子を押すように、名前をつけて、罪状を決めるのです。そして、あなた方には、何かをやってもらうしかありません」 「何かと言われても」 「何か、自分の死の罪滅ぼしをしていただこう、ということです」 わたしの記憶上に残っているのは、楽になりたい、と言うような切実な希求であったように思う。何から楽になりたかったのかは、これっぽっちも思い出せないのだけれど。 確実に分かっているのは、わたしは轢かれたのだ、ということだ。 ××時発の、○○線の、△△系の電車の鼻先を見て、その目に当たる窓の向こうに、人の顔を見つけ、ああ、これでやっと終わるのかと思った。 それだけは、とても明瞭な瞬間として記憶している。 どのような行動の下に、わたしは轢かれたのかは、分からない。死んだのだろうな、とは思うけれど、だからと言って、罪があって、罰があることは、理解できない。 死があるなら「そこで終わりじゃないの?」とは正直思っている。 「あと十分で、このインスタント裁判は閉廷いたします。次の被告が待っておりますので。何かご質問がありますようでしたら、どうぞ」 「何か」 鈍麻しきったこの思考の状態では、何も頭に浮かんできそうもないのだけれど、このまま閉廷してしまったとして、この先わたしは、一体何をすればいいのか、分からない。この雲を掴むような状態で、わたしはどこに行かされるのだろうか。罪滅ぼしとは何をするのだろう?という単純な問いは出てくる。 しかし、この人が答えてくれるだろうか? 樹皮の肌を持つこの人は、さわさわと風に梢を鳴らされるままの木のように、ただただ静かに、わたしの言葉を待っていた。 本当なら、この人は、インスタント裁判なんていうものに向いていないのかもしれない。 時間も手間をかけて、裁くことに向いている人なのかもしれない。それとも裁くこともせず、すべて定点観測することに向いているのかも。 この人のことの何を知るわけでもないのに、わたしは勝手にそう思った。 「この先、どこに行けば良いでしょうか?」 「どこに、というのは、具体的で物理的、時間の制約のある場所のことでしょうか?それとも抽象的で観念的な意味での、どこ、ですか?」 「具体的なほうです」 「それであれば、恐らく、この建物の前に立つ29日前に戻るのだと思います。具体的には、○月×日の午前零時という時間であり、◇◇市のあなたの家に行くのでしょう」 「それは、その、いわゆるやり直しではないですか?」 「やり直しでは、ありません。死は確定しておりますから。あなたの罪は消えることはありません。29日前に戻ったとしても、そこで何をしたとしても、あなたに未来はありません。 ただ、これは、責任の問題らしいのです。自己責任論というのをご存知ですか?いつからかここでも導入されたのか、覚えておらないのですが。自分の身体の処遇すべてには、責任があるという考えが主流なのです。死に逃げは許されない、との考えがあるのでしょうかね。その考え方がやはり強く主張されています。ここでも。それは老いも若きも関係ありません。 あなたは死んでいますし、このあと、恐らく、生きているように感じる機会があるでしょうが。いずれにしても、結果は死です。生き返りも、転生もございません。その点はご了承ください。 しかしながら、自分の身体が死ぬことによって、もたらされた被害への責任はとっていただかなければいけないので、本当の意味ではまだ、死んでもらっては困るということのようです。私個人の意見ではありません。私はあくまでもただの老いぼれで、代理人のような形で、インスタント裁判を始めて、それが中々やめさせてもらえないだけの、つまらない労働者です」 この人の語り口はまるで重厚な音楽を聴いているようだ。もっと聞いていたいと思う。しかし、きっとそうはいかないのだろう。 「このあと、被害状況について述べさせていただきます。そうしましたら、先申し上げた場所に、あなたは行くことになるでしょう。あとのことは、あなたにお任せします。しかし、死後直後の言葉が“ビッチになりたかった”というものであったということですから、それに類する行動で罪滅ぼしされるのが、よろしいかもしれません。名目上、それをビッチの刑とさせていただきます」 わたしはその人の見事な皺の一つ一つを丹念になぞるように見る。この場所にずっと居られれば良いのに、と思っていた。 その人の後ろにある明り取りの窓からは、光が差し込んできている。その人の、梢のような頭を通り抜け、木洩れ日のような染みを、机の上に作り出している。 とても静かで満ち足りた空間だ、と思う。 しかしここもまた、待合室でしかないのかと思うと、悲しくなった。 いつだってそうだった。 いつだって、どこもかしこも、通過点でしかなく、終着点にはならない。わたしは動きたくないのに。 その人は、洞を通り抜ける風の唸り声のように、被害状況を読み上げていく。強弱はなく、一定のスピードで。 バス事故が発生し、人身事故により電車からバスに交通手段を変更したVが死亡。 バスと追突した車を運転していたWが脳死。 バス事故に巻き込まれたXが死亡。 あなたの死により、依存症を重くしたYが心不全により死亡。(自殺の可能性を検討中) 電車を運転していた運転手が、人身事故を目撃したことで、精神に不調を来たして退職。 その他、人身事故の目撃により、一時的に不調を来たした者、多数確認。 しかしそこに、責任の遡及はしかねるとの判断。 以上ゲーム罪により、ビッチの刑、執行。
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