ザクロの粒を爪の先で強引にほぐし、口の中に放りこむ。 こんなのは、好きじゃない。 好きじゃないけれど、アサミはそうしなければならなかった。感覚を取り戻すために、何かを口にしておきたかったのだ。 酸味が口の中を刺激する。 自分の中にあるバラバラな思考が、それぞれ主張する。 逃げよ!なんてことをしたんだ! とろとろと流れ出す血液は、黒く経血を思わせる。床へとずるずるともれ出しているのは、男からではなく、アサミ自身のものだった。 男はすでに虫の息といっていい。やはりアサミはぬかりなかった。スマホから救急車を呼ぶ。 鼓動をききながら、これは恋だ、と思う。恋をしている、ずっと恋をしているのだ。 この男が欲しかった。 ただ、実るわけもない恋だ。 だってアサミは実ということがどういうことなのかを、知らないから。この瞬間を氷漬けにできたら、どんなにいいだろう、と思っている。 瞬間を冷凍保存できる方法を人類が発明していたら、アサミは何も恐ろしくはなかっただろう。 男の背中を見つめる。 肺が膨らむ僅かな動きを観察し、自分の欲しかったものはなんだっただろうか、と思った。 この男の迷うことなく研究に向かう志? それとも疑うことない自分への実直さか? そんなものは、どこにもなかったのかもしれない。 ただ、アサミは、自分の道から逃げただけなのだから。 キッチンのタオルをとり、のろのろとバスルームに向かう。力が入らないのは、失血のせいだろうか。 血を失っている今が、一番自分らしいように、アサミは思う。 意識が最小限にとどめられ、必要な感覚が冴える。必要最低限の自分でいられるのだ。 バスルームの鏡の前に立ち、進むべき道を自分の瞳の中や、鼻の先、唇の端に探す。 かつて、本当は、こうなるべきだった自分の姿を、自分の顔の中に見つけることができた。今は、どこにも、その影を見つけることはできない。 ただ、少し肌がくすみ、口角がいじわるそうにまがっている女がいるだけだ。 どこにも、あるべき姿のアサミはいない。 これは、アウトだ、と思う。戻るべき自分はどこにもなく、今いるのは、自分勝手な殺人鬼である。 アサミは水道の水を出して、手を注ぐ。 だんだんと目がかすんでくるのを感じていた。しかし、ここで倒れてはいけない。 帰らなければ、いけない、と脅迫的に感じている。鏡のすみから、声がした。 「あの」 しかし、実際には、その声は洗面台のハンドソープのポンプからしている。 「こんにちは」 視線を動かすと、小さな女性がそこに立っていた。 どこかの制服なのか紺のスカートにグレーのブラウスという冴えない格好をしている。少女を思わせるほどの童顔だが、しっかりと化粧をしているところをみると、20代ではある、とアサミはみた。 「こんにちは」 アサミは言う。 声にはつやがなく、ひびわれていた。丸顔の女性はアサミの手のひらほどの身長しかない。彼女は、ポンプの上からもたもとドンくさくおりる。アサミはじっとその一挙手一投足と見守っていた。 スカートがめくれ、生白い腿がむき出しになるのをみかね、アサミは手をのばす。女性を手の上にのせ、洗面台の上におろしてあげる。 「ありがとうございます」 と女性は顔をふせた。 だがしかし、すぐに弾かれるようにして、顔をあげ、 「これは、ベストな選択でしたか?」とアサミにたずねてくる。 身体の間隔がほとんどなくなっているのに、気がついた。 頭部、あるいは、心臓部の鼓動と、この思考、視覚だけにすべての血液が注がれているようだ。 「ベストって?」 カサカサの声が遠いところで聞こえた。 ベストってなに?といいなおす。 「この道でよかったのでしょうか?」 アサミの耳に、鷹揚でやわらかな響きの女性の声が、すんなりと入ってきた。 「道」 「ええ。もしも、この道でなかったなら、わたしにできることなら、何でも言ってください」 アサミの頭に血が巡っていく。つうっと明確に一筋の血路が生まれたことを感じた。 「ムリよ」 何度も崩壊の音をきいていた。 たまりにたまったエネルギーの流れる先が見当たらず、常に暴れている。そのエネルギーは、夫の庇護のもと生きるには大きすぎていた。 「アップデートしようもない、アナログなコンシェーマーゲームだと思ってください」 女性は言う。アサミには、何のことだか分からない。 「何度も繰り返すことは、できます。オンラインゲームやスマホアプリゲームと違って、内容が更新されることはないですけど」 「分かりづらいよ」 「そうですね」 女性は苦笑する。 「強くてニューゲーム、みたいなのができればベストですけど。それは、ダメなんです。記憶だけは、持ち越せない。だから、こうして一応確認します。これは、5回目です。日下アサミさんはこの後車を運転して事故にあいます。事故による脳挫傷で脳死になりますが、いまも、ご家族の以降により生命維持を続けています」 女性はアサミの腹部の刀傷に視線を泳がせる。 「証拠は?」 「ありません。でもきっとアサミさんはこのあと運転するでしょうし、事故にあいます」 アサミの心にすっとよぎったのは、リビングに横たわる男のことだ。 「マコトは?」 「まこと?」 アサミはリビングの方を顎でしゃくる。ああ、と女性は心得たようだ。 「彼は無事です」 アサミの喉の奥がぐっとつまる。 「どうして?」 アサミが言うと、女性はその五百円サイズの顔が、困った表情を作る。 「アサミさんが、そうしたからでは?」 たしかに110番をしたのはアサミだ。だが、アサミはなぜか、自分だけが死に誠だけが生きるということに違和感を持っていた。 そんなことが、ゆるされるだろうか? 「この道がNGならリセットボタンを押しましょう。セーブしたところから、やりなおせます。ストーリーは決まっていますが、イベントは別なものを体験できます」 ゲームの解説のように告げる。 アサミはゲームをやらないが、セーブをすればそこからプレイしなおせる、という予備知識はあった。夫は、ゲームをすることがあるからだ。 こうして、小人が登場するのもゲーム的だ、とアサミは妙に冷静に思う。 「どこから、再開できるの?」 とアサミがたずねると、女性は日付をつげた。 ただ正直なところ、その日から、今日までの道程を思い出すことはできない。 「同じイベントは面白くないわね」 とアサミは言う。 女性は心得た、といわんばかりに、うなづいた。 「1回目アサミさんは離婚しました。2回目はママ活に励みましたし3回目にはLGBTのイベントに参加して、4日目にはネットで覆面アイドルデビューしました。そして、今回5回目には」 「マコトを殺そうとし、自分も死のうとした」 女性はうなづく。「いつでも、アサミさんは聡明ですね」と言って。 「どこが?」とアサミは言う。 「そのあと車を運転して、亡くなります。愚か者によるバタフライエフェクトの巻き添えにより。いいえ、バタフライエフェクトではないかな。かばの水浴びくらいですね」 とひとりで言いなおしていた。アサミには、良く分からなかった。 「6回目であっても、そのときのわたしが、前例を参考にして決めることはできないのね」 「はい。ただし、わたしが、手助けすることはできます。人知れず。今、はっきりと望む方向があるようでしたら、任せてください。決まったプログラミング内でなら」 「プログラミングの外には何があるの?」 女性は黙ってしまう。 「じゃあ、言い方をかえるわ。何回リセットできるの?」 「何回でも」 「こういうのは、制限がないと、つまらないと思うけど」 「そのとおりです。ただ、これは、罰だから。何回も行われるんです。この場合は、アサミさんが、満足するまで何度でも」 ふーん、とアサミは鼻をならす。罰なんてことば、人の口から初めて聞いた、と思った。 「わたしは、車に乗るべき?」 死んでみるべきなのだろうか。 たとえば、このままここにいても死にそうではあるのだが。もう息を吐くのも、面倒だ。 「まもなく救急隊がきます。アサミさんは、きっと、鉢合わせたくなくて、この部屋から焦って出ていくんです」 「そりゃそうでしょうね」 いい当てられたことは、少々不快ではあるが、人から物事を断定されるという快感も、同時に合った。 「マコトに出会う前には、戻れないよね?」 女性はうなづいた。 「セーブが上書きされている、と考えてください」 「分かりづらいってば」 「つまり、戻れません」 「そう」 「次の回の希望はありますか?」 アサミは何も考えられそうになかった。夫のジャケットから出てきた名刺を思い出す。 「女王様」 と口にしてみて、そのちぐはぐさを知る。 そんなの望んではいないが、口にしたとたん、真実味を帯びてくるから、困った。 「分かりました」 「え、分かったの?」 「はい」 アサミは、惰性で男の家を出た。これはもう5回目らしい。覚えているわけではないのに、そう聞いただけで、自分の行動がすべて時代遅れで、やぼったいもののような気がした。 けれどアサミには、運転しなければいけない理由がある。 プログラミング外のことは、知らないが、自分を刺してもくれない男のもとで、永眠するのは、ゴメンだった。 どこにもいけないが、乗る権利を与えられている車を出庫し、アサミは、車を走らせた。
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