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 乙女のアパートは大学へのアクセスのよい立地で、月3万円の家賃だという。 大家は乙女の死に驚いたようで、礼仁が部屋の引き渡し時期について尋ねに行ったときにも、焦らなくていいよ、と言ってくれた。乙女は短大時代からここに住んでいたようだ。  礼仁は預かっていた鍵で乙女の部屋へ入っていく。  一階の部屋のせいか、日当りもそれほどいいともいえず、室内はどことなくカビの匂いがした。 ただ、それ以外は異臭がすることもなく、特に目立った特徴のない部屋だ。中に入ったとたんに、ボトムスのポケットが震える。  自分のスマートフォンはショルダーバックに入れていたことを思いだす。 なにかと思い、取り出してみると、乙女のスマートフォンだった。まだ、解約の手続きをしていなかったのだ。 画面の文字を見ると、「マーメイド」と書かれている。礼仁は迷うことなく、電話に出た。 「あの、乙女ちゃん?最近連絡つかなかったけど、大丈夫?」  よどみない喋りの女性だ。そのまましばらく無言でいたとしても、話はつづけていそうだったが、礼仁は「乙女の兄です」と言葉をはさみこんでおく。  すると、 「え、お兄さんなんていたの?」と女性は言う。礼仁は即座に計算する。  乙女の死を告げない方がいいのでは?と思った。 「乙女は今、席を外していて。なんだかずいぶんご心配をおかけしたみたいですね」 「いえいえ、乙女ちゃんとは学生時代から仲良しなんです。それに乙女ちゃん、結婚決まったって話じゃないですか?色々聞いたいな、と思ってたところだったのに、連絡つかないから大丈夫かなって」 「そうだったんですね。乙女に伝えておきますよ。え、と。どちらさまだったでしょうか?乙女は愛称で登録しているので、分からなくて」 「ヤヨイといいます。けど、驚いちゃいました。乙女ちゃんにお兄さんいたんですねー。では~」  軽やかに言い、ヤヨイは電話を切った。ヤヨイを乙女はマーメイドと登録している。  なぜマーメイドなのだろう。  礼仁はアドレス帳を開く。乙女はロックをしていないようで、すんなり一覧を見ることができた。  漢字かなまじりの姓名が並ぶなか、「ケルベロス」、「ゴブリン」、「サキュバス」、そして、「マーメイド」という異様な名前がたびたび登場している。  マーメイドだけであれば、人魚姫とでも解釈できるが、この並びを見ると、あまりいいイメージを抱かない。どの名前もモンスターの名前だ。乙女はゲームや漫画に明るく、端的に言えば、オタクだった。その延長として、あまり好きではない人物にこのような名前をつけていたのかもしれない。  とりあえず頭の片隅に置いておく程度にして、礼仁が乙女の部屋を片付けることにした。  乙女の部屋は、礼仁がよく整理を任される類いのセルフネグレクトによる病死があった部屋などとは、様子がまるで違う。  整理整頓されており、日用品も過不足なく揃っているごくごく一般的な部屋だった。  ベージュのラグにナチュラのローテーブル。シングルベッド、そしてピンクのベッドカバーなど、目につく部分だけを見れば、留守の部屋に訪ねてきたかのような印象を受ける。 冷蔵庫はほとんど空だったが、その代わりに冷凍室には作りおきおかずが何食分も残っていた。壁のカレンダーには数か月先のページにも発売日、などと書かれている。  ある日、この部屋から出た乙女は、2度と帰ることはなかった、という陳腐な考えが浮かびそうになる。 家を出て生きて帰れなかった人間、そんな人間はこの瞬間にだって、何人もいるのだろう。どんな人にも、終わりの日はいつか来るのだ。  この部屋を出た人間が、その瞬間に自殺を意識していたかどうかなんて、分かりようもない。重箱の隅をつつくかのように、読みさしの文庫本を置いていることや、作りおきのおかずを残していること、カレンダーに未来の予定を書いていることなどを取りあげて、そんな人間は自殺しない、となんて指摘してもしょうがないのだ。  乙女は死んでいる。  礼仁はローテーブルに近づいていき、文庫本を手に取ってみる。 「2次元に行く方法」である。この本を自殺に結びつけるのは、簡単かもしれない。死後が2次元である保証はどこにもないが。  次に据え付けのクローゼットを開いてみる。  ハンガー掛けには、乙女はベージュやピンクなどの色が好きなようで、そうした柔らかい色調のワンピースやブラウス、スカートが吊るされていた。  クローゼットの上のほうの棚には、プリンターやポータブルゲーム機、コンパクトDVDプレイヤーなどのデジタル機器がしまわれている。だが、礼仁の目はそこでは留まらない。  ハンガー掛けの下にある衣装ケースが気になった。衣装ケースをぐっと奥の方まで引き出す。Tシャツのしまわれている奥の方には、ゲームソフトが何本かしまわれていた。 隠すほどのものか?と思うが、パッケージに見目麗しい男性キャラクターが描かれているため、家具とのミスマッチを気にしていたようだ。  乙女のパステルトーンの部屋に、キラキラしたキャラクターの絵は、とても目立つ。  いくつかの衣装ケースを改めたところ、50本ほどのゲームソフトが見つかった。どれも女性が男性たちと恋愛をすることに主軸を置いたアドベンチャーゲームである。  あまりにも人間離れしたキャラクターに、胸やけしそうにはなったが、乙女が相変わらずバーチャル世界に入れあげていたのだ、と思うだけである。 「2次元に行きたい割には、2次元の権化であるゲームは隠すのかよ」と礼仁は茶化したくなった。  それから、ベッドわきの小さなチェストの抽斗をあけていく。  中には書類やノートパソコンなどがしまわれていた。ノート類には乙女の創作と思しき文章が書かれていた。 ぱっと見たところでは、ファンタジー小説のようである。礼仁はノートパソコンを起動してみるが、当然のようにアカウントではパスワードが必要になる。礼仁は少しだけ考えたが、成人してから先の乙女のことを自分は知らないということを、思い知らされるだけだった。  だが、一方で短大卒業後も変わらず同じ場所に住み続ける乙女のことを思えば、そうひねったパスワードを考えるとも思えない。  一か八かだ、と思い、礼仁はダンデライオン(dandelion)と打ち込んだ。エラーが起こることもなく、ログインが可能になる。  乙女の発想は、ホームの頃からほとんど変わっていないのかもしれない。  パソコンのトップは乙女の描いた絵なのかもしれない。パステルカラーに色づけられた奇妙なキャラクターだ。 テスクトップには「乙女」「仕事」「趣味」というフォルダがあるほかには、初期設定からあったかのようなアプリやソフトがあるきりだ。 だが、フォルダを開くと更にいくつものフォルダが出てきたため、手間がかかりそうだ。  今後の労力を意識したとたん、礼仁はカフェインが欲しくなる。ショルダーバッグの中から6本セットのエナジードリングを取りだし、一本だけ取り出して飲んだ。  礼仁はまず「乙女」のフォルダを開けてみた。下層には「イン」、「アウト」の2つのフォルダのほかに、名前のついていないフォルダがいくつもある。  まず「イン」を開けていくと、どうやら日記が書かれているようで、年ごとにファイルが作られていた。「アウト」を開いていくと、ブログ1、2、3と番号づけで書かれており、ブログの下書きが残されているようである。 「仕事」のフォルダは文字通り仕事で必要になった文書を作成したり、何かのデザインをしたりしたものをしまっているようだ。 最後に、「趣味」だが、これには良く分からない絵が納まっている。描画ソフトを使っているためか、開くときに少し時間がかかったが、ペンタブレットで書いたらしいデジタル画が何枚もしまわれていた。  それほど気になるものはなかったが、ふと思いついて、礼仁は「乙女」フォルダの「イン」から今年分の日記を開く。乙女は結婚が決まっていた、とマーメイドもといヤヨイは言っていた。礼仁自身にはそんな連絡はなかったが、どんな人物と付き合っていたのだろう、と気になったのだ。 同時にそんな親しい人物がいるのであれば、乙女の死を知らせてあげる必要があるだろう、と思った。  乙女の日記はワードで作成されていて、改行も多く、思いのままをつづったかのような文章だった。改行のせいで読みづらく、本来であれば、興味を持って読みたいような内容でもない。だが、あきらかにおかしい点がいくつもあった。日付が書かれているのに、本文がなかったり、文章が妙なところで途切れていたりするのだ。乙女はひょっとしたら、この文章を消そうとしたのかもしれない。自殺を考えたから、消そうとしたのだろうか?  ひととおり日記を見てみて分かったのは、乙女は結婚について何も書いていないことと、乙女が仕事をやめていたことだ。  残されていたほとんどの内容は、ゲームの攻略に関することに終始していた。個人的な出来事については、そもそも書いていないか、消してしまったようだ。  ただ、印象的な文が目に入った。 「2次元じゃないと、ムリ。人間の男は生理的にも人生的にも、やっぱりムリ」  乙女の言いそうなことだ、と礼仁は思う。ホームにいたときにも、乙女は現実の男はいやだから、自分は絶対に結婚しない、と言っていたくらいだ。 「そんなわけでシャッフルクエストサイコー。今はわたしのすべてはシャッフルとともにある」  この文章で、乙女の日記は終わっていた。礼仁はその場で乙女のパソコンから「シャッフルクエスト」のアプリを探す。  デスクトップにはなかったが、検索をかけたらプログラムを見つけることができた。プログラム自体は残っているようだ。 早速起動し、アカウントにログインしてみる。アカウント名は自動的に表示されており、パスワードはパソコンと同じダンデライオンだ。すんなりログインでき、礼仁はゲームを開始した。セキュリティ面でみたら、ザルすぎるが、こんな人間は案外多いのだろう。礼仁は乙女の残したゲームアカウントを使って、ゲームの中に入ってみることにした。  だが、その前に、集中力が切れそうだったため、2本目のエナジードリンクを開け、飲んだ。

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