ぴったりと身体に張りつく衣装は、少し甘やかしていたアサミの太ももや腹をしめつけてくる。 さらに、身体にまとわりついてくる紐が、アサミ自身の身体の質量を強調してくるようで、気恥ずかしい。 無駄の一切ないみごとな手つきで、アサミはまるでチャーシューのように、縛られていく。 着付けの講習かと錯覚しそうになるが、肉感的な身体が視野に入り、すぐに現実にかえってくる。アサミよりも10は年上だろうか。しっかりと作った顔が、色っぽい。 「安心してよ、イマドキはソフトが主流なの」 そんなことを言われても、アサミの警戒心がとけるわけもない、アサミは、「こっちがわ」を希望してはいないのだ。 「そっちがわの予定でしたけど、こんなのってあり?」 アサミは言う。 「あら、そうなの」と女王様。 「あなたみたいな傲慢そうなタイプは、まずは虐げられしものから、はじめた方がベスト。そういうのがこの店の方向性。相手の気持ちがわかるようになるわよ」 てきぱきとアサミを縛っていく。呑気な会話には色気がない。 いや、この場に色気なんて求めていたっけ?とアサミは思う。スカッとしたいだけだったのだ。騎士をひざまずかせる貴婦人を演じてみたかった。 見事なチャーシューができあがる。少々手荒に、鏡の前に手を引かれ、「ほぉら、お似合いよ」と言われる。全然そうは思えない。プライドの高さがそのまま顔に出ているアサミは、恨めし気に鏡を見つめている。グラマラスな女王様が、アサミの顎に手をくれた。 「ねぇ、なにがお望み?」 なにも欲しくはなかったが、このまま帰って満足かと言えば、そうじゃない。 「プライドを打ち砕いてみてください」 そうアサミが言うと、女王様の目がつりあがった。「みてくださいじゃねぇだろ?打ち砕いてください、だ!」 ゲロゲローと辟易したけれど、はい、と返事しておく。それじゃあ、と言い、女王様は、タッセルのような黒い鞭をベルトから外した。 このクラブに来たのは、メッセージアプリに広告が入ってきたのがきっかけだ。登録した覚えもないが、ときにIDや電話番号が漏れていて、勝手に広告が入ることがあるので、特に気にしなかった。メッセージアプリで返信し、クラブをたずねたのだ。 仕事関係の飲み会で遅くなるとでも言えば、どうにでもなった。夫はアサミの行動を縛りはしない。それに子どももない。アサミには自由がある。少なくとも、行動には。 肉がはぜる。 この痛みは電気だ、とアサミは思った。肩口に赤みが広がる。 「いってみなさいよ、どうしてほしいの?」 こんなの、私怨じゃない!と思う。自分よりも少し若い女への当てつけではないのか。ただ、どこまで体験すれば、女王様にならせてもらえるのだろう?と持ち前の自尊心うずくのも事実だ。 アサミは、 「もっと強く、お願いしまあす!」と体育会系の部活よろしく、元気にいう。 少なくとも、マコトはこんな無様なことをして、お金を稼ごうとはしないのだろう、という。アサミのマウンティング心がアサミを駆りたてていた。 ※ 「この薬は、症状がなくなったらやめてもらって大丈夫です。ただ、この薬は感染症のお薬ですので、全部飲み切ってくださいね」 アサミはそう言って、カウンターに上半身をのぞかせるこどもに、シールを手渡した。お母さんと遊んでみてね、と言って。 「ありがとう」 3歳の保育園児は、アサミの手からシールを受けとった。触れた指先がしっとりと冷たい。 母親は頭をさげ、薬の入った袋を手にして「いくよ」と子どもに声をかける。お大事に、とアサミは声をかけた。 流行性感染症の流行で、ここ数日、同じ説明を何度か繰り返している。マスクをいやがるこどもから、同じ園に通うこどもへ、そしてその家族へと感染を広げているようだ。 アサミもここのところ喉の調子がおかしいので、気をつけなければ、と思っている。 もしものときは、隣の診療所で診療してもらおう、と気楽なものである。診療所の院長はしばしば、こちらに個人的な薬をとりに来ている。 アサミは、患者の対応をしながら、休憩時間にみた、マコトのメールの一文を頭で反芻する。 「少しだけ進捗があった」 それだけ。 進捗とは研究の進捗のことである。アサミは穏やかならざる気持ちになる。 ここでこうして調剤に携わっている自分が、まがい物のような気がしてくるのだ。 実際には、大学時代の知り合いと結婚し、仕事も続けているアサミは、いわゆる自立した社会人に違いないのだが。 マコトに出会わなければ、こんな気持ちにはならなかったのだ。 けれど、再会してしまった今、アサミがマコトを手放せないのも、事実である。 現在、夫が出張中だ。今日もマコトに会うことができる、と思うと胃がふわっと浮くような気がした。 ただ、こんなのは、長く続かないのだろう、とも思う。でもいいのだ、今のところは。 大学時代にアサミとマコトは少しだけ付き合っていた時期があった。薬学部の同窓だったが、研究員志望のマコトと食べていけるだけの資格を金で買おうとしていたアサミとでは、授業への臨みかたも、生活の仕方もまるで違った。 喧嘩にこそならなかったが、いつもどこか遠くを眺めているようなマコトに、アサミは焦りを感じ、いらだっていたのも、事実だ。 20歳で結婚しアサミと2人の弟を産んだ母と、バックに一族経営の会社を抱えていた父の2人で作っていた家庭は、少し裕福で、情緒も安定していた。 どこにも瑕疵はなく、アサミもあくせくする必要はない。ただ、とてもつまらなく、アサミは実家を出たのだ。 にもかかわらず、アサミの進路は常に、安全地帯だった。アサミはいつも、大きな変化をしないための、目先の小さい変化を選ぶ。 だから、こどもを持たないのだし、どんなときも低用量ピルを飲むのを忘れない。 その代わり、職場は少しずつ変えるようにしているし、夫にも引っ越しをうながす。自分の車は持たない。 小さな変化のつみかさねで、アサミは生きていけるのだ。 でも、マコトを見ていると、ザワザワと血潮が騒ぐ。マコトは小さな変化すら求めず、たんたんと日々を重ねる。大学時代アサミが読者モデルをしていたときも、バイト先でデートレイプまがいなことをされかけたときにも、イベサーをはじめとして、さまざななサークルを転々としていたときにも、マコトは研究所の見学に行き、文献を読み漁り、進路を見定めていたようだった。 アサミは学内を急ぎ足で歩くマコトを目撃するたび、鼻先がスッと冷たくなった。 「あ、風が変わった」と。 腕をひいてくる友達やスマホをふるわせる恋人、ぐるりとアサミを取り囲んでいるその場を楽しく生きる最善のものすべてが、遠のいていく。 「どこにそんなに急いでいるの?」 とアサミが声をかけたのが、2人の付き合うきっかけだ。 たしか別れることになった言葉もまた、マコトからの「アサミはどうしてそんなに急いでいるの?」という言葉じゃなかったか。 5年ぶりにアサミがマコトに連絡したのは、半年ほど前のことだ。かつての知り合いが主演映画をつとめることになったとかで、アサミの心は乱れていた。 なぜマコトだったのかは、分からないが、現状、自分よりも劣っていそうな人を選んだのは、間違いない。 ※ のしかかってくれ、という要望にこたえ、アサミはその腰部にハイヒールでのっかる。ウグ、と小さな吐息。乗る場所には、薄手の布を敷き、ハイヒールの裏にも緩衝材が入っている。コンプライアンスなのだろうが、ハードなものは、好まない店らしいのだ。 「もっとえぐって」という男の肉づきのよい腰を踏みしめる。柔らかな踏み心地は心もとない。 「やっぱり、今日は研究室にのこる、ゴメン」 そうマコトは言った。 その後、アサミは、夫に友達と飲んでくる。とメールを入れて、ココに出勤してきたのだった。 研修のあと1週間ほどでアサミは女王様になれた。優秀であったわけではないと思う。ただ、どこまでも無様であろうとすればするほど、女王様に喜ばれ、自分も嬉しいという気持ちが湧いてきたのだ。 そのうちに、担当してくれた女王様のお墨付きを得て、晴れて女王様になったのである。 これは、嗜虐の関係ではなく、甘やかな取引の関係なのだ、とアサミは思う。究極のサービス業である。 ぐりぐりとヒールの先でねじると、男はうめき声をあげた。 小太りな男の背中の肉が床に流れている。その声をきくと、妙に愛しさが溢れてくる。この男になら、抱かれてもいいな、と思いつつ、絶対にそう言うことにはならないだろうな、とも思う。コンプライアンス上も、そしてアサミの行動上も。 絶対に、大きな過ちは犯さない。 なのに、どうして、わたしはマコトなのだろう? アサミはヒールに力を入れる。 「あの、ちょっと、強いよう?」 と男が言うので、逆の足に少しだけ体重を移した。 夫の方が職業的にみても、容姿をみても、優れていると評されるだろう。けれど、なぜかマコトをみると、ザワザワと毛穴が逆立ったのだ。 美醜ではなく、優劣でもなく、ではなんだろう? 「イブちゃーん、もう少し強くして~」 甘い声で言われ、ゾクゾクと背筋に快が走る。 「いいこね、もっとかわいがってあげる」と言おうとするが、やめる。 「ザンネンさまーここでオシマイよ」と言って、男の上からおりた。男の汗で濡れたヒールを布で拭う。 深追いは禁物だ。 この甘美なまがいものの主従関係におぼれてしまいそうになる。求められるものに素直に答えていれば、アサミが「本当は」どんな人間であっても、相手にとってはきっと、なにか「いい人」として認識されるだろう。 これが本物で、アサミの世界はここだけだとしたなら、アサミはこの主従に泥のように溺れていられるだろうか? きっとそれも、ちがう。アサミは本腰を入れるということを望まない。常に、ここは自分の場所じゃないというプライドだけで生きていけるのだ。
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