病院に運ばれ、頭部やわき腹などに処置をうけた。 薬物反応を調べる尿検査を受け、陰性の裏づけがとれたところで弥は解放された。 その間、付き添っていた警察官にいくつかの質問をされ、すべてに知りませんと答えたことで、弥は問題なしと判断されたらしい。 一方ユーセイは乗り込んできた警察官に連行されていった。そして、ミナトに至っては、弥とは別の病院に運ばれ、入院することになったのだという。警察官が帰ったあとで、それまで遠巻きに離れた席で待機していたマヤが近づいてくる。通報したのはマヤだった。 マヤは仕事の休憩時間の外出中に、たまたま弥を見かけ、後をつけた。 そしてユーセイの家の物音を聞きつけ、暴行の瞬間を目撃。警察に通報したらしい。住所に聞き覚えがあったのは、マヤの勤めるネイルサロンの住所に近かったからなのか、と今になって弥は気づいた。 弥の隣に座ったマヤは、ぽつりと言う。 「ミナトちゃんは、良い時代のゆりもどしが欲しかったんだろね」 「良い時代」 「ミナトちゃんは、大事に大事に育てられてるんだよ。危険を取り除かれて、守られて育ってきたって言ってた。一人娘だし、一人孫だったんだって。地元での成績はすごく良かったらしいし、自慢の娘だったんだと思う。私とは逆。4 人兄弟だし、従妹もたくさんいる。私がいてもいなくても、誰も気にしないよ。スペシャルだった人はね、良きも悪きもスペシャルでいたい癖が出来るんだと思うよ」 「オレもそうだよ」 マヤは目を丸くして、弥の顔をじっと見る。 「けど、そんなやつ、たくさんいるし」 「そうだね。けど、初めて、そういう話したね」 マヤの顔を弥も見る。 透き通るような白目に、黒い瞳が映える。長い睫毛はものいいたげな影を添えていて、色っぽい。こんな顔をしてたっけ?と思う。 「欲しいものってある?」 と弥は自分でも思いがけず、マヤに聞いていた。弥の顔をじっと見つめてから、虚空に視線を向け少し考える。 それから、 「うーん、月並みだけど。あったかい家庭とか?結婚して子ども作れば、人生ロンダリング出来る気が、しちゃうでしょ?」 と言う。 「ふーん」 「弥くんも、そうじゃないの?」 「もともとなんもないし、綺麗にするものがない」 「それじゃ、私がもともと汚いみたいじゃない」とマヤは苦笑する。 「欲しいもの、弥くんはないの?」 とマヤは聞いてきた。タマコにも言われたことだ。ふと、厩舎の匂いが鼻の奥に戻ってきた気がして、 「馬」と答えていた。 「馬?」 「金にはならなかったし、家では役に立たないって言われてたんだけど。好きな馬がいたなって」 「もういないの?」 「死んだ」 「そっか」 弥はそれから、伯父さんがあの糞暑い日に馬を犯していたこと、その厩舎では父が嫁候補の女を連れ込んでいたこと、帰らなくなって母や、そして自分のことを話した。 マヤは特に嫌悪の色を明らかにすることもなく、相槌を打っていた。うちも結構シビアだよ、とマヤも自分の生家の話をする。待合所の人波が流れていく。静かで満ち足りた時間だ。弥は、こういう時間を、本当はずっと前から求めていたのかもしれなかった。 話を終えると、マヤは「一応仕事場に戻るね」と言って去っていき、弥も自宅に帰ることにした。しかし、これまでと違ったのは、次会う約束をしたことだ。 「パドックでも馬事公苑でも、どこでも付き合うよ。好みの馬が見つかるまで」 とマヤに言われたので、二人の休みが合う、土曜日に会う約束をして別れたのである。 弥くんから誘ってくれたのって、初めてだよね、とマヤは嬉しそうだったのが、印象的だった。 その日、弥はネットゲームにログインしなかった。 タマコからあと一週間、との期限の通知が来ていたのを知ったのは、次の日のことだ。 ただ、弥はあまり気にならなかった。むしろ、どうでもよくなってきていて、現実のマヤのことが気になっていた。 「あと一週間です。後悔のないように、早めにお願いします」 返事をしなかった。 少しだけ、クエストをクリアするくらいで、弥はログアウトしてしまった。それなのに、なぜか、部屋の壁の向こうに、宇宙樹ニョンニョンが透けて見えている。 しばらくネトゲは止めた方がいいのかもしれない、と弥は思う。そしてそのまま、一週間、弥はログインすることはなかった。 ※ 土曜日、弥が地下鉄に乗ろうとしたときに、マヤから連絡が入った。電車遅れてるみたい、バスに切り替えるね、とマヤは言う。 スタンプだけ送り、弥は地下鉄に乗った。待ち合わせ場所は競馬場だ。 弥の趣味に付き合わせてしまうのだから、帰りにはどこかマヤ好みの店でご飯にしよう、ともひっそり計画していた。そんな気持ちは初めてだった。 弥は早めに競馬場に辿りつき、マヤを待った。マヤが先についていたら戸惑う気がしたからだ。けれど、マヤはいつまで待ってみても、やって来なかった。約束の時間を過ぎても、連絡も来ず「大丈夫?」と連絡してみても、返信はなかった。電話も通じない。 フラれた? そんな考えが頭に浮かぶ。 今までのことを思えば、当たり前だ、とも思う。むしろ、今までがおかしかったのだ。弥のしてきた仕打ちに、マヤはよく呆れなかったものだと思う。いや呆れていたけれど、彼女なりの処世術で、そう見せていなかっただけなのかもしれない。 たった一回、打ち明け話をし合って、すべてが水に流されるだなんて思うのは、馬鹿だ。 弥は自分を納得させるために、いつもの言葉を自分の心の中で、自分に添えてみる。 罪悪感に耐えられるから、オレはクズなのだ。 けれど、ストンと腑に落ちてはくれない。 マヤのような生真面目な女が、何にも言わないことがあるんだろうか?と。 自分に明らかな落ち度があると分かっていながらも、未練がましく可能性にすがっていた。2時間ほど、場所を少しずつ変えながら、待っていると、見覚えのある白い丸顔、伏し目がちの女がやって来るのが見えた。 白い半そでのブラウスに、ロングワイドパンツを履いている。 こちらが気づくと、頭をぺこりとさげ、こちらにやって来た。 その服装がマヤの好むものとどことなく似ていて、奇妙な気分になる。近づいてきたタマコは、申し訳なさそうにこちらを見上げる。いつもの仕草だ。 特に意味はなく、タマコは自信のなさそうな顔をする。ただ、なぜここに来たのだろう?と思わずにはいられない。 「まだ、大丈夫ですか?」 とタマコは入り口の方を指さす。 「大丈夫っていえば、大丈夫だけど」 弥がいぶかしんでいるのを、物ともせず、 「行きましょう」とタマコは言う。 弥はなぜ、タマコが来たのかを尋ねることが出来ないまま、引きずられるようにして、入っていった。そしてタマコにせがまれるままに、パドックを見て、馬券を買った。タマコは実際のところ、大して馬に興味もなさそうだったが、なぜか執拗に、弥に聞いて来る。 「どうですか?好きな馬はいましたか?」と。 一種鬼気迫るものを感じ、あまり楽しいと思えなかった。ただ、何か重要なことが、今行われているような気がして、弥はタマコを邪険にすることが出来なかったのだ。 弥はぼろ負けで終わり、タマコは単勝で1、2回当てていた。だからといって、何のことはない。しかし、見逃してはいけないことが、何かあるような気がしていた。今何か重要な取り引きが行われているんじゃないか?と弥は思った。 レースが終わり、タマコと競馬場を後にしたときには、夕方になっていた。タマコは弥の手をとる。ひんやりと冷たかった。行きましょうとタマコは言う。 「どこへ?」という問いにも、答えはないけれど、弥の手を引いて、ぐいぐい先へ進んでいく。目の前に宇宙樹ニョンニョンの大樹が見えてくる。どんどんくっきりとしてきて、現実の物体を飲み込んでいった。 気づくとそこは病院だった。タマコは弥の手を引き、病棟の中を泳ぐように進んでいく。たどりついたのは、病室だった。 「ここは?」 タマコは何も言わずに、手を離し、中に入るように促した。中に入ってまず気がついたのは、心電図で、続いて呼吸器の付いたマヤの顔だった。弥は息を飲んだ。 「もう、時間がないの」 タマコは震える声で言う。 「時間?」 タマコは頷く。手を胸の前で組んで、自分の身体を必死で守ろうとしているようだった。 「マヤさんは、弥くんと過ごすことをお願いしてくれた。だから私はこうして、あなたのところに来たの。けど、まだ、あなたのお願いを聞けていないよね」 「お願い?」 「それが私の罪滅ぼしの方法。マヤさんはあと一時間もしないうちに、亡くなってしまうのだと思う。私のせいで」 「は?」 タマコとマヤのつながりが、不明だ。ただ、マヤの頭部の包帯や、心電図の様子から見ても、重体であることは、確かだった。 「意味が分からないって」 「マヤさんのお願いは、弥くんといること。あなたのお願いは?」 すがるようにタマコは尋ねる。 弥は何も言うことが出来ない。 「何で、オレにそんなこと聞くわけ?この人とオレはそんなに」 結局、そうやって、無関係を語ることしかできないのか。と弥は自分に落胆した。それでも、そうすることでしか弥は自分を保てない、クズなのだ。 「あとで、ちゃんと、今日の出来事を知ったとき、多分あなたは、私を殺したくなるでしょう。もう、死んでるんだけどね。だから、今のうちに、私のことをズタズタにしても、いいですよ。私は多分、そのために、ここに来たんです」 「ズタズタに、されるようなことって?」 「私は、マヤさんが死んでしまう原因を作ったから」 「まだ、生きてるみたいだけど」 「死んでしまいます。やり直しができるわけじゃないから」 「なるほど、未来から来た設定なわけだ」 例えば、それが絵空事じゃなく、本当のことだとして、タマコがマヤの死の原因を作ったことが本当だとする。 けれど、果たして自分は、タマコを殺したいと思うのだろうか? 「わたしも、マヤさんもいなくなります。ですから、この先に関係あるのはあなただけです。だから、何かお願いをかなえてあげないといけないんです」 「例えば、本当にそうだとしたら、逆に頼まないんじゃないですかね。未来のない相手にお願いなんかしないと、思わないっすか?そんなの、悪くて」 と弥は言う。 「むしろ、何がしてほしいのか?って聞くのがフツーっていうか」 「え?」 タマコは目を丸くした。 そんなこと、初めて気づいたという顔だ。 「何がしてほしいっすか?」 弥は尋ねた。いや、でも、そんな、と言いながら、タマコはしばらく考え込んでしまう。 ただ、弥の言葉に嘘はなかった。 マヤが死んでしまうというのを、すんなり信じるつもりはないが、もし本当にそうなら、何ができるだろう、と思う。 「良かったら、友達になってください」 タマコはそう言った。あまりに予想に反していたので、弥は驚いて笑えてきてしまう。 「そんなことでいいんだ?」 「生きていたとき、私には友達がいなかった気がするんです。もう、あまり覚えてないけど」 「本当かな、そう思ってるだけじゃ?友達認定ラインが高いって言うか」 弥が言葉を重ねても、タマコは首を横に振る。覚えてないです、とそして改めて言う。 「ダメですか?」 「いいよ」 という。 タマコの丸い頬がふくらんだ。 「ありがとう」と言う。そして、口元になにかが触れた。 キスされた?と気づいたとたん、ぐにゃぐにゃに視界が歪んでいく。何が起こっているのだろう、と弥は思った。 タマコの笑い顔が泣き顔のように見える。 「大丈夫、何も心配いらないよ」とタマコは言った。宇宙樹ニョンニョンの梢が揺れている。 「友達になってくれてありがとう、ごめんなさい」 タマコの声はたしかに聞こえていた。けれど、次の瞬間には、ひょっとしたらネトゲ上のログを読んだだけかもしれない、なんて思えるのだ。 弥には未来があり、タマコとマヤは死んでいく。だとしたら、自分はどんな風にこの先を生きるのだろうか。 そうは思うのだが、なかなか自分の視野が戻ってこないのだ。 「これでよかったんですか」 タマコの声が聞こえる。 「これが一番いいんです。弥くんのプライドを守れる。弥くんは、自分が助かると思っていれば、優しくいられるんだよ、世界に」 マヤが言っている言葉はよく聞こえなかった。 「あと、一時間です。私はあなたにズタズタにされなくちゃいけないね」 タマコが言う。 「私はきっと、弥くんの実家に行ってみるんだろうな。この後、張り切りたくなくても、そうするんだと思う。きっと、弥くんのことをお父さんに話してみようとすると思う」 「好きなんですか?」 「似てるの。甘やかされて育ったけど、早々に人生に絶望して死んじゃった弟に」 「そうなんですね」 「満たされてると、死にたくなるみたい。私には分かんないけど」 「そう、なのかな」 「私はあなたのことも、抱きしめてあげたかった。もしも、そのとき、そばに居たなら」 「もう、終わったことです。私の罪は消えません。でも、ありがとうごさいます」 タマコの泣き声が聞こえる。 オレはこの上ない幸福に包まれている。 今なら何でもできる、そう思った。
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