鮮やかに、色を残して
第一章 無気力な自分(1)

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 ◇ 「鹿野かの。今日も部活来ないのか」  高校一年の二学期がもうすぐ終わろうとしている、ある日の放課後。サッカー部のチームメイトに声をかけられる。俺は顔を一瞬だけ上げたあと。 「うん。行かない」  とだけ返事をして、また帰宅準備を急がせる。 「鹿野そうやって最近ずっと休んでんじゃん。何かあったわけ」  そんな俺を見て、わずかにイラついた感情を言葉に滲ませる友人。  〝何か〟で思い出し、帰宅準備の手を止めて一度下唇を噛む。自分への嫌悪感が湧き上がる。何もできなかった自分が不甲斐なくて。  でも、そんなこと言えないから。 「……べつに。何もないけど」 「じゃあ何で来ないんだよ。今までだったら誰よりも先に部室にいたくせに」  そうだ。俺はこの間まで部室に一番乗りといっていいほどサッカーに夢中だった。誰よりも部活に明け暮れていた。大好きだった。 「それは……」  どうしても言えなくて、言葉に詰まる。  理由を言えば部活を休んでいることを認められるかもしれない。でも、無断で休んでいることは納得されない。おまけに同情されることはもっと嫌だった。憐れむのは、尚更だ。 「もうやめろって。どうせやる気がなくなったんだろ。放っておけよ」  もう一人のチームメイトが呆れたように俺を見据える。俺に嫌悪感をあらわにさせているような瞳を向けられた。  そりゃそうだ。部活を無断でサボっているんだから当然そうなる。 「いや、でもさ……」 「どうせ言ったって無駄だろ。それより部活始まるし、早く行こうぜ」  俺を気にする素振りを見せるひとりと、俺に嫌悪感たっぷりなもうひとり。最後まで俺を気にしたあと、「……気が向いたら来いよな」と言葉を残してエナメルバッグを肩にかけて、俺の元から立ち去った。  俺は、深いため息をついたあと、ふたりに会わないように時間をずらしてから教室を出た。 「失礼します」  帰る前に、体育教官室へ寄った。  ここまで来る途中の廊下から見た空は、どんよりとした灰色の雲が覆っていた。おまけに風も強くて、ガタガタと窓を揺らす荒れた天気。  先生は、真剣な顔つきだった。俺がここへ来た理由をすでに気づいているようだった。体育の先生でもあるが、サッカー部の顧問でもある。  緊張した。しないわけがなかった。空気が重たくて、押しつぶされそうになる。のどの奥で待っている言葉を言ってしまえば、後戻りはできない。でも、言わなきゃいけない。 「先生にこれ渡しに来ました」  決意を固めた俺は、かばんの中から取り出した一枚の紙を机に置いた。 「サッカー部、辞めます」  体育教官室を訪れた俺は、先生に退部届けを渡すためだった。俺が無断で部活を休むようになって四ヶ月が過ぎた。 「ほんとにいいのか」  先生は、俺から受け取った紙へと目を向けたまま俺に尋ねる。最終勧告だろうか。先生は、知っている。俺が休む前に何があったのか。 「あんなことがあって鹿野もつらいだろうが……小学生の頃からサッカーやって来たんだろ」  夏休みの八月に、母が事故で亡くなってしまった。それはあまりにも突然のことで、俺は母の死を受け入れることができていなかった。その結果、俺は無気力になり、何もやる気が起きなくなった。あれほど大好きだったサッカーがどうでもよくなってしまうほどに、心はすっかりと憔悴しきっていた。 「そりゃあな、部活を無断で休んだことに感心はしない。注意はするさ。他の生徒は一生懸命なわけだし、チームの輪を乱されても困るからな」  みんな必死だった。本気だった。レギュラーに選ばれるために、誰よりも毎日部活に明け暮れる。そんな中に俺みたいなやる気のないやつがひとりでもいたら、チームの士気が下がる。 「でも、鹿野がそんな行動を取る理由も分かってるつもりだ。だから、考える時間も与えた」  休んだあとも度々先生は俺に声をかけた。今後のことをどうするか決めるために。でも、決して急かすことはしなかった。無理強いされることもなかった。だから俺は、今まで先生の気遣いに甘えていたのかもしれない。 「もう一度聞くが、ほんとにこれでいいのか」  ずっと逃げていた。母がいないという現実を見たくなくて、母のことを思い出さないようにサッカーから距離をとっていた。誰よりもサッカーをする俺を応援してくれたのは、母だったから。低学年の頃からずーっとサポートしてくれた。土日にあった試合も欠かさず観戦してくれた。毎回おいしい弁当を持たせてくれた。汚れたユニフォームだっていつも綺麗にしてくれた。俺が見つけやすいようにちゃんといつもソファの上に置いてくれた。陰ながら支えてくれた母がいなくなり、俺の心にぽっかりと穴が開いた。 「もう、決めましたから」  俺は、決断するのが遅すぎた。初めからきっぱりとサッカーの縁を切ってしまえば、こんなに苦しむことはしなかったのに。すぐに辞めると言えなかったのは、心のどこかでまだ未練があったからかもしれない。 「やる気のないやつはサッカー部には必要ありませんから」  まさかその言葉を自分自身が言うときがくるなんて思ってもいなかった。  ──入学式直後に部活紹介があったとき、サッカー部の部長が『やる気のない生徒はいりません。本気で頂点目指したい。やる気のあるやつだけ来てください』と言っていた。  もちろん初めはやる気しかなかった。サッカーしか続けてこなかった俺には、それしかないと思った。勉強は二の次だった。  けれど、母が事故で亡くなった。そこから俺の人生の歯車は崩れた。 「……そうか」  そうっと退部届を机の上に置いた。  先生は、納得してくれたようだ。  心のどこかで、ホッとした。 これ以上、悩まなくて済むのだと思ったから。 「たくさん迷惑かけて、すみませんでした」  深く深く、一礼をした──。  体育教官室を出て、グラウンドに出ると、野球部やサッカー部の声が響き渡った。こんな寒い日に、元気にやる気に満ちている。寒さなんて気にならなかった。少し前までの俺もそうだった。ボールしか目になかった。サッカーのことばかり考えていた。どうすればもっとうまくなるだろうとか、レギュラーに選ばれるだろうとか。部活に必死になる一方で授業中はよく眠っていた。黒板の字を全く写せないときもあった。そういうときはクラスメイトにノートを貸してもらった。それも今となってはいい思い出だった。  それなのに今の俺は、無だ。色も、感情も、何もない無気力だ。頑張ることから手を離した。諦めた。そうすることで自分の心を守ろうとした。  だから、俺があの場所に戻ることはできない。もう二度と。  未練を断ち切るようにグラウンドに背を向けて、静かに歩き出した。

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