鮮やかに、色を残して
無気力な自分(2)

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 それからあてもなく街を彷徨いた。家には帰りたくない。母がいないということを突きつけられてしまう気がしたから。部活を無断でサボって俺は、いつも無意味な時間を過ごしていた。ただただ、時間が過ぎるのを待っていた。 「お母さん、早くっ!」  道路を挟んだ歩道に母親を急かす子どもの姿があった。子どもは、ユニフォームのようなものを着ていた。これから何かの練習だろうか。その姿が、小さい頃の自分と重なった。  俺がサッカーをするようになったのは、小学生のとき友達の影響だった。地域でやるようなスポーツクラブみたいな感じで、一度見学に行ったら楽しそうだった。みんながするから俺もやる。単純にそれだった。  まだ二年生とかだったから、ひとりで行かせるのは心配だと母が付き添ってくれた。毎日のように練習していたら、『光希、サッカー上手になったね』と褒めてくれた。それが嬉しくて、もっともっと褒めてもらおうと思って頑張った。  でも、小学高学年になると、その感情は変化する。母に褒められるのは嬉しいのに、母と一緒にいるところを見られるのが少し恥ずかしくなる。天邪鬼だった。  中学生になると、さらに感情は変化した。意味もなく母のことを嫌悪したり、鬱陶しがったり、素気ない態度ばかり取ってしまっていた。誰にでもよくある思春期だった。練習試合でも応援にきていた母。友達にそれを見つけられるのが恥ずかしくて、『試合、見にこなくていいから』と言ったこともあった。傷ついた顔をするときもあった。それでも母は、いつも笑顔を絶やさなかった。試合には来なくなったけれど、その代わりに必ず俺の好きなおかずばかり入れた弁当を作ってくれた。嬉しかった、素直に。ほんとは、めちゃくちゃ嬉しくて。だけど、素直になれないから無言で受け取ったり。  あの頃は、自分のことしか考えていなかった。母のことなんて頭になかった。  ずっと母がこれからも当たり前にいると思っていたから。だから、そんな態度をとってしまっていた。  ──『いってらっしゃい』  ──『おかえりなさい』  ──『気をつけてね』  どんなに返事が返ってこなくても、母さんは出かける前は俺に言葉をかけ続けた。俺は、振り返らなかった。そのとき母がどんな表情で、どんな気持ちで声をかけてくれていたんだろう。  今思い返すと、あの頃の俺は若かったと思う。明日も当たり前に母がいると思ってた。だから、冷たく接してた。  それが今は、後悔しかなくて。 「ごめん、母さん」  謝罪を口にしても、心が晴れることはなかった。心に広がっている灰色の雲が、もうずっと蔓延っている。  〝大切な人〟  それは失って初めて気づく、母の存在。  どんなに悔やんでも、どんなに後悔しても、決して時は戻らない──。 「ねえねえ、今からゲーセン行こうよ!」 「いいねえ。あっ、そういえばパフェの半額券持ってるんだけどあとで食べよ!」 「うっそ! 半額?! いいねいいね! 食べよー!」  横断歩道を待っていると、別の高校の制服を来た女子高生が道路を挟んだ向かい側で楽しそうにしていた。俺と同じ高校生。それなのにこの差は、何なんだろう。 「明後日、クリスマスイブだね。女子だけでクリパしよーよ!」 「いいねえ! あっ、でも由美、田中くんのことが気になるって言ってなかった? 誘ってみたら?」  今度は、背後から談笑する声が聞こえる。それは、左から右に流れるように、足音も動く。 「えー、でも来てくれるかなぁ」 「絶対大丈夫だって! 田中くんの友達も一緒に誘っちゃえばいいんじゃない?」 「そうそう。みんなでパーっとクリパしよう!」  三日後にやって来るクリスマスイブ。少し先の未来を語る女子。俺の後ろを通り過ぎる。足取りは、軽くて楽しそうだ。  誰も、俺に気づかない。誰ひとり、俺のことなんか視界に入っていない。俺とは対照的に楽しそうで、青春を謳歌していて、きっとこれからもそれは続いていくんだろう。 「……なんだよ、これ」  胸が、痛い。苦しい。うまく息が吸えない。  楽しそうに、はしゃいで、世界は自分たちを中心に回っているんだとでも言いたげで。妬み、僻みが増幅していくのが自分でも分かった。  それなのに俺は、何なんだ。何を目的に今、生きてるんだ。希望は?目標は?  そんなのひとつもない。あるのは、悲壮感と絶望感と、虚無感。俺の世界からは色が消えた。目の前が霞んでいるようで、段々とそれは濃くなる。  ──パッ、と。横断歩道が青になった、気がして。俺は渡ろうと足を踏み入れる。  そのときだった。 「危ない……!」  ものすごい引力が働いたように、後ろに引っ張られたのは。  どすっ、と鈍い音と共に尻餅をついたのだと実感する。 「何してるの、鹿野くん……っ!」  すぐ真横からは女子の俺を心配するような怒っているような声が聞こえた。  何で俺の名前知ってるんだろう、冷静にそう思った俺は、そうっと顔を横へ向ける。  すると、視界に移り込んだのは──。 「……春沢、さん」  俺をものすごい力で引っ張ったのは、中学のクラスメイトの女子だった。  春沢さんの俺の腕を掴む手は、わずかに震えているようだった。  春沢香澄。正確には、中学三年の頃の同級生。肩につかないくらいのボブだった髪は伸びて、ふわりと吹いた風に攫われる。大きな瞳は透き通るほど綺麗で、色白で、華奢な、可愛い女子だった。  どこにそんな力を隠していたんだろう、と驚くほどに引っ張られた力は強かった。 「なんでいるの」  俺の口からは、素っ頓狂な声が漏れた。 「なんで、ってここが通学路だから」  もっともなことを返されて、「あ、ああ……」と納得していると、春沢さんが俯いて、「……どうして」と小さな声でつぶやいた。今にも消え入りそうな声で。  でも、主語がなくて困った。だから、俺は、なに?と尋ね返す。 「どうして横断歩道を渡ろうとしたの?」  春沢さんの声と手は、震えていた。  質問の意図が分からない。横断歩道は、青になれば渡るし赤になれば止まる。一般的に考えて答えはそれ以外にない。 「青になったから」  なんで春沢さんはそんな常識的なことを尋ねるんだろう、と疑問に思っていると、 「赤だったよ」  と、顔を上げて震える瞳で俺を見つめた。 「横断歩道、まだ赤だったよ」  そして再度、断言するように告げられるから、「え」と困惑していると、突然、右手をどこかへと伸ばした。人差し指でさした場所は歩行者用の信号機。  それが、たった今〝青〟へと切り替わる。 「気づいてなかったの?」  と、尋ねられて、「気づかなかった」と答えた。淡々と。  だって自分の中では青だと思っていた。信号が変わったと思ったから、歩こうとした。ほんとに無意識だった。 「何か考え事でもしてたの?」 「……いや、べつに何も」  そこまで言いかけてやめた。周りの視線を感じて、ここがどこだということを思い出したから。「あのさ、手」とよそよそしく言うと、「……あ、ごめん!」と慌てて離す春沢さん。俺は、軽くズボンの埃を落としながら、じゃあ……と立ち上がり帰ろうと思った。 「ちょっと待って」  そうしたら、春沢さんに引き止められる。 「鹿野くん。手、怪我してる」 「……ああ、ほんとだ。でも、こんなの……」  ただの擦り傷程度。軽く水で洗って放置してたらすぐ治る。 「手当てしなきゃ!」  俺の手首を両手で掴む春沢さん。 「いや、手当てとかべつに……」 「血出てる。それに砂だって。バイ菌が入っちゃう」  あまりの慌てっぷりに、俺は困惑する。  春沢香澄。性格は、おっとりした子で目立つタイプではなかった。それでいて男子と話すところだってほとんど見たことなんかなかった。理由は、男子が苦手だったらしい。それなのに今、目の前にいる彼女はまるで別人だ。記憶の中の彼女と全く一致しない。 「や、だから、水で洗えば……」 「それだけじゃダメだから! とにかく、手当てするからこっち来て!」  有無を言わさず手を引かれるから、俺は逃げることも止まることもできなくて、仕方なくついていくほかなかった。

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