近くの公園に移動した。 「痛くない?」 手のかすり傷に消毒液を垂らしながら顔を歪めて俺に尋ねてくる。 「うん、大丈夫」 消毒液をぶっかけられてるのは俺の方なのに、どうして春沢さんが染みるみたいな顔してるんだろう。「うっ、沁みる……」と苦手そうに時折顔を逸らしている。そんなに苦手なら自分でするのに、そう思いながらも手当てに身を任せていると、ようやく絆創膏を貼って「これで、よし」と満足げに頷いた。 手当てが終わった手のひらを見ると、絆創膏が無造作に四枚くらい貼りまくられていた。どうやら春沢さんは、几帳面というわけではないらしい。 「そういえば、鹿野くん。部活は?」 思い出したように会話を続ける。 「サッカー部だったよね。高校も続けるって言ってたよね」 俺が答えずにいると、「あれ違った?」ときょとんと首を傾げる春沢さん。 多分それは中学の頃に俺が友達としていた会話を聞いてそう思ったんだろう。 「辞めた」 内心投げやりに答えると、「え」と動きが止まった春沢さん。 「辞めたって、なにを……」 話の流れを聞いていたら、何を辞めたかなんてはっきりしているのに。理解していないのか、それともわざとなのか。そんな彼女にはっきりと、断言するように。 「辞めたんだ、サッカー。てか、今日。ついさっき退部届提出してきた」 「なんで……だってあれほど頑張ってたのに……」 ──あれはまだ、俺が中学生の頃。といっても、まだ卒業して一年も経っていない。 中学生の俺は、生き生きしていたと思う。輝いていたと思う。毎日が楽しくて仕方なくて、希望に満ち溢れていたと思う。 学校に行くことも、勉強をすることも、サッカーをすることも、全部が楽しかった気がする。クラスでわいわいすることも好きで、体育祭のときは一致団結した。文化祭のときは、劇をすることになって、みんなで考えて練習もした。 楽しくてたまらなくて、こんな日がずっと続くと思ってた。信じて疑わなかった。 それは高校生になってからも同じだった。 親しい友達もできて、サッカー部のチームメイトもいいやつで、部活は大変だったけれど毎日充実してた。 でもそれは、一瞬であっけなく打ち砕かれた。 あの日から。母が亡くなった日から、俺の時間は止まった。高校生ならではの鮮やかさはなくなり、色を失くした。 今の時間を有意義に過ごしているわけでもない。ただひたすら、今日が終わるのを待ち続けている。無気力に、そして自暴的に。 「サッカーすごく好きだって、言ってたよね……なのに、なんで」 中学の俺は、春沢さんから見てどんなふうに映っていたんだろう。同級生といっても同じクラスメイトだっただけで特に会話をした覚えはほとんどない。 「もう飽きちゃったんだ。ずっと同じことするのに」 そんなはずはなくて。サッカーを嫌いになったわけじゃない。それなのに俺の口から淡々と嘘が流れてくる。 「嘘だよね……」 信じられないと言わんばかりに、口もとに手を当てて固まった春沢さん。 「鹿野くん、毎日毎日サッカー頑張ってた。楽しそうにしてた。私、ちゃんと見てたから知ってるよ」 「見てた……?」 「中学のとき、休み時間とかお昼休みとか。友達と楽しそうに遊んでた。部活だって……」 辞めた本人よりも、どうして春沢さんの方が苦しそうなんだろう。不思議だ。理解できない。 「それに、高校生になった鹿野くんを見かけたことあるけど、すごく楽しそうにしてた。大きなバッグを肩にかけてた。友達だって一緒に……」 大きなバッグは、エナメルバッグ。多分、サッカー部専用の。まだ部活に入って半年も経ってない頃。まだ母がいた頃だ。 「今日は、あの大きなバッグじゃないんだね」 俺の横に置いていたかばんをちらっと見て言った。 「うん。サッカー辞めたから使う必要なくなったんだ。だから、スパイクとかも捨てようかな」 全部、見切りをつけなきゃ。部屋の中にかばんやスパイクがあったら、またサッカーやりたいって思うようになってしまうかもしれない。俺は、二度としないために退部届けを提出したんだ。 「全部捨てちゃうのもったいなくない?」 「なんで」 「だって、せっかく思い出詰まってるのに……」 思い出が詰まってるからこそ、捨てるんだ。つらいから。苦しいから。思い出したくなかった。 「……どうせ使わなかったら古びていくだけだから」 スパイクシューズを初めて買ってもらったのは、小学低学年。その頃は、成長期ということもあってまだ中古のものだった。新品を買っても足のサイズが合わなくなったら履けなくなるから。もちろん中古のものでも嬉しかった。あのときは、すごく光ってた。新品みたいに。わくわくした。サッカーをすることが。 新品のスパイクを買ってもらったのは、高校に入ってから。入学祝いにって母が買ってくれた。有名なメーカーだった。多分、高かった。でも、嬉しかった。めちゃくちゃ嬉しかった。『……ありがとう』って言ったのは、これが最後だったと思う。 新品のスパイクは、まだ硬い。足に馴染んでいないから、当然なのだろうけれど。毎日使い続けることによって、足に馴染んでいく。それがまた頑張る活力になって、毎日部活に明け暮れた。 思い出がない、なんてそんなの真っ赤な嘘だ。思い出しかない。世界でたったひとつのスパイクだ。それを捨てるということは、母の記憶を捨てることにもなる。 「鹿野くんは、それでいいの?」 春沢さんの瞳が、真っ直ぐ見据える。 俺は、その視線から逃げるように顔を逸らして。 「……もう、いいんだ。これでいい」 自分で言い聞かせるように答える。 すると。 「鹿野くんって、嘘つきさんなんだね」 隣からそんな声が聞こえてきた。 少し驚いて顔を上げると、 「ほんとはそんなこと全然思ってないのに、自分の思いを押し殺して無理してる」 ベンチに手をついて、俺を心配そうに見つめる。俺の心を読まれているようで、慌てた俺は。 「無理なんて、してない」 「してるよ」 「してない」 「しーてーるー」 子供のように言い返す春沢さんに、俺は少しムッとして、「だからっ」感情の糸がプツンっと切れて。 「無理なんか、してないって!」 いつになく大きな声が出てきた。 ハッとして、「あ、いや……」言葉を取り繕おうとしながら春沢さんを見ると、驚いたように固まっていた。 俺は、何をムキになっていたんだろう。軽く流せば済む話だったのに。 「大きな声出してごめん」 謝ると、首を振った春沢さん。 その表情は、少しだけ強張って見えた。 どうやら驚かせてしまったらしい。 俺は、人を不幸にさせてしまうことしかできないのだろうか。 静けさを増すように、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。あまりの寒さに首を縮める。このままいたら風邪でも引いてしまいそうだ。風邪引いたら、サッカーが……やめやめ。なに考えてるんだ。 置きっぱなしのかばんを肩にかける。 「じゃあ俺、帰るから」 その場を去ろうとすると、「え、あっ……」慌てた声が後ろから聞こえた。その声を聞こえないフリをする。 「待って。鹿野くんっ、ちょっと待って!」 突然、びゅん、と横を通り過ぎた何か。風が一瞬吹いたあと、目の前に現れると、通せんぼをするように両手を広げた春沢さん。 「な、なに」 「冬休みの予定って何もないんだよね?!」 全く予想もしていないところから現れた話題が、ものすごい勢いで飛んでくる。 「は、え……? 冬休み?」 「うん。明日修了式あるでしょ」 「それは、まあ……」 いや、たしかにあるにはある。でもなんで今、そんなこと聞いてくるんだ。 益々わけが分からなくて、春沢さんを見つめていると、ニイと頬を緩ませて、「だったら……」と俺に一歩近づいた。 「冬休み、一緒に遊ぼう!」 と、提案してきたのだ。 「……は?」 「だからね、冬休みに私と一緒に遊ぼうって」 俺が理解できていないと思ったのか、今度は、ゆっくりと丁寧に言う。 「いや、そうじゃなくて……」 俺が聞きたいのは、そういうことじゃなくて。だから。
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