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 寝転んだのは、南ドイツの田舎町。大きな協会がシンボルの町を見下ろせる、小高い丘の上。空気をたっぷりと含んだ柔らかな草原と、頬を撫でる優しい風が都会暮らしで堅まった私の体を解していく。見上げた空には雲が一列に並んで、同じ方向に、同じ速度で流れていた。大きな羊が行進しているみたい。  「どこまでが空で、どこからが宇宙なんだろう」  私の独り言に答えてくれたのは、上空を舞うように追いかけっこをしている小鳥達のさえずりだけだった。 身体を起こすと、丘の先、町の隣に青々と広がる森が見える。子供の頃、三年間通ったことのある森。妖精の住む森。  丘の上に、まだ冷たい春の風が一度だけ強く流れた。    *  日本の幼稚園に通いだして間もない頃、お父さんが急に「明日引っ越しをする」と言い出した。当時の私は引っ越しがどういうことなのかまだわからなかったけれど、引っ越しはお父さんと私だけがするらしいということはわかった。一緒に住んでいるおばあちゃんとおじいちゃんはできないみたい。  その頃お父さんに懐いていなかった私は、「ヒッコシなんかしたくない」と言った。  「そうよ。明日なんて急すぎます。ようの幼稚園だってあるのに、どうするつもりなの?」  おばあちゃんは抱きつく私に腕を回し、捕られまいとするような姿勢でお父さんを牽制した。  「幼稚園にはさっき連絡した。明日から行かなくて大丈夫だ」  お父さんはこちらを見ずにあっさりとそう言い放った。明日は幼稚園で同じクラスのみっちゃんとこっちゃんと遊ぶ約束をしているのに。初めて遊びに誘ってもらったところなのに。幼稚園に行かなかったら、もう二度と遊んでもらえないかもしれない。そんなの絶対に嫌だった。  「そんな、あんまりじゃないの。葉が可哀想よ。お友達にさよならも言えないなんて。  それに、お母さんも亡くしたばかりで……せっかくできたお友達とまで離れてしまうなんて……」  おばあちゃんの目には涙が浮かんでいた。私を抱く腕に力がこもる。  「葉だけ家においていくことはできないの? この年齢で急にドイツなんて。言葉も通じないし、文化も違うし。きっと苦労させるわよ」  おばあちゃんは懇願するようにお父さんに言った。けれどもお父さんはそんなことおかまいなしに、仕事道具のトンカチやらノミやらを大きな黒いバッグに入れ続けている。  「葉はまだ子供なんだ。言葉なんてじきに覚えるさ。  それに、俺の修行には短くても三年はかかる。三年の間親と離れて暮らす方が葉にとって良くないだろう」  「それは、そうかもしれないけれど……。  それならせめて、あなたの基盤が整うまで葉はこっちにいさせたらい良いじゃない。住む場所や仕事がちゃんとしてから葉を迎え入れても遅くはないでしょう」  「仕事も住むところももう手配してある。迎え入れてくれる先方は、すぐにでも来て良いと言ってくれているんだ。  何も迷うことはない。もう決めたんだ」  だんだんと声が大きくなるおばあちゃんとは対照的に、お父さんはずっと静かな声で話していた。声は怒っていないのに、横顔は怒っているみたい。やっとこちらを向いたお父さんの目は、真っ黒く濁っていてとても怖かった。  「葉、明日からはここじゃない、別の場所でお父さんと暮らすんだ。必要なものをバッグに詰めて、今日中に準備しておきなさい」  おばあちゃんは泣いていた。おじいちゃんは元よりリビングの椅子に座って夕刊を読んでいる。私たちには無関心だ。もう誰もお父さんに反対してくれる人はいなかった。  引っ越しの荷物は、その日の夜におばあちゃんと一緒に準備をした。おじいちゃんとおばあちゃんがくれた大きな赤いバッグにお気に入りの洋服とぬいぐるみを詰めてもらう。おばあちゃんはその頃には泣き止んでいて、私にこれからのことを教えてくれた。  「葉、よく聞いてね。  葉とお父さんは明日からドイツという国に行くの。日本から出て、遠い国に行くのよ。とても遠くてすぐに会える距離じゃないから、おじいちゃんとおばあちゃんとは中々会えなくなるの。ああ、でも心配しないで。お盆とお正月にはきっと会えるから。  それに、お父さんのマイスター修行が終わればまた私たちと一緒に暮らせるようになるわ。それまでの三年間、お父さんと一緒に元気で暮らすのよ。もし嫌なことがあれば、いつでもおばあちゃんに連絡してちょうだい。おばあちゃんはいつだって葉の味方だからね」  当時はおばあちゃんの言うことがよくわからなかったけれど、大人になってから理解した。  私のおじいちゃんとお父さんは家具作りの工房を営んでいる職人だ。工房と家は隣り合わせで、よく工房に出入りしては「危ない」と言って怒られた。お父さんはその工房の跡取りだから、自身の修行のためにドイツの家具職人というマイスターの取得を志したらしい。それで私も一緒にドイツに連れて行かれた。  だけどお父さんは若い頃からおじいちゃんの工房で働いていて、家具造りの技術は高いと評判だった。それに加えて勉強熱心なお父さんは、全国で行われるインテリア展などには足繁く通っている。お父さんに造れないものはない、幼い私はそう感じ取っていた。だからどうしてお父さんがわざわざドイツまで修行に行かなければならなかったのか、それは大人になってからもわからずにいる。  私は本当はお父さんと二人でドイツになんか行きたくなかった。優しいおばあちゃんと日本で穏やかに暮らしていたかった。だけどお父さんは一度決めたら絶対にそれを曲げない人で、誰が何と言おうと貫く性分だ。幼い私は嫌だとも言えないまま、飛行機の座席に座っていた。  初めて訪れたドイツには、工房の近くに広がっていた森と同じような森がたくさんあった。私をドイツに連れてきたお父さんは少しも私に構ってくれることはなかったから、お父さんがマイスターの工房で修行をしている間、私はほとんどを近くの森の中で過ごした。町の中心地は知らない言語を話す大人達ばかりが居て怖かったし、家の中は寝室として借りている部屋しか使ってはいけないとお父さんに言われていたのでつまらなかった。だから怖い人も居なくて、遊び道具のたくさんある森に行くしかなかった。  工房からの一本道を歩いていくと、森の入り口はあった。木々を隔てる大きな太い道から小道に入り込むと、森の中は途端に暗くなる。厚い葉っぱの天井が、降り注ぐ太陽光をブロックしていた。おかげで夏の暑さを凌げて快適だ。ドイツの森は山のような急斜面になっていないから小さい私でも歩きやすい。木々の背丈がものすごく高くて、木の下に立つと天辺が見えないくらいの大木ばかりだった。  疲れることを知らない年齢の私はずんずんと森の中を歩いて行く。口ずさむのは、もっぱら童謡の「森のくまさん」。綺麗な花を見つけてはしゃがみ込み、その隣で茎が折れて萎れている花や、枯れかけている花だけを摘んだ。  そうして集めた花々の茎を編んで花冠を作ろうとした。日本でおばあちゃんがよく作ってくれたのを見ていたから、簡単にできると思った。二本の茎を縒り合わせて、太くなった茎にもう一本の花を合わせる。どんどん重ねると膝の上で丸い輪になった。できた花冠を高く頭の上に掲げると、両手に掴んだ以外の花がバラバラと膝の上に落ちてきた。繋ぎ合わせたつもりの茎は折り目がついただけで、全く繋がっていなかった。目に涙が浮かんでくる。  その時だった。  「お花にまみれて何をしているの?」  後ろから声がした。急いで振り返ると、背の高い男の子が立っていた。顔は木漏れ日が当たっていてちょうど見えない。  「日本語わかるでしょう? さっき歌っているのを聞いたんだ」  男の子はゆっくりと近寄ってくる。彼が動いたことで光の加減が変わり、顔がはっきりと見えた。日本人とも、ドイツ人とも言える柔和な顔つき。肌は透き通るように白く、口を閉じたままにっこりと微笑んでいた。  「花冠を作りたいの?」  白雪姫に出てくる王子様って、きっとこんな風に綺麗な顔をしているんだろうな。のぞき込まれてそんなことを考えた。  「うん」  私は目尻に寄った涙を拭ってから短く答える。  「そう。じゃあ、ちょっと貸して」  男の子は私の膝の上から二本の花を取り、茎の部分を×の形に組んだ。それから、上の茎を下の茎にぐるっと絡ませて引っ張ってきた茎を下の茎と揃える。一本のまとまりになった茎に、もう一本新たな花を添える。同じように上から下へ茎を絡ませ、花を一列に固定した。  四本目、五本目と花をくくっていく男の子。私の膝の上に残った花がおおぶりな花だけになると、  「もう少し小さくて細い茎の花を見つけてきてくれる? 僕はこの辺りで探しているから、見つけたらまたここに戻っておいで」 と言った。  まだ私の膝の上には花があるのに。花冠にしたらきっと素敵になるに違いないのに。  「このお花は使えないの?」  私は膝の上に咲いている、茎の折れた白い大きな花を持ち上げて男の子に尋ねた。  「綺麗な花だね。でも残念だけれど、この花は茎が太くて立派だからこんな風にしなやかに曲げることができないんだ。曲げられないと、花冠は作れない」  「じゃあ、このお花は何にもなれずに死んじゃうの?」  私は元々折れている花や萎れている花しか摘んでいない。それでも、摘んでしまった以上は私が花の命を絶ってしまったことになる。花冠に使えないとしたら、捨てるしかない。それはしたくなかった。  「優しいんだね」  気が付くと、私の手の中の白い花を男の子が受け取っていた。そしてその花の折れていた茎の部分を千切り、足下の土を少しだけ掘って茎の先端を埋める。花は、まるでそこにそうして咲いていたかのように、まっすぐに空に向かって伸びていた。  「ここにこうしておこう。君の膝の上の花も全て。もしかしたら、花はもう一度元気を取り戻してくれるかもしれない」  白い花には、高い天井の葉っぱの隙間から溢れた木漏れ日が当たっていて、元の萎れた姿よりも嬉しそうに見えた。だから私は嬉しくて元気よく答えた。  「うん!」  私と男の子は木漏れ日の当たる場所に残った花を全て植えた。それから、私はもう一度花冠に使えそうな花を探しに行く。  「綺麗に咲いているお花は絶対に摘まないでね。摘んで良いのは元気のないお花だけよ」  「うん、わかった」  男の子と大事な約束をしてから、私はその場を離れた。  萎れた花をたくさん摘んで男の子の元に戻ると、男の子は背を向けて座っていた。男の子の背中に葉っぱが群れて影を落としている。私の足音で気が付いたのだろう。私が近寄る前に男の子はこちらを振り向き、笑顔を見せた。  隣まで歩いて行くと、「ほら、出来たよ」と言って輪っかになった花冠を見せてくれた。それから、私の頭の上に花冠を乗せる。  「ぴったりだ」  その言葉は大きさのことなのか、それとももう一つの意味なのか。わからないけれどとても照れくさかった。  「この摘んできたお花はどうしよう?」  スカートをバスケット代わりにして摘んできた、たくさんのお花を見せる私。男の子は困る様子もなく、「それは君が自分で作る分だよ」と言った。  「そっか。  じゃあ、わたしはあなたのために花冠を作るね!」  その場にしゃがみ込み、鼻息を荒くしながら見よう見まねで花を重ねる。男の子は「ありがとう」とくすくす笑って私を見ていた。  男の子に教えてもらいながらできた花冠は、私の頭に乗っているもののように綺麗な輪にはならなかった。所々が緩く歪み、輪にでこぼことたんこぶができている。それでも、男の子はできた花冠をかぶって「ありがとう、大事にするね」と言ってくれた。  「僕、もうそろそろ行かないと」  男の子は腕に付けていた時計を隠すような仕草で見た。私は時計を持っていないので時間がわからなかったけれど、太陽はまだまだ頭の上にある。きっと忙しい子なんだと思った。これから習い事に行くのかもしれない。  「じゃあ、またね、お嬢さん」  立ち去る男の子に、私は声を張り上げた。  「葉! 私の名前。葉っぱっていう漢字の、葉だよ」  男の子は振り返り、優しい目を大きくした。  「葉、とても良い名前だね。覚えておくよ」  「あなたは? あなたのお名前は?」  「僕は……」  男の子は考える仕草を見せる。それから離れて行こうとしていた身体を戻し、私の前で膝を折った。  「葉は、sylvanって知ってる?」  「シルバン?」  「そう、シルヴァン。  英語で、森に住む精霊って意味なんだ。  僕は、それだよ」  自らをシルヴァンと名乗る男の子の瞳が、木漏れ日に当たって樹液のように美しく茶色に輝いた。瞳が川のように揺れている。  「セイレイってなに? 妖精と同じ?」  「うーん、そうだね。似ているかもしれないね」  「そう、わかった。  妖精さん、あなたは妖精さんね」  偽りも、まやかしさえも知らない年頃。私は目の前の男の子を妖精と信じて疑わなかった。  「ありがとう、葉。またね」  男の子は私の頭に手を乗せると、一瞬でその場から姿を消した。

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