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 月曜日の朝、ダイニングに下りて行くといつもと同じ朝食が用意されていた。  「おはよう、葉」  すでに席についてコーヒーを啜っていたマイスターが声をかけてくれる。  「先日もらった食パンは柔らかくて美味しかったなあ。また食べたいから家でも是非作っておくれ」  マイスターは、私のことを弟子というよりかは自分の子供達と同じように接してくれているように思う。私が弟子入りを断ったのだから、当然といえば当然かもしれないけれど。そんなマイスターの優しさはいつも私の罪悪感に突き刺さる。  「はい、上手に作れるようになったら作ってみます」  マイスターは私の返事を聞いて、満足そうに頷いた。  12時に妖精さんの家のドアをノックすると、妖精さんは眉尻を下げて出てきた。  「やあ、葉ちゃん。体調はいかが?」  あれから二日も経っているのに、妖精さんはまだ私の身体を心配してくれていた。ただの早起きが、妖精さんにとっては「ただ」ではないことを思い知る。  「こんにちは、妖精さん。  私は大丈夫だよ。途中で眠ってしまったのが良かったみたい。私の体内時計も丈夫だね」  笑ってみせると、妖精さんも笑ってくれた。  その日はいつもの一杯をいただかずに森の中に行くことになった。その代わり、水筒のハーブティーが妖精さんの背負うリュックの中に入っている。森の巡回で少し遠いところまで行くということで、妖精さんは急いで小屋を出た。  「目的地までたどり着いたらティータイムにしよう。今日は特別なお茶を煎れたから、期待していて。  さあ、張り切って出かけよう」  妖精さんはいつもより少しだけゆっくりめに歩いてくれた。きっと長い道のりを歩くから、私の体力に配慮してくれたのだろう。それでも前を行く妖精さんを追いかけるだけで息が切れる。土を懸命に蹴って前に進んだ。  森の中ではあまり舗装されていない道も歩く。左側が高くなった崖の途中に細い道があり、そこを奥へ奥へと進んだ。  道の途中には、ちょうどそこに芽吹いてしまったのか、崖の先端から斜めにそびえ立つ大木があった。重たい体を支えるために伸ばした枝が、他の木に寄りかかっている。寄りかかられた木はさぞかし苦しい思いをしているだろう。見ると、あまり背の高くない太っちょの木だった。斜めに成長してしまった木を支えるために背を高く伸ばさず、下に重心を置くことを選んだのだろうか。そう思わずにはいられないほど二本の木は見るからに不恰好だ。  だけど、寄りかかられても一切の文句を言わず、自身を支えられるだけの強い身体に成長させた結果だとも言える。木は、どこまでも心優しい。土の上に競り出ている二本の木の根を、私は踏まないように跨いで歩いた。  森の奥に行くにつれて、若い木の存在が目立つようになっていく。私の腕くらいの太さしかない幹の幼木や、親指くらいの太さの幼木まであった。  細いのに懸命に枝を伸ばしたからだろうか、先が空を向かずに少し傾いてしまっている幼木もある。そういう幼木の周りには、決まって立派に幹をまっすぐ空へと伸ばしている背の高い幼木がある。斜めに伸びてしまった木は、立派な幼木に日光を取られてしまったから、あっちへこっちへと枝を伸ばして太陽の光を探したのかもしれない。  森の中では寡黙な優しさに出会うこともあれば、木々の日光をめぐる競争を目の当たりにすることもあった。  一時間ほど歩いただろうか。妖精さんの足はまだ止まらない。いつもよりだいぶ奥まで来ていると思うのに、妖精さんはそれでもまだ奥地を目指しているみたい。  森の中には何も目印になるものがない。多少は地形に変化があるけれど、どこを歩いても茶色と緑の道ばかりだ。大木や特徴的な木を目印にしたところで、昨日はあった木が倒れていることだってある。  妖精さんはどんな風にしてこの迷路みたいな森の中を把握しているのだろう。それとも、妖精さんみたいに樹木の種類に知識があれば、どこだって同じ道に見えなくなるのかな。知識があるのとないのとでは見ている世界が違うのかもしれない。私には同じ木に見える二本の木が、妖精さんの知識をもってすればまるで違う木に見えるように。  私も見たい、妖精さんの見ている世界を。私も知りたい、樹木の神秘を。  歩けば歩くほど深くなる森の中。人の手があまり入っていないはずの妖精さんの森は、鬱蒼と茂っているというよりは、統率が取れていて美しい。どの木も背が高いから人間が通る位置に枝や葉がなくてすっきりしているのがどうやらその理由みたいだ。やはり、ドイツの森は違う。  「もうそろそろ着くよ」  やっとこちらを振り返った妖精さんが言った。口調は穏やかだけれど、少しだけ強さを感じた。  ザワザワとした葉の擦れ合う音の奥に、サラサラと流れる水の音が聞こえてくる。狭かった土の道が開け、目の前に光が射した。やっと着いた場所は、森の奥地にある小さな小さな泉だった。  「お疲れさま、葉ちゃん」  笑顔の妖精さんの額には光るものがあった。私もここまで賢明に歩いてきたから、体中がぽかぽかしている。  森の中にある泉の上は、そこだけ天井に枝葉がない。透き通る水に太陽光が乱反射して水面は宝石よりも輝いている。木の生えていない水際は青々とした水草が生い茂っている。空も、水も、草までもが青い。森の中から見る青空は、いつもよりもずっと高く広く感じた。  泉の周りをぐるりと一周見渡す。春を過ぎて初夏を迎えた木々は精力的だ。どの木も若葉が瑞々しい。  その時、向こう岸に立つ一本の木が目に止まった。どの木も緑色の葉をつける中、その木だけは違う色をしている。全身が真っ赤。紅葉みたいな赤い葉を身に纏っていた。  「妖精さん、あの木。今が秋だと勘違いしちゃっているのかな?」  確か、桜も秋頃に一度真冬並みに寒くなってから暖かい日が来ると、春が来たと勘違いして花を咲かせることがあると聞いたことがある。あの木も同じだろうか。  妖精さんはいつもの柔和な表情をもっと歪ませて、それから  「紹介するよ」 と言って湖畔を歩き出した。  赤い木の側まできた。妖精さんはその木の幹に片手を添え、視線を徐々に上へと上げていく。妖精さんのする木への挨拶だ。でもその挨拶が、いつもより少しだけ艶めかしく感じた。  「この子はね、僕のフィアンセだよ」  妖精さんの言葉を聞いたとき、初めは何を言っているのか理解できなかった。そのフィアンセという人がどこにも見当たらなかったから。  妖精さんはじっと赤い葉の木を見つめたままだし、どこからか人が出てきたり、隠れたりしている気配もない。  とすると、どうやら今私の目の前にあるのが妖精さんのフィアンセということじゃないだろうか。この赤い葉を身に付けた『木』が。  近くにある岩肌に腰をかけ、妖精さんは背負っていたリュックを下ろした。中から水筒を取り出し、持ってきた木のマグカップに中身を注ぐ。スパイシーで甘い香りが微香をくすぐる。差し出されたマグカップを受け取り、一口啜った。まだ温かく、心まで癒される香り。今日の特別な一杯は蜂蜜を効かせたチャイティーだった。  「この赤い葉のブナを見つけた時、僕は今までになく心を揺さぶられたんだ。これが恋でなければ何を恋と呼べば良いのかわからないほどにね」  妖精さんはゆっくりと語り始める。マグカップから上がる湯気が、妖精さんの手と心を温めてくれるといいなと思いながら彼の話を聞いていた。  「この子はね、代謝に障害を抱えているんだ。光合成の時に、普通は緑色の光が不要になることを知っているかな? 樹木は太陽の光の中で緑色の波長の光だけは身体に取り込むことができない。だからその光は外に漏れて、樹木の葉は僕たちの目に緑色に見えるのだよ。  だけどこの子はね、その緑色の光を身体に取り込んでいるんだ。その代わりに赤色の光を不要としているから葉が赤くなっているんだよ。決して紅葉しているわけではない。  普通と違うというのは悪いことじゃない。むしろ美しい見た目から人目を引きつけることもある。けれども一般的には使わない緑色の光を使うことで、この子の身体には負担がかかってしまっていることは確かだ。この子の光合成の効率はかなり悪くて、成長が遅い。僕とは真逆の成長スピードだけれど、僕は同じような病気を抱えるこの子にたまらなく引き寄せられた」  妖精さんが赤いブナの木を見つめると、長い睫毛が揺らいだ。ブナの木は、妖精さんに熱く見つめられて照れて赤くなっているように見えた。  「成長スピードは遅いけれど、この子の寿命は短い。変種と呼ばれる樹木だからね。変種はだいたい長生きができない。身体の器官が普通とは違うというのは、そういうことなんだ」  ああ、そういうことか。  私の中で何かがすとんと上手い具合にハマり合う音が聞こえた。だって今目の前には、同じ運命を背負う二つの生命体があるのだから。  「その指輪は?」  妖精さんの薬指にしっかりと填められた指輪を指差した。艶やかで、丸い木の指輪。  「これは、この子の枝から作ってもらったんだよ。僕の親愛の証だ。法律上、樹木と人間は婚姻関係にはなれないからね。せめて形だけでもと思って」  妖精さんは笑っていたけれど、心は笑っていない気がした。  「葉ちゃんに怒られないように言っておくけれど、落ちている枝を拾って指輪を作ったからね。この子を故意に傷つける真似はしていないよ」  「でもそれだと、落ちていた枝が本当にこの子のものかどうか怪しいね。近くにブナの木は何本かあるわけだし」  「いじわるだなあ。間違いなくこの子の枝だと思っているんだから脅かさないでよ」  妖精さんは笑った。今度は心から笑ってくれていた。  赤い葉のブナの元で甘いチャイティーと湖畔の景色を堪能したところで、私たちはすぐに引き返すことにした。現時点で14時を回っていて、16時の就寝時間までに帰るにはのんびりもしていられないから。  帰る前に、私だけ先に湖畔の反対側へ移動することにした。恋人同士の時間を邪魔してしまったせめてものお詫びだ。妖精さんは照れたように頭を掻いていたけれど、私が先に行っても何も言わなかった。  湖畔を挟んで恋人の木に寄り添う妖精さんを盗み見る。幹に手を付き、じっと赤い葉の方を見上げている。口元が微かに動いているような気がした。この日見た一本の木と一人の人間の姿を、私は生涯忘れられないような気がした。  妖精さんがこちら側に来ると、手にはリュックに入らない長さの枝を持っていた。杖にするには短い。また恋人の枝を持って帰るつもりなのかもしれないから、私は何も尋ねなかった。  「さあ、帰ろう。急ぎ足になるかもしれないから、足下に気を付けてね」  妖精さんの急ぎ足ってどれほど早いのだろう。私はほぼ走る覚悟を決めた。  結局、この湖畔には三十分もいられなかった。とても気持ちの良い場所だからピクニックでもしたいけれど、妖精さんの就寝時間を考えるとそうもいかない。妖精さんは恋人に会いに来ても毎回この短い滞在時間しか得られないんだ。だからこそいつも側にいられるように恋人の指輪が欲しかったのかもしれない。  私は帰り道の間中ずっと、お母さんの木のことを思い出していた。

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