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 妖精さんの体内時計が狂い始めたのは、それから間もなくしてのことだった。  いつもより早く寝たり、遅くまで眠っていたりした時から様子がおかしいことには気が付いていた。でもまさか、こんなことになるなんて。  マイスターのところでの修行は朝から始まり、10時には一旦休憩に入る。その時間、ドイツでは二度目の朝食を摂る時間だから全員が手を休めてリビングに上がることになっている。  けれども私はリビングには向かわず、毎日妖精さんの家まで走った。  「やあ、葉ちゃん。いらっしゃい。今日も美味しいパンが焼けているよ」  それまで11時に目覚めて12時頃に共に過ごしていたお茶の時間は、私の修行と、妖精さんの仕事の合間を考慮して10時の軽い食事に変更されることになっていた。  今日も妖精さんは早朝に焼いたパンをダイニングのテーブルに並べてくれている。甘いシナモンが香るパンだ。  妖精さんはこれまで8時から11時までの間は睡眠中だったはずなのに、この10時の食事をする時には一度だって欠伸をしたり、眠そうに目をこすったりする素振りをしたことがない。それどころか、朝6時に起きて夜は10時に就寝するまで一度の仮眠も取らないみたいだった。  妖精さんの毎日は、世界基準に合わせた私の作った腕時計に支配されているかのように、一般的な生活時間へと劇的な変化を遂げていた。それは、妖精さんの体内時計が歩みを遅めて私と同じくらいゆっくりと進んでいるということを表す。  「それにしても、本当に不思議だね。妖精さんの頑固だった体内時計が、ゆっくり進むようになるなんて」  「ああ。奇跡、というよりか嘘みたいな魔法にかかっている気分だよ」  それってどんな気分なのだろう。聞きたかったけれど、私は質問を飲み込んだ。何となく、聞いてはいけないような気がしたから。  代わりに違う質問をしてみることにする。  「活動時間が変わって、今はどんな風に一日を過ごしているの?」  妖精さんは嬉々として教えてくれた。  「朝は太陽の目覚めと共に起床して、夜はたっぷりと自分の時間を確保した後でふかふかのベッドで横になるんだ。  それに、日中に動ける時間が六時間も増えたことが大きいよ。眠る心配もしなくていいから、動きに制限がなくて自由なんだ。毎日何をして過ごそうかと考えながら暮らしているほどだよ。」  聞いてみると、私にとってはなんてことのない普通・・のことだった。でもそれが当たり前なんかじゃなくて、喜ばしいことなのだと知る。  「それからね、今までの僕の体は8時間=1日のサイクルに合わせて、起きている間の5時間に体力を消耗させるようにできていたんだなって気が付いたんだ」  あ、と私の声が漏れる。  「それはなんとなくわかるかも。  妖精さん、以前は歩く速度が異常に速かったけれど、今はなんだか私に合わせてくれているみたい」  妖精さんは鼻の頭を人差し指で掻いた。  「それは気が付かなかったな……。  でもそういうことの積み重ねで早くに消耗していた僕の体力が、今では夜の10時まで保つようになったんだ。もしかしたら話す速度だってゆったりになっていないかな?」  それを聞いて、私は思わず笑い出す。  だって妖精さんは体内時計が速い時から話す速度がゆったりな人なんだ。これ以上ゆったりしていたら会話に早送りが必要になってしまう。  「大丈夫、それはないみたい。今まで通りだよ」  妖精さんが胸をなで下ろすのがわかった。私の好きな妖精さんの話し方、できればこの先もずっと変わらずにいて欲しい。  「きっと赤い葉のブナの木が妖精さんに魔法をかけてくれたんだね」  そう言ってから、ピンと頭に浮かぶものがあったのですぐに口に出していた。  「そうだ! 今度の天気が良い日にピクニックに出かけようよ。彼女の所でランチをするの。この前は時間があまりなくてゆっくりできなかったけれど、今なら優雅なランチができるかも。  それに、私も彼女にお礼がしたいからまた連れて行って欲しいな」  二つ返事でオーケーしてくれると思っていた妖精さんの瞳が宙を彷徨う。  それでも空中散歩から戻ってきた妖精さんの瞳は少し笑っていた。  「いいね。楽しそうだ。  せっかくだから、一緒にプレッツェルを焼いていくのはどう? 葉ちゃん、焼いてみたいって言っていたよね?」  二つ返事をしたのは、私の方だった。    マイスターの工房が休みになる土曜日、快晴の空はまさにピクニック日和。ラジオから聞こえる午後の天気予報も悪くない。6時に起きて支度をし、十分後には家を出た。  妖精さんの小屋まで着くと、ノックをして中に入る。部屋の中は妖精さんが起きたばかりの匂いがした。  「早かったね。もう少し時間がかかるかと思っていたから、ベッドの上でなかなか起きられずにうとうとしていたところだよ」  「6時に起きて、天気を確認して大丈夫そうならすぐに行くよって伝えてあったでしょう。  それに、早くパンを焼き始めた方が良いかと思って」  妖精さんはかろうじてパジャマから私服に着替えていたところだったみたい。洗面所で顔を洗って歯を磨き、髪の毛を櫛でとかしてからダイニングに戻ってきた。  「そうだね、葉ちゃんの言う通りだ。  早速パン作りを始めようじゃないか」  なぜかキリッとした眉毛で格好をつけている妖精さん。  「でもその前に……」  言い残してキッチンに向かうと、アカシアのボウルにたっぷりと注がれたキノコのスープを二人分持ってきてくれた。さっきから漂っていた美味しそうな香りはこれだったんだ。  「腹が減っては戦はできぬ、だよ。  召し上がれ、葉ちゃん」  「私たち、これから戦はしないけれどね」  笑い合って、いただきますをして、二人で食べるスープはほっこりとする味だった。普段の朝食では温かいものは出てこないので、体の芯から温まる。日本にいる時におばあちゃんが作ってくれたお味噌汁を思い出す。  「それじゃあ、始めよう。  この間みたく僕が葉ちゃんに指示をしていくね」  妖精さんとお揃いのエプロンを着けて、二人して新婚さんみたいになってプレッツェル作りが始まった。  まずは水とドライイーストを混ぜ合わせる。  次に大きめのボウルに中力粉とはちみつ、ひとつまみの塩を入れて軽く混ぜた後、水とイーストを合わせたものを加える。少し混ぜた後でまた中力粉を加えてゴムベラで練った。一つのまとまりになるまでよく練り上げる。これだけでも意外と両腕に力の入る作業だ。パン屋さんて可愛いイメージだったけれど、みんな腕の筋肉が鍛え上げられているのかもしれない。ちらりと妖精さんの腕を盗み見る。確かに、おじいさんにしては血管が浮き出るような力強い腕をしていた。  生地が一つにまとまると、台の上に移して手で捏ねる作業だ。今回は妖精さんと私とで、少しずつ交互に捏ねた。妖精さんは前回と同じくらい楽しそうに捏ねている。毎朝こんなに一生懸命にパンを捏ねていたら、五時間程度で体力を消耗して眠くなってしまうのも頷ける。  3回ずつ捏ねを繰り返したところで、妖精さんが生地を薄く伸ばした。向こう側が透けて見えそうなほど生地は薄く伸ばされているけれど、切れることはない。合格みたい。  「でもこれで捏ねる作業が終わりってわけじゃないよ」  妖精さんがキッチンの棚からオリーブオイルを取り出す。生地の上にオイルを垂らしてもう一度捏ねるように私に指示した。  「わあ、すっごくネチョネチョだ。なんだか触っちゃいけないものを触っているみたい」  子供の頃に作って失敗したゆるゆるのスライムを触っているような感触で、久しぶりのその感触はいたずらをしているような背徳感があった。  「でも葉ちゃん、すごく良い笑顔だ」  手のひらも台も生地もオイルのおかげでぬるぬるだ。それがなんだか楽しかった。  不思議なもので、あんなに混ざる素振りを見せなかった生地とオイルも根気良く捏ねていると一つにまとまってくるものだ。台の上からも、手のひらからもオイルの姿が消えて生地に吸い込まれた。オイルを吸収した生地は心なしかふっくらとしている。  「これでようやく捏ねが終了だ。少しだけ発酵させるから、その間にラウゲン液を作ろう」  「ラウゲン液?」  「重曹を水で溶かして沸騰させたものだよ。これに生地を浸すことでプレッツェル特有の色と表面に仕上がるんだ」  ラウゲン液を作りながら一次発酵を待つ。一次発酵の後は生地を小さく八当分して、丸めて、伸ばして、三つ折りにして。それから真ん中が分厚くなるように端っこだけを伸ばしていく。細く伸ばした両端を結んで折り返して太い部分にくっつけたら、まあるいハート型になった。  二次発酵が終わったら沸騰させたラウゲン液に生地を浸ける。取り出した生地は鉄板に並べて、ハートの下の部分にクープと呼ばれる切り込みを入れた。同じ箇所に岩塩を少量ちらしてオーブンに入れたら、後は待つばかり。  パンが焼けるのを待つ間は少しの疲労感と眠気のまどろみが訪れる。徐々に濃くなる香ばしい香りは朝一の仕事に達成感を与えてくれた。  焼きたてを早く食べてしまいたい衝動を抑えてバスケットにプレッツェルを詰め、ランチボックスにはその他の食材を入れた。ハムとチーズに、サラダとフルーツ。  「うわぁ、美味しそう。待ちきれないよ。  妖精さん、早く出発しよう」  はいはいと私をたしなめるように返事をした後、妖精さんの出かける準備が整って私たちは家を出た。  妖精さんの歩調がゆるやかになったことで、私は初めて妖精さんの隣を歩いた。視線を交じ合わせながら、私のなんでもない修行中の話を楽しそうに聞いてくれる妖精さん。少し前までの走るように歩く妖精さんの後ろ姿を追いかけることが、私は寂しかったのだと気が付く。  妖精さんが私と同じ時間を生きてくれていることは彼の歩調が証明していたけれど、それでも時計を確認する癖は抜けなかった。10時に家を出発して一時間位が経っているので、起床した6時からは五時間が経過している。今までの妖精さんならいつ倒れるように眠ってしまってもおかしくはない。妖精さんを見つめる目に力が入る。  「どうしたの、葉ちゃん。口数が少なくなってきたみたいだけど、疲れちゃった?」  「ううん、そんなことないよ。  ただ……」  「ただ?」  妖精さんを心配していると言えば、きっと妖精さんは傷つく。せっかく体内時計が正常さを取り戻しているのに、私が疑っているみたいに聞こえるかもしれない。  口ごもっていると、無意識に触っていた腕時計を妖精さんが見ている視線を感じた。慌てて手を引っ込めるけれど、もう遅い。  「心配してくれているんだね」  妖精さんの視線が痛かった。  「ごめんなさい。疑っているわけじゃないの。ただ、妖精さんの睡眠時間を守ることが私の役目だったから」  「大丈夫。  僕だって自分の体内時計が信じられなくて戸惑っているんだ。葉ちゃんが心配になるのも無理はないよ。  だから、眠たくなったらきちんとそう言うね。今から寝るよって伝えてから眠るから、安心して」  「それじゃあ困るよ! 眠たくなる前に教えてくれないと、森の中で野宿することになっちゃう」  「ピクニックじゃなくて、キャンプの用意をしてくるべきだったね」  冗談を言ってケラケラと笑う妖精さんを見て、なんとなくもう大丈夫だと思えた。  森の中を一時間半は歩いたけれど、なかなか赤い葉のブナの木が立つ泉にはたどり着かない。以前に行った時とは歩調が違いすぎて、あとどのくらい歩けば着くのか全くわからないでいた。  それから二時間以上歩いて本当の意味で口数が減ってきた時、ようやくゴールが見えてきた。  小さな泉は、相変わらず美しくそこにあった。水面は空よりも碧く輝いている。対岸に立つブナの木の真っ赤な葉とのコントラストに目が眩んだ。  レジャーシートは当たり前のようにブナの木の根元に敷いた。今日は私と妖精さんの二人だけのピクニックではない。妖精さんの恋人も含めた、二人と一本でのピクニックだ。風に揺れて鳴る葉の擦れる音が彼女の笑い声となる。  妖精さんと作ったプレッツェルを食べ、妖精さんが煎れてくれたハーブティーを飲む。木々の笑い声と鳥のさえずりが絶え間なく私の耳をくすぐった。悠久と思える時が流れていく。  きっと妖精さんもこれほど長く彼女と一緒に居られたことはないのだろう。笑顔が絶えず、彼女を見つめる瞳は前にも増して湿っているように見えた。  良かったね、妖精さん。これからはいつでも彼女と自由に会える。  言葉にはしなかったけれど、私は心の中で何度も赤い葉のブナの木にお礼を言った。恋人であるこの木が妖精さんに力を貸してくれたことは間違いないと思うから。長年生きている木には、そういう不思議な力や想いが宿るものだと信じているから。  楽しいランチ会は食事と飲み物の終わりと共に訪れた。お互いにハーブティーが空になった頃合いで立ち上がり、帰り支度を始める。丁度森の中に寒い空気が流れてきた頃だった。  持ってきたものを全て抱えると、妖精さんはブナの木に手を当てて強く瞳を閉じた。  「ありがとう。じゃあね」  それはなんてことのない別れの挨拶だったけれど、妖精さんの瞳の色があまりにも強く光りすぎていた。  「またいつでも会えるじゃない」  一瞬だけ感じた不安をかき消すように笑って言ったけれど、妖精さんはいつもみたいに笑ってはくれなかった。それどころか、ますます瞳の色が濃くなっていく。  「また、会えるでしょう?」  私は星に願うように妖精さんに問いかけた。  妖精さんは口をつぐんだまま答えない。  「妖精さん!」  私は妖精さんの両肩を掴んでいた。  「また会えるって言ってよ! どうして黙っているの?  彼女もこんなに元気だし、妖精さんだって動ける時間が増えた。なんの問題もないはずだよ」  妖精さんは私と目を合わせない。苦しそうな表情に、私は彼を掴んでいた手を離した。  「ごめん、葉ちゃん」  それは、言いたくて言った謝罪ではなかった。本当なら黙っていたかった。そんな風に聞こえた。  「ごめん、て、どういうこと?」  それでも私は問いただす。謝ったからには、私には聞く権利があるということだから。  妖精さんはまだ私を見ないようにして、言葉を探している。でもどうやら適切な言葉は見つからなかったらしい。妖精さんの言葉はあまりにも直接的過ぎた。  「この子は売ることにしたんだ。数日後には切られる」  その言葉を聞いた時、お母さんの木が目の前で倒れる映像が頭に流れた。  お母さんの木はなぜか赤い葉をところどころに付けていて、覚えているよりも背が低くなっている。それから私の元に駆け寄ってきたのはお父さんではなく、妖精さんに変換されていた。  「妖精さんもお父さんと同じだったんだ。  結局、木は林業者によってお金に換えられる運命なんだ」  私は軽蔑の目を妖精さんにわざと向ける。  「それは、そうかもしれない。全ての樹木がそうなる運命とは限らないけれど、否定はしないよ」  「どうして? どうして大切な木なのに切ることができるの? それとも妖精さんにとって、この木はそれほど特別じゃなかったってこと?」  「僕にとって樹木はみんな特別だ。確かにこの子には他の木にはない思い入れがあるけれど、だからと言って僕の個人的な想いだけで森全体に関わる間伐を拒否することはできない」  「わからない、それでもわからないよ。  木が大切なら、切らなきゃ良いじゃない!」  「葉ちゃん」  妖精さんの声が低く鳴り、泉の上を風が渡った。強い風に髪がなびいて、一瞬目が開けていられなくなる。  もう一度目を開けた時、ブナの木を背にした妖精さんは私の目をしっかりと見ていた。  「前にも話した通り、世の中は弱肉強食だ。僕たちにも他の動物たちにも木は食料として、道具として重要な生物で、僕たちは木に依存している。今更木を使わないで生きていくことは不可能だろう。それは僕たちが牛や豚を食べ、他の植物を食べるのと何ら変わらない。僕たちは他の生き物の命をもらって生きている」  私は返事をしたくなかった。  「それにね、この子は病気だから。長く生きることが難しいんだ。このままここに長く立っていたとしても、もってあと十数年かもしれない。  それよりは買い手のつくうちに幹を切り倒し、マイスターのような腕のある職人に加工してもらった方がこの子にとっても良いかもしれないと僕は思うんだ。僕たちの道具にはなってしまうけれど、僕たちと一緒にこの子はこの先何十年も生きていける。君が加工してくれたこの腕時計のようにね」  私はまだ返事ができない。妖精さんの言うことを頭では理解できるけれど、どうしても感情がついていかない。  自分の命をどう全うするかなんて、決めるのはどんな生物であっても自分自身であって欲しいと願うのは間違っていることなのだろうか。会話ができない相手だといつだってそれを決めるのは人間だ。それはきっと知性に理性、深い感情を持ち合わせてしまった人間の罪じゃないだろうか。  妖精さんは私の様子をしばらく見て、それから泉とは反対側の森に足を向けた。少し歩いて立ち止まり、「こっちに来てごらん」と私に向かって叫んでいる。

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