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 12時を過ぎた頃、妖精さんが昼食を用意してくれると言うので好意に甘えて一緒に食べることにした。  それともう一つ、妖精さんの好意に甘えたことがある。  「年齢はだいぶ離れてしまったけれど、敬語は無しにしよう。昔のままだと嬉しいな」  どんな態度で接して良いか悩む私に気が付いて、妖精さんが提案してくれたことだった。私はその提案を戸惑いつつも、有り難く受け入れることにする。  ドイツでは昼食の時だけ火を使って調理をする習慣がある。妖精さんもガスコンロに火を付けて料理を始めた。三十分程待っていると、アカシアの器にたっぷりと注がれたクリームシチューに、小麦粉とライ麦粉がミックスされたハードなパンが数種類テーブルの上に並べられる。  「僕、日本の『いただきます』という文化が好きなんだ」  そう言って笑顔を作り、妖精さんは私と一緒にいただきますを言ってくれた。  こっちに来てから一度も言えなかった「いただきます」を、妖精さんは言わせてくれた。普段「いただきます」と言うとマイスターの家族や弟子たちに不思議がられると思ってずっと言えずにいたけれど、それで少しずつフラストレーションが溜まっていたからやっと言えて嬉しかった。  「そういえば、どうしてまたこっちに戻ってきたの?」  パンを千切った指を皿の上で擦り合わせながら、妖精さんは私に聞く。  「お父さんに言われたからだよ」  返した言葉が少しだけキツくなってしまった。けれども妖精さんは気にする風もなく、質問を被せてくる。  「お父さんはなぜ君をこっちに来させたかったのだろう?」  「私に木の勉強をさせるためだよ。  私、大学で建築学を学んでいてこの春卒業するの。その後は都内の小さな建設会社に内定が決まっていたのに、お父さんが地元に戻って来いってうるさくて。建築をするなら木を扱うべきだって。これからの時代に絶対に必要になるのは木だって言って、聞かないの。  私は木なんて絶対に建材として使わないって言っているのに。全く私の話を聞かなくて」  「そうか。君のお父さんは確かマイスターの元で修行をした木のプロだもんね」  「だとしても、迷惑な話だよ。  私の就職先まで勝手に地元の知り合いのところで取り付けてしまって、都内の内定は取り消さざるを得なくなってしまったの。地元の企業は木に特化した専門店だから、一年位ドイツのマイスターの元で修行してから戻って来いって。  それで、この通りです」  ぶっきらぼうにパンを千切って頬張る私を見て、妖精さんは小さく笑った。  本当にお父さんの頑固さには困ったものだ。私が県外の大学に行くと言った時も、一人暮らしをすると言った時も「好きにするといい」とだけ言って無関心を貫いていたのに。就職先が決まったと連絡をした途端に勝手に動き出してしまった。  一度決めてしまったら、お父さんには何を言っても通じない。それでも木を建材として扱いたくなくて、私はお父さんに異議を申し立てた。何度も何度も言葉をぶつける。「お父さんのようにはなりたくない」のだと。  するとお父さんは言った。  「マイスターのところに行くことだけは了承しろ。帰ってきてからは、お前の好きにするといい」  それだけ言うと、電話は切れた。すぐにかけ直したけれど、お父さんが電話を取ってくれることはなかった。  「そうか、そうか。  でもこんな平日の昼間にこうしてここに居るということは、君の修行はさぞかし捗っているということなんだろうね」  妖精さんが意地悪く、静かに笑う。  「お察しの通りです」  私が言うと、妖精さんは今度は大きく笑った。  「それにしても、君に樹木を建材として扱えだなんて、信じられないくらいに酷な話だね」  妖精さんはもう笑っていなかった。妖精さんの言葉を聞いて、私も顔が固くなる。  「もしかして、覚えてくれているの?」  「ああ、もちろんだとも。忘れないさ。  樹木が大好きで、大好きだからこそ樹木から作られたものが可哀想で使えない。小さな葉ちゃんを忘れるわけないよ。  僕が『君が毎日使っている色鉛筆と紙も樹木から作られているんだよ』って教えたら、『どうしよう、明日からもう色鉛筆も紙も使えない。どうやってお絵書きしたら良いの』って泣いちゃったもんね」  「そんな昔の話、恥ずかしい……」  「恥ずかしくなんかないさ。とても心の優しい女の子だと、その時僕は思ったよ。  今でも変わっていないようで安心した」  優しいか。優しいって何だろう。  きっと本当に心の優しい人ならば、牛や豚の肉だって食べることができないのだろうなと思う。家畜の命を奪ってまで自分が美味しい想いをして生きたいと願わないのだろう。でも私は大丈夫。鶏肉だって、魚だって平気でいただく。奪うことに強い抵抗があるのは、何百年も生きている木々の命だけ。自分にとって大事な命が奪われることが許せないだけ。  だから私はきっと優しくなんかない。  あんなことさえなければ、私は木々の命さえ軽く見ていただろうから。                *  大きな平屋の家の中、小さい私は布団に横たわっているお母さんの部屋で遊ぶことが大好きだった。  お母さんは昼も夜も関係なくずっとパジャマを着て畳の部屋で眠っていた。だから朝は私が起こしてあげて、昼も起きていられるようにずっとおしゃべりをして遊んであげた。私と一緒にいれば、お母さんは上半身だけ身体を起こして嬉しそうに笑っていたから。  お母さんは、調子が良い時は布団の上でたくさんの歌を歌って聞かせてくれた。お母さんの声は細くて柔らかい。お母さんみたいに歌えるようになりたくて、私もお母さんと一緒にたくさん歌を歌って覚えた。  お母さんが歌えない時には、私が一人で歌って聞かせてあげたりもした。お母さんは布団の中で横になりながら、私の歌を聞いていた。  そういう時、私は子守歌のつもりで歌っていたけれど、部屋に入ってきたおばあちゃんには  「葉はお外で遊んでいらっしゃい。お母さんは疲れているから眠らせてあげて」 と言われて部屋を追い出されることが多かった。  おばあちゃんに外で遊ぶように言われた後は、家の隣の工房をちらっと盗み見てから庭の先に広がる森の中に入って遊んだ。  森の奥には私が三十人位積み重なっても天辺までたどり着けないんじゃないかと思うくらい大きな大きなナラの大木があった。その大木はすらりと美しい幹をしている。それから頂上付近だけに広げた枝葉はどこから見ても左右対称のような形をしていてとても美しかった。だから私はそのナラの大木が大好きだった。  秋になるとナラの大木の下にはどんぐりが沢山落ちていたから、それを拾い集めては家に持ち帰った。それからお母さんの布団の周りにどんぐりを並べて遊んだ。時々どんぐりに顔を書いてあげたりすると、お母さんはすごく嬉しそうにそのどんぐりを大切にしてくれた。  そうして遊んでいるうちに、いつの間にかお母さんは家の中から姿を消した。お母さんの部屋には布団もなくなって、いつも布団が敷いてあった場所の畳だけ緑色が濃くなっていた。  「またお母さんに会えるからね。だから良い子に家で待っていようね」  おばあちゃんにそう言われて、私はずっと待っていた。  けれど、お母さんが次に家に帰ってきたときにはずっと顔に白い布を被せられていて、お母さんの笑顔を見ることができなかった。  そのうちにお母さんの部屋には黒い服を着た人たちがたくさん集まってきて、私も黒いワンピースを着させられた。お母さんは布団じゃなくて箱の中で眠っている。お坊さんが読むお経というものは長くて退屈で、早くお母さんと一緒におしゃべりがしたいと思っていたけれど、私の手はずっと横のおばあちゃんに握られていたので私は動くことができなかった。  それからもお母さんが家に戻ってくることはなかった。  お母さんがいないと私は家で遊ぶことがない。だから毎日ずっと森の中に入って行き、ナラの大木の元で過ごした。  私はナラの木の下でいつもお母さんに教えてもらった歌を歌っていた。  それで、ある時気が付いた。  ナラの大木の下で一人で歌を歌っていると、お母さんの声が聞こえてくることに。  お母さんは私の歌に合わせて歌ってくれている。森のくまさんを歌えば、お母さんは後から追いかけるように私に続いて歌ってくれたし、きらきら星を歌えば、輝くような透き通った声で一緒に歌ってくれた。姿は見えないけれど、間違いなく私の大好きなお母さんの歌声が、頭上の葉っぱの方から聞こえてきていた。  だから私は、そのナラの大木をいつの間にか「お母さんの木」と呼んでいた。  毎日森に出かける私に、おばあちゃんが「いつもどこで何をして遊んでいるの」と聞いたことがある。  私はおばあちゃんには正直に話した。森にはナラの大木があること、そこでいつも遊んでいること、そのナラの大木からはお母さんの歌声が聞こえてくること、そして私がその大木を「お母さんの木」と呼んでいることを。  おばあちゃんは、幼い私の妄想のような話をひどく真剣に聞いてくれていた。 そして、  「その木にはきっとお母さんの魂が宿っているんだね。葉のことをいつも見守ってくれているんだよ」 と涙ぐみながら教えてくれた。  私には「宿る」という意味がよく理解できなかったけれど、お母さんはあの木を通じて私に会いにきてくれている。そんな気がしていた。  そんなある日、日曜日でもないのに工房からチェーンソーのけたたましい音や、トンカチを叩く音が響いてこない日があった。  工房がお休みの時はおじいちゃんとお父さんは家の中にいるのに、二人とも家の中に姿が見えない。工房を覗いてみてもやっぱり真っ暗。  ちょっとだけおじいちゃんとお父さんがどこに行ってしまったのか気になったけれど、私は一刻も早くお母さんの木に会いたかったから森の中に入って行った。  朝ご飯を食べている時に言われた、「今日は森の中で遊んじゃダメだよ、危ないからね。おばあちゃんと一緒に家の中に居てね」という忠告をすっかり忘れて。  森の中に入ると、どこかいつもと違う空気が漂っていた。いつもは澄んだ瑞々しい空気が流れているのに、その日はどこか埃っぽい空気だった。木漏れ日には浮いた砂がキラキラと輝いて見えている。鹿や猪が山から降りてきている時、ちょうどこんな空気になることがあった。何かが森を荒らしている。そういう空気だった。  私は一心不乱にお母さんの木まで走った。こういう空気の時は危ないから森の奥に入らないようにしていたけれど、なぜかその時は胸騒ぎがしていた。動かないはずの木々が、私のために道を開けてくれているような感じさえする。早くお母さんの木まで走りなさい。そう言われているようだった。  やっとお母さんの木が見える場所まで走ってきた時には、もう足は震えて息が上がっていた。近くの細い木に手を付き、ありったけの空気を吸っては吐き出す。耳には自分の心臓がバクバクと脈打つ音が聞こえてくる。  お母さんの木は、いつもと同じようにそこにあった。埃っぽい空気で霞がかって、景色が白く見える。やっと息が落ち着いてきて、もう少し近くに寄ろうとしたその時だった。お母さんの木の後ろから、お父さんが出てくるのを見たのは。  お父さんはヘルメットを被っていた。手をお母さんの木に軽く叩くようにして何度も当てたり、上を仰ぎ見たりしている。工房に居ないと思ったら、森の中に居たんだ。  「おとうさ……」  駆け寄ろうとした時、お母さんの木の周りに他にも沢山の大人たちが居ることに気が付いた。大人たちは皆同じようにヘルメットを被っていて、その中にはおじいちゃんの姿もある。  みんな、お母さんの木を見ていた。お母さんの木を取り囲んで、話をしていた。うっすらとしか聞き取れなかったけれど、その声は「この木が良いでしょう」とか、「ええ、これなら高く買い取りますよ」とか、そういう声だった。  お母さんの木に何かをしようとしている、それだけははっきりとわかって怖かった。  私はお母さんの木に近寄れずに、少し離れた木の影に隠れて大人たちの様子を伺った。早くお母さんの木から離れて行ってくれないかな。そう願っていた。  「よし、じゃあやりますか」  おじいちゃんの声がした。  「皆さん、離れてください」  お父さんの声もした。  それから、やっと大人たちがお母さんの木から離れて行った。これでようやくお母さんの木に近づくことができる。そう思った。  次の瞬間、けたたましいチェーンソーの音が森中に響きわたり、木の枝で一休みしていた鳥たちが一斉に空に羽ばたいた。ものすごく大きい音がして、怖くて足がすくんだ。耳を両手で塞ぎ、しゃがみ込んで恐怖が過ぎ去るのを待つ。  チェーンソーの音は、しばらく鳴り止まなかった。工房で聞くよりも大きな音で、心臓にまで響いてくる。怖かった。涙が出た。  ようやく鳴り止んだ時には、森の空気は一層埃っぽく煙っていた。粉っぽい空気が目の前を流れる。  溜まった涙を拭い、背にしていた木から振り返ってお母さんの木を見る。おじいちゃんだけが木の側に居て、そのおじいちゃんもお母さんの木から少し離れるところだった。おじいちゃんが居た場所からは粉っぽい煙が上がり続けている。ようやくその煙が晴れた時、お母さんの木がぽっかりと口を開けていることに気が付いた。  すらりと伸びた幹の根本付近が、三角形に切り取られていた。その口は、幹の四分の一程度まで深く刻まれている。  お母さんの木が危ない。  頭でそう認識できた時、おじいちゃんがまたお母さんの木の近くに現れた。今度は開いた口の反対側に居て、もう一度チェーンソーを握りなおしている。  そして、森の中に再びチェーンソーの動く音が流れた。おじいちゃんがチェーンソーの刃をお母さんの木にあてがう。高い高い悲鳴のような音が森中に響きわたった。  チェーンソーの刃は、みるみるうちに幹の真ん中あたりまで進む。お母さんの木の枝葉が揺れた気がした。これ以上チェーンソーで切られたら、お母さんの木が倒れてしまう。私は無我夢中で走り出した。  「やめて!」  おじいちゃんを目掛けて走ったつもりが、よろけてお母さんの木の方向になった。それでも足を踏ん張って、土を蹴って走る。  「もうやめて! 切らないで!」  私の声は、おじいちゃんには全く届いていなかった。チェーンソーの音と、木が切られる悲鳴とでかき消されていたんだと思う。おじいちゃんは難しい顔をしながら、お母さんの木を切り続けていた。  もう少しでお母さんの木に辿り着けるという時、私は誰かに抱きすくめられた。  「危ない!」  その人が私を抱きしめた時、目の前で、お母さんの木が大きく揺らいだ。  「お母さん!」  私は泣いていた。泣き叫びながら、お母さんの木が倒れるのを見ていた。  「お母さん! お母さん!」  私を抱きしめる人の手から逃れようと暴れるけれど、その人は強く私を抱きしめて離さなかった。  お母さんの木が倒れた時、太鼓よりも、花火よりも大きな音が鳴り響いた。心臓の奥にまで響いて、その音は私の心に深く染み着いた。  土埃が舞い上がって、辺りに広がる。私が咳こむと、私を抱いていた人が私の顔を自分の胸に押し当てた。苦しかった。お母さんの木が見えなかった。  私が咳こむのを止めると、森はシンと静まり返っていた。先ほどまでの騒がしい音が嘘みたいに聞こえない。誰も、何も動いていなかった。  「どうしてここに居るんだ」  やがて、頭の上から厳しく私を責めるような声がした。胸に押し当てられた顔を上げると、そこにはお父さんの顔があった。  「危ないから、今日は森に入るなと言ってあっただろう」  「お父さん、お母さんが……お母さんの木が」  私は、お父さんに怒られたことと、お母さんの木が倒されてしまったことと、両方が悲しくて泣いた。お父さんにはお母さんの木が倒れてしまったことの悲しさを伝えたかったけれど、どうしても言葉が出てこなかった。  すると、お父さんは私を見ずにこう呟いた。  「あの木は、今が売り時だったんだ」  それからお父さんは私をその場所に残して倒れたお母さんの木の元へと歩み寄った。お父さんとおじいちゃん、数人の大人たちがお母さんの木を取り囲む。私は何もできずに、立ち上がりもせずに、その場にしゃがみ込んでそれを見ていた。  大人たちがようやく森から出て行くと、お母さんの木も無くなっていた。切られた幹の痕跡だけが残されている。私は立ち上がり、切り株となったお母さんの木までヨロヨロと歩いた。  私は歌を歌った。お母さんの木に寄り添いながら、何度も何度もお母さんに教えてもらった歌を歌った。けれども、お母さんの木は一度も私の歌に合わせて歌ってはくれなかった。  「あるうひ、もりの、っく、なか…くまさんに、っひっく、でああった」  その日から、お母さんの木が歌ってくれることは一度もなかった。

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