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 妖精さんの仕事は、主に二種類に分けられる。  一つは、森林の生態調査や安全のための巡回。  これは森をエリア毎に区切って毎日行う仕事だ。妖精さんが寝る時間、食事をする時間以外は二人で森林を歩いて回る。この時ばかりは妖精さんもいつものように早歩きではなく、立ち止まって一本一本の木を丁寧に診て回った。私は側で妖精さんの木の診断結果をメモすることが仕事になった。まるで医者と看護師のように、森で待つ患者さん(木々)を毎日診察している。  そしてもう一つは、訪れる観光客や学生達に森林ツアーをして回ること。  妖精さんは先頭を歩きながら話をして回る役目で、私は後ろについて団体客の安全を見守ったり、応急処置の救急箱を持ち歩いて何かあった時に素早く対処できるようにしたりする役目を担う。  けれどもリュックの中の水筒や救急箱を使ったことはまだ一度もない。だから特に何をするわけでもなく、私にとってはただ団体客に混ざって妖精さんの話を聞く時間となっている。妖精さんもそれは承知の上のようだ。私に森の話を聞かせてくれるつもりで、ツアーが入っている時は必ず私に手伝いを頼んでくれる。  そして今日は、樹木葬を希望している年輩層の人たちが集まって妖精さんの話を聞くことになっている。  こういったツアーは妖精さんが応募をかけるわけではなく、取り仕切っている会社が別にあって、そこから妖精さんに依頼が来る仕組みになっているらしい。  今回の団体客は、南ドイツの中心地であるミュンヒェンから大型バスに乗ってやってきた。市内を観光した翌日に森へやってきて、妖精さんについて回る。私もその後ろに並んで森を歩き始めた。  森の入り口から少し進んだところで、妖精さんは立ち止まって後ろを歩く団体客を振り返った。  「みなさん、よろしければここで深呼吸をしてみてください。ほら、こうやって」  妖精さんは腕を左右に目一杯に広げる。胸を少しだけ反らせるようにして鼻から深く息を吸い込み、口から長く、細く息を吐き出している。  それを見た老紳士と老婦人たちは互いに距離をあけ、それぞれのタイミングで妖精さんの真似をして深呼吸を始める。私も列の一番後ろで深呼吸をした。  目を瞑り、何度も深呼吸を繰り返す。そのうちに思考が停止し、耳の感覚だけが研ぎ澄まされた。周りではサワサワと葉が囁く音が聞こえる。この森に来て一度深呼吸をした時に感じたことだけれど、私はこの身体中の空気の流れが水となって浄化されていくような感覚が好きだ。  目を開けると、瞳を輝かせた老婦人と目が合った。お互い恥ずかしそうに笑い合う。老婦人の目尻には細かい皺がたくさんできていた。  「どうですか。どんなことを感じましたか」  妖精さんは、いつもそうするように団体客に質問を投げかけた。前の方にいる、豊富な白髪をきっちりと七三に分けた老紳士がそれに答える。  「そうですね、森の空気に抱擁されているような感覚がします。それから、久しぶりにこんなに美味しい空気を吸って、私の肺は喜んでいるようだ」  団体客からは静かな笑い声と賛同する声が聞こえた。確かにそうだ。森の空気は美味しい。  妖精さんは男性の声に頷き、それから指を天井に向けて答えた。  「森はご覧の通り葉の天井で覆われていますよね。この葉、一枚一枚がフィルターのような役割を果たしているとされています。そのフィルター作用によって森の中は塵や埃が少なくなり、空気が澄んでいるという理由わけです。  都会よりも本当に森の空気が美味しいのかどうかは、私も是非味比べをしてみたいところですがね」  「今度またこちらに来る機会があれば、私が都会の空気を瓶に詰めてお持ちしましょう」  先ほど答えた老紳士が冗談を口にする。どっと周囲が沸き立った。  「ええ、それは是非お願い致します」  妖精さんはまるで本気のような笑顔で答える。みんな上機嫌でまた森の中を進み出した。  樹木葬を検討するツアーと言っても、この森の中に自由に埋葬できるわけではないので、妖精さんは木々の特徴や性質についてを参加者に語って聞かせた。  「ナラの木はここヨーロッパではキング・オブ・フォレストと呼ばれていることは皆さんご存じの通りでしょう。養分が豊かで日当たりの良い、少し乾燥した土地で育ちます。  それから、ナラの木は幹に深い傷が入っても、雷に打たれて裂け目ができてしまっても、賢明に生きていく力を持っています。それゆえに力強さや忍耐力の象徴とされていますね」  「ブナの木が他の木と圧倒的に違うところは、生涯にわたって成長できるという点です。この森でも日光を浴びて立派な樹冠を広げているブナの木が多く生息しています。  それから、ブナは秋になると黄色から褐色へと紅葉していきます。我々の目を楽しませてくれる樹木です」  参加者は、どの人も熱心に妖精さんの話に耳を傾けている。メモを取りながら聞き入る人もいた。この人たちはどれほど木々を愛して樹木葬を望んでいるのだろうか。一向にわからない答えを探しながら、私も妖精さんの話を聞いていた。  「みなさん、樹木は地に深く根を張って生きていますよね。私たちのように歩くことはできない。  でも、地球は何百年という単位で気候が変動し続けています。樹木が根ざした土地が未来永劫、樹木にとって生きやすい土地であるとは限らないのです。  そうなると、樹木だって生きやすい土地に移動する必要がある。そして、実際に樹木は温暖化の影響で北へ北へと移動し続けている。歩けないのに、です。  ではどのようにして移動しているのだと思いますか?」  ツアーも終盤に差し掛かった頃、妖精さんが今までで一番難解だと思われる問題を出した。  時刻は15時半を回ったところ。あと三十分で妖精さんの就寝時間がきてしまう。  早く誰かに答えて欲しいけれど、誰も声を上げなかった。時間だけが過ぎていく。妖精さんは参加者にたっぷりと考える時間を与えた後で、静かに語り出した。  「実は、樹木も赤ちゃんの時だけは移動することができます。そう、種子の時です。細かい毛を身にまとって風に乗り、何キロも先へ飛ぶポプラやヤナギもあれば、リスの力を借りて移動する種子もあります。  つまり、樹木は世代交代をすることで移動しているのです。気候変動は樹木にとっても重要な問題ですから、その変化に耐えるために移動するのですね。慣れ親しんだ土地を離れて新たな土地へと向かっていくのです」  妖精さんが瞳を周囲の木に向けた。目を細め、眩しそうに樹冠を見つめる。  それから団体客に視線を戻す時、妖精さんと目が合った気がした。  「樹木だってこのように新しい土地へと移動していくのです。それなのに自分の足で歩くことのできる私たちが、新しい変化を恐れて立ち止まってはいけない。  木々を見る度に私はそう学ばせてもらっています。  みなさん、本日はツアーお疲れさまでした。また機会がありましたら是非お越しください。森はいつでもみなさまをお待ちしております」  15時50分。妖精さんのツアーは終わった。  その後、質問しようと妖精さんに駆け寄る参加者を上手いこと煙に巻いて妖精さんを無事に家へと送り届けることが、森林ツアーでの私の最大の仕事だ。  今日も二人の老夫人をなんとかかわし、妖精さんと私は小屋まで小走りをするはめになった。  「もう。あと10分しかないじゃない。今までで一番時間がないよ。それなのにおばさま達は妖精さんを離そうとしないし」  「あはは。今日はみんなが熱心に聞き入ってくれるからつい力が入っちゃったなあ」  「もう少し時間に余裕をもってくれなきゃ困るよ。そのうち、お客さんの前で倒れても知らないからね」  「葉ちゃんが居てくれるから、きっとそうはならないよ。大丈夫」  妖精さんの瞳がこちらを見ていることはわかっていたけれど、私は妖精さんの方を見ないようにして小屋まで急いだ。  16時まで残り1分のところでようやく到着する。私は玄関を開ける妖精さんを見守った。  「今日もありがとう、葉ちゃん」  家の中に一歩入った妖精さんが私を振り返り、いつもの言葉をくれる。  「もう、今日はそういうのいいから。早くドアを閉めて、ゆっくり休んでね。鍵を閉め忘れないで」  「心配性だなあ。葉ちゃんは。  じゃあ、また明日ね」  「明日」。  妖精さんにとっての明日は、後三時間後だ。だけど、今の意味は私にとっての明日だとわかる。妖精さんはいつもそういう時間を間違えない。  私は、ガチャリと鍵の閉まる音を聞いてから小屋を離れた。  妖精さんの就寝時間は、0~3時、8~11時、16~19時だ。  逆を言えば、起きているのは3~8時、11~16時、19~24時となる。私の活動時間はだいたい7時~遅くとも24時まで。だから妖精さんの最初の起床時は一時間しか時間がかぶらないから仕事にならないし、最後の起床時は夜が遅いので仕事はない。私が妖精さんのお手伝いをできるのは昼食後の12~16時の4時間しかない。森林ツアーも、森の巡回も毎日その時間帯に配置された。  妖精さんは、いつも起きている時間に何をしているのだろう。3~8時の間は早朝すぎて日が昇っていない季節もあるだろう。暗闇の中で森に入るのは危険だからきっと仕事はしていないはず。  19~24時の間だってそうだ。仕事はできないし、街の人たちも寝る準備を始める頃だから妖精さんだってどこかに出かけたりはできない。  毎日一人で、暗闇の中で起きていなければならない妖精さんの生活。想像するだけで胸に痛みが走った。  次の日も、私はいつも通りに早めの昼食を終えて12時に妖精さんの家のドアを叩く。  妖精さんはドアを開けて、私を小屋の中に招き入れてくれる。仕事を始める前に妖精さんの煎れてくれるハーブティーを飲むことが日課になっていた。今日はベルガモットの爽やかな香りが小屋の中に充満している。  「美味しい。今日のハーブも森の中から採ってきたの?」  「まさか、違うよ。ベルガモットは家庭菜園から採ってきたんだ」  「妖精さん、家庭菜園なんてしているんだ」  「うん。この小屋の近くでね。  意外かな?」  「ううん、妖精さんがハーブを育てている姿は想像がつくんだけど……その……いつやってるのかなって思って。  ほら、日中は毎日私と仕事をしているから」  「そうだよね。葉ちゃんは僕の森林の中での姿と、倒れて寝ている姿しか見ていないんだものね。僕がいつ、何をやっているのか不思議に思うのも無理はないよ」  「変なこと聞いて、ごめんなさい」  「そんなことはないさ。大丈夫だよ。  ハーブはね、朝方に見ているんだ。朝の3時に目覚めても誰も僕の相手なんてしてくれないからね。ハーブに相手をしてもらっているんだよ」  「でも、そんな時間に外に出たら真っ暗でしょう? 危なくないの?」  「厳密に言うと、朝の3時に外には出ないよ。ハーブは7~8時位の間に見に行くんだ」  「じゃあ、3時~6時の間は何をしているの?」  「6時には朝ご飯を食べているね。  3時に起きてからは、毎朝その日に食べるパンを焼いて過ごしている」  「パン? 妖精さん、パンを焼くの?」  「そうだよ。この間ごちそうしたパンもすべて僕が焼いたんだ」  「そうだったんだ……驚いた。どれもすごく美味しかったよ」  「ありがとう。葉ちゃんはパンが好きだったね」  「うん、大好き!  でもこの町にはパン屋さんが少なくて嘆いていたところだよ。  この町に着いてから大好きなプレッツェルが食べたくてパン屋を探したの。でもどこを歩いても結局ドーナツ屋しか見つけられなくて。ドイツの人たちはパンを食べるイメージだったけれど、あまりパンが好きではないのかな」  「いや、そんなことはないよ。  ドイツのパンは他国と比較しても種類が多いことで有名なんだ。一つのパン屋で扱う商品は、たしか1200種類ほどあるのだとも言われているくらいだよ」  「それはすごい! 日本のパンより種類が豊富なんだね。  でもそれほどの種類があるのに、どうしてパン屋は少ないの」  「実は、昔はもっとあったらしいんだ。昔ながらの良質なパン屋というものが。  けれども、時代は『材料の安全性』を気にするようになり、『節約志向』にも傾いた。そうすると、成分が安全で、かつ安価なパンが喜ばれるようになったんだ。量販チェーン店に激安パンが並ぶようになるにつれて、町からベーカリーの姿が消えたみたいだよ」  「なるほど、そうだったんだ。安全で安くて美味しければ言うことなしだもんね。  でも、妖精さんはどうしてその激安パンを買わずに自分で毎朝パンを焼いているの?」  「え?」  妖精さんの目が大きくなる。  「だって、森の近くの小さな小屋から朝方にパンの焼ける匂いがしてくるって、幸せの象徴でしょう? だから毎朝パンを焼くんだ」  妖精さんは、大真面目な顔をしていた。  私は思わず吹き出してしまうところだったけれど、あまりにも妖精さんの瞳が真っ直ぐなので笑うことはないのだと思い直した。幸せの形は人それぞれ。妖精さんの幸せの形は、プレッツェルみたいな丸いハート型をしているみたい。  「そうだね。それって、すごく幸せかも」  妖精さんは満足そうに微笑んでハーブティーを啜った。  「ねえ、私もパンを焼いてみたいな」  「本当?」  「うん。私もパンが好きだから、もし良かったら一緒にパンを焼かせて欲しい」  「もちろんだよ。でも早朝だけれど大丈夫?」  「道は暗いけれどマイスターの家から妖精さんの家までは一本道だし、近いから大丈夫だと思うの。  問題は早起きの方かな」  「僕が起こしてあげようか? 電話でもしてさ」  「ううん、家の人たちに迷惑になっちゃうかもしれないから大丈夫。なんとかして起きるよ」  「そう。じゃあ、その日は朝パンを焼くことが葉ちゃんの仕事としようか。日中の森林巡回はお休みして大丈夫だよ」  「え、でも……」  「僕はまた眠ってから仕事に取りかかれるから平気だけれど、葉ちゃんはそんなに早起きして朝から動き回っていたら大変だよ」  「私も一度仮眠すれば平気だよ」  「ダメ。体内時計を一度にそんなに狂わせない方が良い。その日は朝から動いて、夜は早めに寝るんだ。そうして次の日はまたいつもより早く目覚めると良い。徐々に時間をずらしていって、いつもの時間に目覚めるまで調整する。  そうしないと、いつまでも身体の不調が長引くことになるよ」  妖精さんからはいつにない気迫が漂っている。これ以上反論しても許してもらえそうにない。  「うん、わかった」  「いい子」  妖精さんは私の頭をくしゃりと撫でた。  パン作りは、結局森林ツアーのない週末を前にした金曜日に行うことになった。土日に私の妖精さんの仕事の手伝いがないため、次の日にゆっくり休めるようにと妖精さんが配慮してくれた結果だ。体内時計の調整に厳しい妖精さんには、私は逆らえない。きっと多くの苦労があったと思うから。  妖精さんは、私に暗い道を歩く時に使う懐中電灯を持たせてくれた。  木曜日の仕事終わりは慌ただしく過ごした。マイスターの家に戻って夕食を済ませ、みんなに事情を話して一番にシャワーを借りる。妖精さんの家で早朝からパンを焼くと説明すると、マイスターは一瞬だけ不思議そうな表情をしていたけれど、特に何も聞いてはこなかった。  マイスターの奥さんからは、「できればうちの朝食の分のパンをもらってきてちょうだい」とにこやかに言われた。  シャワーの後はすぐに自室に籠もって布団をかぶる。早く寝ようとすればするほど眠気は遠ざかっていくようだ。頭も冴えて、考え事ばかりしてしまう。  そういえば、昔、受験前日でなかなか寝付けない私におばあちゃんが眠りにつく方法を教えてくれたっけ。久しぶりに試してみよう。  仰向けに寝転がり、目を瞑る。目、口、首、肩、腕、指先、腰、足、足の先、と、順番に身体中の力を抜いていく。ゆっくりと自分のペースで呼吸を数回繰り返すと、目の前には青空が広がるようになった。空には雲が流れている。耳元では川のせせらぎが聞こえる。私はいつの間にか小舟の上で寝転がり、ただ川の流れに身を任せていた。  そういう想像をしていると、いつの間にか眠ってしまうというやつだ。あまり考えすぎないようにするコツが必要だけれど、受験前日の私にはこれがよく効いた。そして今回も、気が付けば2時45分のアラームが鳴っていた。  夜明け前の町に出ると、明け方というよりはまだ夜中の空気だった。闇が体中にまとわりついてきて、とても寒い。  でも妖精さんの懐中電灯はとてもよく道を照らしてくれた。私の進むべき道だけ、懐中電灯のおかげで明るく照らされている。  田舎ということもあってか、特別に怖い思いをせずに妖精さんの家までたどり着くことができた。ドアをノックすると、私より安堵している妖精さんの顔が目の前に現れる。  「無事に着いてくれて良かった」  自分はドアの前で平気で眠ってしまうのに、他人のこととなると心配性だな、妖精さんは。  小屋の中は明るく、暖炉のおかげで少しも寒くなかった。それだけで、妖精さんはすでに起きて準備を整えてくれていたことがわかる。私は眠くてしょうがない頭をやっとの思いで起こしてきたけれど、妖精さんはスッキリとした顔立ちだ。私はこんなに顔がむくんでしまっているというのに、なんだかズルい。  けれど、私たちのその違いは妖精さんがいつもこの時間に起きていることを証明しているみたいでもある。  「早速、始めようか。粉が飛び散るから、このエプロンを付けてね。  さあ、始めよう」  ダイニングテーブルの上には大きな木製のボウルと、パンを打ち付けるであろうシートが敷かれている。妖精さんはその大きなボウルに小麦粉を大量に入れ始めた。  「このボウルに、砂糖、塩、イースト菌、お湯を注いでいこう。入れる順番と場所を指示するから、葉ちゃん、やってみて」  砂糖と塩などはそれぞれ計量済みのようで、個々の小さなボウルに入っている。私は腕まくりをして臨んだ。

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